匂いがする。
 それは古ぼけたインクのような微かに甘い匂いで、仄暗い井戸から立ち上ってくるような感傷や鬼胎を孕んでいる。その香りがすると胸が無闇にぺかぺか光ってとらえどころのない匂いのフラットのやつとも、甘くて灰色で四角くて体の内側を引っ掛かれるみたいな匂いなグレイたんのとも違う騒ぎ方をする。
彼女のことはよく知らない。極東から来た物静か女の子である事件からよく僕らと一緒にいるようになった、それだけだ。
 何をする時でもひどく曖昧な笑みを浮かべる少女との関係を表す言葉を僕は知らない。

 クリスマスを過ぎた頃からフラットは熱心に彼女に構うようになった。いつでも周囲を置いてきぼりにして先走り一人で前を走り続けるあいつが足並みを揃えるどころか誰かの手を引くなんて誰が想像しただろうか。新しいおもちゃだって人目見たら飽きるくらいのやつなのに。最初は困ったように笑うだけだった彼女も段々と遠慮なくフラットに拒絶の意思を見せるようになっていった。それはフラットが嫌われていると言うより(それもあるとは思うが)彼女なりの友愛のしるしだと思う。フラットの監視役という仕事をこなしながらずっと一緒にいる僕じゃなくてもきっとそう思う。僕は彼女を目で追うようになっていった。それは彼女の仄甘い香りが見つけやすく彼女さえ見つけてしまえば自ずとフラットも目につくからであって、そこに特に他意は無い、はずだ。

「フラットさんに聞いてみた事があるんです」
ある時たまたま二人きりになった時に彼女と話をしたことがある。
「フラットさんみたいな才能を手に入れるためには貴方を喰らへば良いのかしらって。ほら、身体に悪いところがある時は治したい部位を食べると良いってあるでしょう」
僕は特に相槌も打たずに聞いていた。
「それでフラットさんはなんて言ったと思いますか」
彼女の顔の面がこちらに向けられたのでじっと見返した。その時も彼女は紅を引いた赤い唇を不明瞭に結んでいて何となく性的な匂いがした。僕が何も答えないのをNOと受け取った彼女が話を続ける。
「んんー、みたいになるだけなら食べるのは効率が悪すぎるよ、僕に成り代わるなら話は別だけど、だそうです」
全然似ていないフラットの真似をして唇を尖らせた姿は年相応に見えた。小柄で華奢で童顔なのに不思議な雰囲気を持つ少女。
「そもそもそんな意味のないことがしたいのとフラットさんがあの透き通る瞳でまじまじとこちらを見つめた時、私苦しくて、息も出来ないくらい苦しくてそれで笑ってしまいました」と彼女がぞっとするほど美しい黒曜石の瞳で言った。暗くて恐ろしいのに目を逸らすことができない。おそらくあいつもこの瞳に捕まったのだ。万物は皆生まれた時に死を内包しているからいつだって死んでいる状態へ戻りたいと思っている。彼女の瞳にはその死への願望を増幅させる力が備わっている。
 いつだって死を抱えて破壊を繰り返す彼女はひとりぼっちだ。その黒く濁った淵に身を浸したいとさえ思わせる彼女の存在は忌むことで遠ざけるか捕まえて手元で縛っておくしか対処法がないのだろう。誰だって死に抗えなくなくなるのは怖いから。魔術師にとって死は根源への到達を阻むものに他ならない。……本当にそうなのだろうか。
 そんなことを考えてた僕の横で彼女は品よく欠伸をかみ殺し澄んだ声でにゃおと鳴いた。











 パチパチと暖炉の中で薪が燃えている音がゆっくりと伸び続けていた時間を引き戻した。いつのまにか眠っていたようだ。私がまだ巫女と呼ばれていた頃の夢だった。人々は私たち一族を士農工商にはいることのできない身分にして人間扱いする気もないくせに都合の良い時だけ巫女様とすり寄ってくるしようのない人たち。でも魔術師たる私たちに彼らを非難する資格はない、だってこちらから人間を辞めてしまったのだから。
 まわりを見ると皆瞼を閉じていた。どうやら眠っていたのは自分だけではないようだ。時計を見るともうすぐ夜が明ける時刻だった。年越しのカウントダウンをみんなで迎ようと集まって過ごしたのは良いけれど初日の出を見ようとしてそのまま皆寝てしまったみたいだ。
 隣にはグレイさんがいて、反対側にはスヴィンさんとフラットさんがいた。フードを深く被っている彼女の替わりに、スヴィンさんの金色の巻き毛が添えられた整った曲線を眺める。白く透きとおった皮膚は彫刻のようになだらかな凹凸を作っている。ここで出会う人は皆美しい人ばかりだ。
 他人の顔をじっとみるのはお行儀の良いことではないなと思い、新しい太陽でも見ようと上着を羽織って外へ出ることにした。

 一日で陽が昇る直前が一番寒いと教えてくれたのは父だったか母だったか。びゅうと吹きつける風が乱暴に髪を巻き上げていく。
 寒いけれど日本ほどではない気がする。じわりじわりと空が赤くなっていく、夜が明けるのだ。
 頰に当たる太陽が温かい。目を閉じても光が私の顔を優しく撫でているのがわかる。ああ、こんな幸福な夢を見させるなんて、ひどい。





 闇を纏った香りが目の前を通って外に出たのに気が付いた。彼女は帰るのだろうかと思ってから自分でその考えを否定した。だって、一体どこへ?彼女に還る場所なんてない。グレイたん達を起こさないように彼女を追って外へ出た。
 新しい1年が始まろうとしている真っ白な朝は空気がピンと張って冷たかった。風が強く吹いていて何も羽織って来なかったのを後悔した。彼女はこの寒空の下なぜか中庭の芝生の上に直接膝を抱えるようにして座っていた。彼女はまだ僕が居ることに気がついていない。
 白が覆いつくす朝の光の中で、彼女の黒い髪だけが色彩を持っていた。瞼が閉じられているのであの瞳は見えない。気配に気がついた彼女がゆっくりと瞬きをした時僕は彼女に手を伸ばしその細い体躯を引き寄せた。