ふわふわしてお砂糖みたいに甘い匂い。あったかくてすべすべしてギュッてすると気持ちがいいものな〜んだ。

「答え:密さん」

 お酒を飲んだ次の日はだるいような逆にスッキリしたような気分になる。多分眠りが浅いせいで目覚めがはっきりするし、アルコールの残った身体は引きずるように重いから。
 胸に抱きしめた密さんは身じろぎもせずぐっすり眠っている。ほとんど上下しない胸に呼吸をしているのかも怪しい。私はお酒を飲んでも記憶を無くすタイプじゃない、むしろ忘れられないので翌日に昨夜の醜態を後悔するタイプなのに、なぜ密さんがここで寝ているのかがどうしても思い出せない。とりあえず目覚めた時に身に覚えのないラブシーンが目の前で繰り広げられてたのに悲鳴をあげなかった自分を褒めてあげたい。いや、何もなかったのだろうけれど。元カレと間違え、とかじゃないといいなあと遠い目をした。兎に角何かあったとしても何もなかったとしてもこれがカンパニーの人にバレたら絶対面倒臭い事になるし、最悪ここを追い出されてしまうだろう、というのはわかった。
 時計を見るとまだ五時半だったのでまだみんな寝ているはずだ。みんなが起きてくる前に密さんをどうにかしなければならない。なんだか殺人犯が死体を隠すみたいだなぁと思いながら密さんをどこに遺棄するか考える。起こしてもいいのだけれど、密さんを起こすのは物凄く大変だと言うことはここに一ヶ月もいない私ですら知っているので。
 マシュマロを使っても良いがそれでもなるべく手早くこの部屋から放り出さなければ。もしかしたら昨夜の私の恩人か何かかもしれないけれど、ともかく私はいま我が身が可愛かったのだ……!ふんっと密さんの首の後ろと膝の下に入れた手に力を入れてみたけれど、お姫様抱っこは無理だった。あれは意外にも抱かれている方の協力がないと不可能な抱え方なのだと知った。寝ている人間は重いし扱いにくい。引きずるしかないか?そう決意して扉を開けたところで、思いっ切り劇団の人に会ってしまった。

「う、卯木さん……」

一応ドアに耳をつけて足音を確認したつもりだったのに。両腕を羽交い締めにして引きずり出した密さんまでバッチリ見られてしまった。

「おはようレイさん」
「おはやうございます……」

にっこりと音がするような笑顔で挨拶をされたので、なんて言うか、言葉以上の文脈が伝わってきた、んだけれどそれは無視して挨拶だけを返した。と言うか説明すべき文脈がわからなかった。そもそも卯木さんは入団したばかりだし、なんて言うか誤魔化されてくれないかなあ(希望と絶望の間)

「それ捨てるの手伝って欲しい?」

笑顔を崩さないまま尋ねる卯木さんにゾッと背筋か凍る。まだ深くは知らない人だけに恐怖を覚えてしまった。でも見られてしまった以上共犯にするのが一番安全な気がする。そもそも私一人じゃ運べないことはわかったんだし。こくこくと無言で首を縦に振れば、密さんを軽々と抱き上げてしまった。
 流石に有栖川さんが寝ている部屋には入れないので談話室のソファーに毛布とともに寝かせてもらった。

「ねえ、二人は深い仲なのかな?」

じとっとした瞳で囁かれた。そりゃあ劇団で恋愛沙汰があると思えば嫌な気持ちになるのも分かる、しかも相手が昨夜失恋だなんだと騒いでた女なら余計に。
「あの、言い訳に聞こえるかも知れないんですが、全然そう言うのじゃなくって。多分密さんは懐いたら誰に対してもこんな感じなんじゃないのかなって思うんです。そのペットみたいに言うのはあれなんですが」

「そうは思わないけどね」
「え?」

小さい声で何かを言ったのは聞こえたのに、なんて言ったのかがわからなかった。聞き返そうと思ったのに、卯木さんの唇に人差し指が添えられシィーっとされて下を指を差された。成る程そろそろみんな起きてくる頃かも知れない。

「あの、ありがとうございました」
「別に構わないよ、善意じゃないからね」

そう言って颯爽と去って行ってしまった。至さんと同じ会社だと聞いたんだけど出社時間が違いんだろうか。ビシッとスーツをキメた卯木さんの後ろ姿を目で追って視界から消えてから部屋に戻る。
 それにしてもうーん、良い人なのか悪い人なのかわからないなあ。








 なんの取り柄もなさそうな女にディセンバーが懐いているのを見るのは、家族を捨ててのうのうと生きているのを見つけた時より吐き気がした。まあ一応計画の為には使えそうだなと思う、劇団も彼女にも死ぬほど興味は持てないが。
 ああ、愛だの恋だの虫唾が走る。俺たちは死ぬまで、生きることを楽しむなんて許される訳がないんだから。









