今までの事、これからの事、劇団の事、自分の事。
考えても仕方のない事柄がぐるぐると渦を巻いて、ぽとんと落ちた意識はあっという間に不安の波にのまれていった。会社の同僚の声が頭の中にわんわんと鳴り響いて、いくつかの思い出が……忘れようと強く願った彼の別れの言葉がフラッシュバックする。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
 疲れているのに熱くなった頭は睡気を追い返してしまい、たくさんの衣装ケースに囲まれた布団の中で何度も寝返りを打つ。こんな風に眠れない夜は全て捨ててしまいたくなる。今まで積み重ねた過去も、これから築いていくはずの未来も。身体も心もぜんぶ。
 でも、あの日私の手を取ってくれた、あの熱を忘れられなくて涙が溢れた。
 一度起きて牛乳でも温めて飲もうかと思うものの、キッチンで誰かに会ってしまったらと思うと身体を起こす気にはなれなかった。正直、卯木さんに会うのも気まずいけれど、お互い契約関係なのでまあ、割り切れる。それよりも他のみんなだ。みんなには会いたくないのではなく、合わせる顔がないのだ。この劇団にいる人たちはみんな優しくて、真っ直ぐで、きらきらしているから。
 こんな素敵な人たちがいるのに、反対に私は好きだった人に愛想を尽かされたのにショックを受けて衝動的に四年もいた会社を身勝手に辞めて、その上その時同僚を疎ましく思っている。彼らに優しくして貰えるような人間ではないのだ。こうやって布団の中で言い訳だけ心の中でして、それで、また明日から彼らに甘えるような浅ましい人間なのだ。
 天窓からは薄明りが差し込んで、埃が青く反射しながらゆっくりと落ちてくる。ようやく瞼が重くなった頃、夜明けが近いのを知った。



 太陽の眩しさに耐えきれなくなって、意識が覚醒する。
 電気のスイッチは切ったままなのに明るい室内に慌てて時計を確認すると十時を少し過ぎた所だった。盛大な寝坊に、サァっと血の気が引いた。ばたばたと着替えてキッチンへ向かうと朝は賑やかなそこがしん、としていた。水切りかごには洗い物が盛られ、流しは水で濡れている。昨日の陰鬱の気配が身体に残っていて、私だけこの広い家に置いて行かれたような気持ちになった。
(いやいや、しっかりしろレイ!腑抜けるのもいい加減になきゃ)
 漫画みたいに頰を叩いて気合を入れる。午前中までに寮の掃除をして午後から事務作業をしよう。
 そう思って立ち上がる私は忘れていた。
 何事もうまくいかない日というものが存在するのを。



 夕食が終わった後、私はボロボロになったワイシャツを手に真澄くんの前に立っていた。
「本当にごめんなさい!」
 室内のどこから楽しそうに笑う声が暗い中庭に居ても聞こえる。私は真澄くんを呼び出すと頭を下げた。目の前に居る彼はじっと立ったまま何も言わない。
 他の災難は私が困ったり痛い思いをするだけだったのだが、不注意で真澄くんのワイシャツまで犠牲になってしまった。ついてしまった血液は頑張れば落とせると思うけれど、破れてしまったところもあるので買い替えた方がいいだろう。転んだ時に出来た傷がズキズキと痛む。でもそれよりもこの沈黙が痛い。
「シャツを売ってるお店が今日はお休みで……、明日代わりのものを買ってきます」
シャツは量販店で売っているものだと確認をしたのだが、もしかしたら大切な人に貰ったのかも知れない。どうしよう。それでは見た目が同じものは買えるけれど、真澄くんにとっては別のものだ。
でも、許して貰えなくとも、私には謝る事しかできない。ここから出て行けと言われたら……。そうするしかないな、と再度頭を下げると、真澄くんの視線は腕に注がれていた。反射的に腕を背中に回して隠す。傷自体は大した事ないのだが、臣くんに貼って貰ったガーゼが少し目立つ。
「ねぇ、好きな人を諦めるのってどんな気持ち?」
「ぐさっ」
ずっと頭を下げている訳にもいかず、頭をそろそろと上げると言葉のボールが豪速球で目の前を通り過ぎていった。浴室で転んだ時よりも食器棚の扉に頭をぶつけた時よりも鋭い痛みが胸を刺す。真澄くんのシャツを駄目にしてしまった事に対する仕返しなのかと思って諦め半分で、視線を合わせた。それなのに、真澄くんの瞳には意外にも真剣な光が満ちていて、質問が嫌味ではないのだと気が付く。
 少し逡巡して自分の気持ちを正直に口にした。
