灰色の海は冬の風で波をつくって打ち寄せている。ざあざあとうねりをあげる潮に何故だか無性に胸がざわめく。この行き止まりの海岸は、年が明けたばかりだからか人はまばらだった。
音もなく現れたカモメだと思う鳥がポールの上に羽ばたきながら止まった。文字通りのお祭り騒ぎだったカウントダウンの騒ぎは冷たい風に吹かれてどこかに行ってしまった。けれど私には骨に沁みるようなこの静寂こそがまだ生まれたばかりの一年の気配に似合うと思うのだ。チャプチャプと岸に繋ぎとめられた使い込まれた小舟は波と岸に挟まれてどこにも行けない。
「鳥は自由ね」
小さく溢れた言葉に返事はなく、波の音だけが聞こえる。
灰色の空。
灰色の水面。
巻き上げられる髪を右手で抑えて海を眺める。海は行き止まりでここが果てで、なんだか私みたいだ。だってあそこに居た時からなにも変わってない。山と海に挟まれた小さな集落で、ひとりぼっちの私と。地面にへばりついて両手を掲げて、空を悠々と羽ばたく鳥を見つめてありもしない自由を願った。
そこで私はやっとこれが自身がみている夢だと気が付いた。
「俺ですか?」
「ええと、ごめんなさい先生がそう仰ったの」
図書館の閲覧室と書かれたプラスチックのプレートの下にある本棚の隙間に人が立っていた。見間違いか何かかと思ったのだが何度見てもそこには人間が挟まっている風にしか見えない。どうしようかと半刻ほどそこに佇んでいたのだが一度振り返ってしまったら見えなくなってしまった。いなくなったのなら良いかと思ったのだけれど何か悪いものだと困るので先生に報告しに行ったところカウレスを連れて行けと素っ気なく言われたためこうしてお部屋まで来たのだけれどやはり色よいお返事は貰えない。わかっていた事なのでどうやったらついて来てもらえるのかを考える。
「いや、行きたくないって事じゃなくて俺が役に立つとは思えなかったから」
何か対価を、と思ったのだがカウレスさんが案じているのはそこでは無いらしい。木偶の坊で役立たずな私が慮るのはいざ知らずカウレスさんのような方もそんな風に思うのだなとちょっと親近感を持ってしまった。十分に才能があって先生にも期待されている方だというのに。
「私が何とか出来れば良かったんですが……すみません」
「あ〜、とりあえず行ってみようか」
今回の件に心の中で親しく思ってしまった事の両方に対して謝罪を述べればカウレスさんは困ったように笑って承諾してくれた。優しくされて舞い上がってしまいそう、彼がみんなに頼りにされるのもよくわかるなと思った。
「ありがとうございます」
思わず破顔してしまったのをカウレスさんの表情が驚きに変わったのを見て気がつき慌てて顔をそらした。無作法を叱られてしまうかしらちらとカウレスさんを盗み見るととくに怒ってはいないようだった。良かったと胸をなで下ろす。忌女の私がこんな風に思うなんておかしいとわかっているのだけれど、ここで知り合った人たちには人間として接して貰いたいと思ってしまうのだ。
「うわあ、なんでまたこんなところに挟まってるんだろう?」
カウレスさんは問題の本棚の隙間に到着すると眼鏡の山を上げてからとても嫌そうに言った。
「やっぱり誰かいますよね」
「うん、誰か低級霊でも召喚したのかそれとも使い終わった死体でも埋めたのか」
「こんなところで?」
申し訳程度にかけてある隠匿魔術のせいで私に見えたり見えなかったりするらしい。なあんだ、他の人にも見えるのならば問題なかったなと思った。カウレスさんはパパッと手際よく処理をしていく。彼の魔力の色はすっきりとした空色でとても綺麗だ。
「これでよし。俺にできることでよかった」
じゃあ帰るかと目の前に差し出された手を凝っと見つめる。その手は薄く肉のついた美しい手だった。きっとそれは肉体労働をしない手で、血にもまだ濡れていないんだわ。
「綺麗な手、ですね」
自分の手と比べてもそれは一目瞭然だ。それまで彼は「他意はなくて……」ともごもごと何かを口にしていたが、私が伸ばそうと持ち上げた手を強く握るのを見てはっきりと言った。
「そう見えているだけで、魔術師の手はみんな罪で汚れている」
熱い手が私の手を固く握り締めた。私は悪い子なのでその言葉に心の底から安堵して、そしてぽろりと涙をこぼした。カウレスさんの側へもっと寄っていって私と彼の体が触れ合うようにする。カウレスさんはぎこちないだどたどしい手つきで背中に手をまわした。彼の肩口におでこをくっつける。
「そうね、みんなが悪い人で私うれしいの」
そうして彼の体温と匂いを識った。