 いづみさんの代わりに(なったかどうかは別として)他の劇団のお手伝いに行ってきた。お手伝いだったはずなのにほとんど役に立たず勉強させてもらった感じになった。電車で反省しながら帰ってきて多分相手の劇団さんもそれを承知だったんだろうなぁと思った。物凄く疲れたけど、新しいことを知るのはすごく楽しい。会社にも慣れてきた頃だったから新人という立場が久しぶりでなんだかわくわくした。毎日は新しく変わっているのに、それを昨日と同じだと思っていたのは私の思い込みだったのだ。寝不足もあって寮に着いたらすぐに寝てしまいそう。なんて半分意識が飛んだまま歩いていたら不意に知っている声に呼び止められた。

「綾波さんだよね?」

 帰宅する人のざわめきの中でただどこかで見た人だなと思った。それほどついこの間まで勤めていた会社は遠い存在になっていた。声をかけてきた人は同じ部署のお昼ご飯だって何度も一緒に食べた人だった。たぶん友達だったんだと思う。それなのに辞める時も辞めた後もちっとも思い出さなかったなと思った。私ってなんて酷い人間なんでしょう。そうだったとしてもあまり話したい相手ではなかった。傷はまだ生々しく痛み、かと言ってそれを説明したい相手ではないのだ。

「心配したんだよ〜!引っ越したんだよね?新しい家はこの辺なの?」
「あ、うん。えっと」

 おそらく誰から見ても引き攣った笑みだったはずなのに、相手の子は特に気にせず話し続ける。彼の名前が出てきたのは辛うじてわかったので、きっと新しい彼女と上手くいっているとかそんな話をしてるんだと思う。でも私は二人について何も聞きたくなかったし、辞めた会社のことなんて更にどうでも良かった。段々気持ち悪くなってきて立っているのもやっとだった。それでも目の前で嬉々として話を続ける彼女から逃げる選択肢があるのに気がつかなかった。

「レイ?」

グッと肩を引き寄せられて、遠のいていた街のざわめきが戻ってきた。

「あ、卯木さん」
「いま帰り?言ってくれれば迎えに行ったのに」

 明らかに見せつけるように演技をしてくれているのに気がついたのは、目の前の彼女がさっきまでの話を放り出して卯木さんに夢中になっているのを見てからだった。馬鹿な私は「下の名前覚えていてくれたんだなあ」なんてそんなことを考えていた。

「え、彼氏?!めっちゃイケメンじゃん!もしかして二人とも結構前から別れる感じだったの?!」
「えっと、この人は彼氏じゃなくて」

 どうこの場を切り抜けようと頭を働かせ始めてたのに、またナイフのように刺さった言葉のせいで思考が止まる。二人ともって、別れるまで何も気が付かなかった私はなんなのだろう。

「まだ、彼氏じゃないんだ」

 私には腰に回された手を振り払う気力も逆にその腕にもたれる度胸もなく、ただ突っ立っていた。そんな私を機にする事もなく卯木さんは、残りの会話全てを引き受けてくれた。回らない頭で、劇団にすぐ受かっただけはあるなあと思った。私なんて取り繕うことすら出来ずにただ泣いているだけだ。三角くんの手を取ってから、私は何も変わっていない。

 駅から離れたところで卯木さんの身体はさっと離れた。

「貸しひとつでいいよ」

 壊れた蛇口みたいに止まらない涙のせいで上手くお礼を言えない私に、卯木さんは冷めた目をして言った。
昨日はじめて会った人間に対する態度として真っ当すぎて慰められるより心地よかった。
私の安心したような態度が不服だったのか卯木さんが露骨に嫌そうな顔をした。あまり感情を表面に出さないタイプだと思っていたので、その態度が卯木さんぽくなさそうでおもわず笑ってしまった。

「好きだったんです。確かにお互いそう思っていた時もあったはずなのに、そうじゃなくなって……。あの時間が意味のないものになるのが、この気持ちが無くなったら自分がどうなるのか……それが怖くて、まだ受け入れられないんです」

 卯木さんが黙ってこちらをじっと見た。さらけ出してしまえば後は怖いものなどなくなった私は同じく卯木さんを見つめた。瞳の中の深い色が揺れるのをみて、彼の持っている感情の激しさに驚いた。それでも彼はそれをすぐに隠して言った。

「知らなかったことにすれば居場所くらいは奪わないであげるよ」

わたしは頷いて目を閉じた。
これは契約だ。欲なんてないくせに、卯木さんは長いキスをした。