「私の場合は好きが通じ合った時もあったから、なんだろう……全部否定された気がしたんだよね」
真澄くんはその美しい眉を顰めた。
「全部って?」
「ぜんぶはぜんぶだよ。生まれてきてから今日までの私の人生と、その人と過ごした時間。その人と過ごすはずだったこの先の未来。私がいらないってそう言う事だと………思ってたんだけど」
「うん」
私の纏まらない言葉の続きを待ってくれる彼は凄く優しい。なんで、満開カンパニーの人たちはこんなに他人を思いやれるのだろう。私なんて自分の事で精一杯なのに。
「違うよね、やっぱり。そんな訳ないもんね。確かに私は振られたけど、私も、思い出も捨てなくても良いもんね。私が持ってれば……大切にしてたって良いんだよね」
そう口にしてから、悲しいとか苦しいと訴える心が救われた気がした。真澄くんが聞いてくれたおかげだ。うだうだ考えるよりも、私が私を認めてあげれば良かったんだ。なんでこんな簡単な事に気がつかなかったんだろう。
感謝も込めてにっこりと笑うと、真澄くんが犯罪者でも見るような目をした。
「ストーカー?」
「違う違う違う!諦める心構えが、やっと出来たと言いますか!」
あらぬ方向に勘違いしている彼に慌てて早口で挽回する。これ逆に怪しくない?!大丈夫?!
「えっと、裏切られたって思うのも、私が悪かったって思うのもどっちも違うなって。それに気がつけたのは、真澄くんのお陰だよ」
そう続けると真澄くんは怪訝な顔をする。
「別に。俺が監督と結ばれない訳ないし」
「ふ、あはは。真澄くんは本当にいづみさんが好きなんだね」
「アンタには関係ない」
真澄くんは照れたようにふいっとそっぽを向いてしまった。あまり喋っているところを見ない(見ても大体はいづみさんに求愛してる)ので、なんだか新鮮だ。
「私はいづみさんに出会ってからまだ日が浅いけど、すっごい素敵な人だなって思うよ。私とは全然違うもん。誰かに取られちゃわないか心配にもなるよね」

 碓氷真澄は、目の前の女をはじめてまじまじと見た。いや、さっきまでも視界に入っていたのだが、登場人物ではなかったのだ。それなのに。急に己の大切なところに触れてきたので、驚いてコイツは一体誰なのだろう、と思った。
 監督に一目惚れして、劇団に入って、共に過ごした一年間、あの人はずっと手の届かない場所で輝いていた。他の連中に俺が劣るとは思いたくないけれど、いつだってやきもきしている。
 それを急に現れたよく分からない失恋女に言われるなんて、と思ったのに隣に座る彼女の子どもっぽい横顔に何も言えなくなった。
「でもさ、もうちょっと待っててあげて欲しいな。真澄くんが未成年なのは真澄くんのせいじゃないんだけど、大人は子供を守らなくちゃいけないから」
 胸がいっぱいになったのは、アイツへの愛が溢れているだけでコイツのせいなんかじゃない。それなのに。
「大丈夫。いづみさんは歳が離れているからって、それだけで真澄くんを拒んだりしないよ」
じわり、と涙がにじむ。誰が許そうとも俺が子どもである俺を許せない。
「っ、アンタは?」
「私?真澄くんはここに来て一年経つんだよね」
その言葉にこくりと頷く。大丈夫、浮かんだ涙はもう飲み込んだ。
「それじゃあ、せんぱい!だね」
馬鹿みたいに笑った彼女のせいで、パッと視界が弾けた。
 大切なものなんてなかったのに、一目惚れから始まった世界の中でどんどん手放したくないものが増えたせいで身動きが取れなくなる。もうこれ以上要らないと思うのに、彼女の温度が胸の中にじんわりと染みていくのが分かった。



◇◇◇



 横断歩道の前で点滅する信号にまあいっかと立ち止まり、気の抜けたまま行き交う車を眺めているとパッと信号が青になった。群れのように一斉に歩き出した人波に流されるように足を動かしていると、だらんと下げていた手にするっと温かな感触が入り込んで来た。驚きながらも反射でそれを握ると、下の方から「お母さん!」と子どもの声がした。
「お前……、母親だったのか」
「えっ?!」
ぎゅうと握りしめた小さな手のひらよりも、見知った声に目を見開く。声のした方を視線で探ると、古市さんが顰めっ面をしながら子どもの反対側の手を握っていた。明るい髪色の男の子は機嫌が良さそうに古市さんの手を乱暴に揺すっている。眼鏡を外した(ところは見た事無いのだけれど)古市さんに似てなくも……ない?
