静かな想いに誘われて、私の心の奥深く
過ぎ去ったことどもをあれこれと思い出していると、
かつて求めたものが数多く見当たらないのに、溜息が出てくる
昔の苦悩が今さらのように蘇り、時の空しさが身にしみてくる。



「ちょっとシェイクスピアやめてよ」
「んん?ミス漱石、何のことですかな?」
 執筆部屋と称された文豪サーヴァントの個室の古めかしいソファーに身を沈めていると、シェイクスピアが一冊の本を朗読しながら歩き回っている。自身の著作を読み上げる精神は、一般人にはちょっと理解出来ない。
「わざわざこんな辺鄙なところにまで静養に来ている私に、あてつけるように詩を読むのはやめてって言ってるの」
「おやおや漱石殿は傷心旅行中でしたか、それは失敬」
うやうやしくお辞儀をしてみせる彼が、憎たらしくて仕方がない。分かっていてもやっていた癖に。ちなみにもう一人の作家はこちらの顔を見るやいなや溜息をついて部屋を出て行った。ため息を吐きたいのはこっちなのに!
 この対応の差(一応気を使って一緒に居てくれるのとこちらの顔色を見てすたこらと一目散に逃げていったやつ)が既婚者と童貞の差ではないか、と思っているのは胸の中にしまっている。
 クッションを抱きながら横になっている私の前へシェイクスピアの革靴の先が現れたので、身体を起こして隣に座れるスペースを作ってあげた。
彼は長い足を惚れ惚れするような仕草で組んだ。様になり過ぎていて最早嫌味である。
「いくらそのように神妙に思い悩んでいても、舞台の向こう側から見ているものには喜劇にしか見えませんぞ」
「悩みなんていうものは総じてそうでしょ」
「ははは、まったくその通りです」
 悪びれのない笑い声に睨んで抗議したものの、それは彼を喜ばせるだけだった。全くこの展開は予想出来ただろうに、私は何故ここへ来たのだろう。ここへ来る前に見た彼の熱い瞳とそれが見つめる先を思い出して息が止まる。
 私のヒーローは私だけのヒーローではない。そして彼の瞳はいつでも違う"誰か"を見ている。その事実はどうあがいても変わらない。そう頭では理解しているのに、胸の痛みには慣れることができない。
 一層地球の反対側に帰って遠くの地から彼の幸せだけ祈っていればいいものの、少しでも彼を見ていたくて……一瞬でも背景でも良いからその瞳に映して欲しくて、未だここにいるのである。
 調子の悪い時だけ、人理が崩壊してもいいのではないかと思ってしまう。この想いも記憶も私の存在する世界全てがなかったなら、いいのにと。……本当に調子の悪い時だけ。
 なんと、浅ましく愚かな人間なのだろうか。
「それならば聖杯を使ってはどうですかな?面白いものが観れるならば我輩は協力を惜しみませんぞ」
「なによそれ。シェイクスピアが楽しいだけじゃない」
腹いせに抱えたクッションを押しつぶしたり引っ張ったりしていたら、批難がましい視線が横から飛んできた。そんな目で見るなんてひどい。シェイクスピアは本当に私を欲しがっている訳じゃないくせに。
「そりゃあ、悪役がどうしても必要なら考えないこともないけど。今は困るほどいるでしょ」
だってずっとピンチなのだから。一難去ってまた一難どころか、ずっと世界は終わりそうなのに。
 それに残念ながら好きな人が窮地に陥るのを眺めて楽しむ性癖はない。私には破綻が見えている享楽を選べるほどの度胸もない。
「あーあ」
ぼすんとシェイクスピアの肩に寄り掛かると深い薔薇の香りがした。かっこよくていい匂いがするなんてずるい。
「そんなことしていると彼が飛んできますぞ」

 シェイクスピアは彼女を抑制するセリフとは反対に、肩にのる小さな熱い塊に手を伸ばした。生きている人間の心地よい重さと熱にうっとりとする。数回撫でてやると、黒い瞳がこちらを向く。揺らいでいるのは涙のせいか、高ぶりのせいか。ああ、なんて無防備なんだろう。湧き上がる衝動のまま彼女の視界を奪ってしまってもいいのだが、この時間は長くは続くまい。
 彼女の為にお菓子を調達しに行った彼が戻るのが先か、彼女を背中で守る彼が牽制をしにくるのが先か。

ーだが、それなのに、君の姿を思い浮かべるや否や、
損失はすべて帳消しになり、悲嘆は忽ち消えてゆく……。

ソネットの最後を口の中で小さく呟くと、見計らったように扉が開いた。