「……隠し子?」
「あ?」
ポツリと溢れた一言に、殺気立った視線が針のように刺さるのを感じて慌てて顔を背ける。
「いえ、なんでも。この子、古市さんのお知り合いですか?」
「知り合いに見えるか?」
ため息を吐くように返されて返答に窮する。見えているから聞いたのだけれど、今の口ぶりだと一緒にいるのは迷子を保護したとかそんな理由なのだろう。
「このままだと人攫いになっちゃいますね。ぼくなんてお名前?どこから来たの?」
信号を渡り切ってからしゃがんで男の子に目線を合わせた。ひとりぼっちなのにその目はきらきらと輝いていて何だか凄く楽しそうだった。彼が興奮気味に喋るところによると、どうやら何処かの劇団のストリートアクトがとても格好良かったらしい。間近に見たお芝居の迫力を伝えようと私たちに一生懸命に話す姿が知っている誰かを彷彿とさせた。
 話があっちにいったりこっちにいったりするので理解するのに時間が掛かったが、彼の話を辛抱強く聞いていると元々はお母さんと小さい妹と公園に遊びに来ていたというのがわかった。自分より小さな子たちと一緒に砂場で遊ぶ気持ちになれず、さりとて親の井戸端会議に入れる訳もなく、あてもなく公園をぶらぶらしていたら敷地の外から楽しげな声がするのでそれにつられて、一人で歩いて来てしまったらしい。ビロードウェイにはいくつか公園があるが砂場があるならきっとあそこだろう。古市さんも覚えがあるようで自然に公園に向かうように仕向けてくれた。きっと今頃お母さんが探しているに違いない。
「すっごくカッコ良かったんだよ!」
早く家族の元へと帰してあげたいのだけれど、少年があんまりにも楽しそうに話のでもっと聞いていたいと思ってしまった。彼が話す人物像に心当たりがないのでMANKAIカンパニーのストリートアクトではないのは残念だが、劇団のお手伝いをさせて貰っている身としては誇らしい気持ちだ。
「あのね、このお兄さんもお芝居をしてるんだよ」
「おい」
古市さんは頰を赤らめて尊敬の眼差しを送る男の子の視線に気がつくと文句を言う為に開いたのであろう口を閉じた。
「本当?」
「まあな」
子どもの夢を守るのも大人の役目だ。自分で仕向けたのを棚に上げてうんうんと頷く。古市さんは公園に着くまで少年の質問に丁寧……とは言えないかも知れないけれど、答えてあげていた。劇団の中では声を荒げている事が多いが、それは彼が真面目なのだろうと思うし何だかんだ年下のメンツには優しいのは確認済みだ。まあ、私は怒られてばっかりなんだけれど。
「あれ、お母さんじゃない?」
公園の入り口できょろきょろとあたりを見回している若いお母さんを指差すと、握りしめていた少年の手はあっけなくほどけてしまった。母親に向かって大きく手を振る彼の隣で頭を下げる。
 安心したように緩んだ母親の顔は少年の安否を確認するなり険しくなり、彼には大きな雷が落ちた。さっきまで不安そうなそぶりも見せなかった彼がごめんなさいと泣き出すのを見て、思わず古市さんと視線を交わしあう。
「ご迷惑をお掛けして、すみませんでした」
申し訳なさそうに頭を下げる彼女にこちらも再度頭を下げながらこれまでの経緯を簡単に説明していると、ベビーカーに乗った女の子はお兄ちゃんが泣いているのを興味津々といった風に眺めていた。それで思わずふふ、と笑いが漏れてしまう。つられてお母さんも笑っている。まだ泣いている男の子に、鞄に入れていたチラシを渡す。
「今度は大人の人と一緒に、MANKAIカンパニーの舞台見に来てね」
 前半の部分を強調して言うと、少年は力強く何度も頷いてくれた。
何度も振り返っては手を振ってくれた男の子の姿が見えなくなるまで古市さんは隣で待ってくれていた。空っぽになった手のひらを春の風が撫でる。
「ふふふ、あの子なんだかいづみさんみたいでしたね」
「わからんでもない」
そう言った彼の表情は柔らかくゆるんでいて、古市さんといづみさんの間にある親密な空気が私にも見えた気がした。劇団の仲間なのかそれ以上なのかは分からないけれど、そんな風に想ってくれる人がいるなんて羨ましいなあと思った。(ああ、でも真澄くんとライバルになっちゃったらどうしよう!)
「買い出しか?」
「え、あ、はい!いつものスーパーに行く途中でした」
咎められた訳でもないのに、何故かスーパーに行く必要性を証明しないといけない気がして臣くんに渡された特売のチラシをポケットから取り出して印籠の様に掲げる。
「今日は卵と牛乳が安いんですよ!あとはタイムセールにひき肉がノミネートされているので、この身、朽ち果てようとも必ずや連れて帰って見せましょうぞ!」
「急ぐぞ」
節約の強い味方、ひき肉さん確保の強い意志を見せようと、私のなけなしの演技力を総動員したのに、乗ってくれるどころか突っ込みさえもして貰えなかった。
ん?それよりも、もしかして買い物に付き合ってくれるのだろうか。真意を計り損ねてぽかんとしてしまう。
「おい、卵は1パックじゃ足りねえぞ」
赤ペンで二重丸がついている牛乳と卵はお一人様ひとつまでの商品だ。でも劇団に暮らす人数を考えると、
「正直2パックでも足りないんですよね……」
「迫田を呼ぶ」
顰めっ面なのに迷いなく携帯を操作しだした古市さんと、こんな理由で呼び出される迫田さんを思って大きな声で笑ってしまう。数量限定特売品の確保の為に呼び出される迫田さんには申し訳ないけれど、3パックあれば、朝ごはん用の卵だろうが、夕ご飯を親子丼にしようがオムライスにしようが、ケチケチしないで済む。はずだ。ここは古市さんのアニキ力に乗っからせて貰おう。
 スキップでもしたいような気持ちで先を歩く古市さんの横に並ぶと、すいっと手が掬われる。
 繋がった手と手を二人して凝視する。いや、古市さんも固まっているけど、びっくりしたの私の方ですからね?!と声にならない叫びを頭の中で響かせる。誰か助けて下さい。と言うか、古市さんも何か言って……!
「ええっと、これじゃあデートみたいですね〜〜!なあんて……」
パニックになった頭で、精一杯ボケてみたものの逆効果だったらしい。チラリと横を見ると、目元を真っ赤に染めた色っぽい古市さんがそこにいた。あれ?これは何か不味いぞ?!顔がカッと熱くなり、ドッと全身から汗が湧き出る。
「〜〜ッ!!」
「アニキ〜?!どうしたんすか?!」
古市さんの耳に当てられたままの携帯から迫田さんの声が聞こえる。
「何でもない。スーパーの入り口で待っていろ」
 ピッと音を立てて通話が切れた。
「………」
無言で足を動かす古市さんに倣って余計な事を口に出さないように唇を引き結んだ。小走りでスーパーに向かいながら、どうか迫田さんに会うまでにこの変な空気が霧散していますようにと祈る。
 目的地の建物が視界に入ってきたあたりで我慢できず、盗み見た古市さんがまだ思春期の男の子みたいな顔をしていたので思わず
「意外に初心なんですね」
と口がすべってしまった。
 その結果、私は迫田さんが見ている前で華麗な手刀を食らう事になったのだった。それはとても痛かったけれど、清々しい痛みだった。