デートに誘ったのはただの思いつきの気まぐれで、特に深い意味なんてなかった。
でも今まで面倒で自分から進んで提案する事なんてなかったから誘おうと思った時点ですでに特別だったんだと、いまではそう思う。



「漱石さんって魚好き?」

お昼休憩後の気怠さが残る本部の総務課で彼女はパソコンに向かっていた。

「え?好きだよ。食べるのも、見るのも」

びっくりしたように顔をあげる彼女の手はキーボードに置かれたままだ。
あたりには電話の呼び出し音やコピー機が稼働している音が聞こえる。

「じゃあ明日家まで迎えに行くんで」
「え?なんの話?太刀川くん??」
「時間は、なるべく朝早くがいいんだよなぁ。でも俺起きれるかな…」


漱石さんの頭の上に水族館のパンフレットをバランスよく置いてその場から立ち去ろうとすると、声が後ろから追いかけて来た。

「んん?!太刀川くんっ、ちょっと待って!」

「夏目さん一番に電話〜」
「あ、はい!いま出ます」

漱石さんは一度迷うような素振りを見せてから電話をとった。

「はい、お電話代わりました夏目です」

電話対応をしながらキーボードを打っている漱石さんが、社会人みたいで(いや社会人なんだが)新鮮だった。
真面目に仕事をしている姿を見ていると視線に気が付いた彼女が恨みがましい目でこちらをちらりと見た。
可愛くてつい笑うと、手で追い払う動作をしてくるのでそのまま部屋から出た。







海の側にある水族館だからか、チケット売り場に並んでいると強い風が吹いてくる。
肌寒いけれど太陽が出ているので見て回るのに支障がある程ではない。

「えっ、シャチくじ付き入場券…?!」
「漱石さんぬいぐるみ欲しいの?」
「だってすごいお得じゃない?太刀川くんもそれにしなよ」
「たしかにシャチガチャしたい…」
「でしょう?」

なぜか漱石さんが勝ち誇ったように笑った。
何となくいつもと違うぎこちなさみたいなのがあったけれど、ふたりで笑ったらそれもなくなった。

「ショー全部見たい!!」

パンフレットを開くと地図とショーのタイムテーブルが記載されている。
少しずつ時間をずらして四つのショーがあるらしい。

「ええと、今はイルカの水槽があって」

立ち止まって泳いでいるイルカを見る。
途端にバシャンとすごい水しぶきが上がって隣に立っていた家族連れのお父さんが頭から水を被ってしまった。

その直後飼育員さんからのアナウンスが入る。

「水飛沫がかかる恐れがありますので十分注意してください」

「…時すでに遅しだね」
「他人の不幸は蜜の味だけど」

他の人にわからないようにこっそりと笑う。
ステージの方から歓声が聞こえた。





正直そんなに期待していなかったショーだったが、すごく良かった。

イルカやシャチはつるつるしていて、人懐っこそうでかわいい。

バンドウイルカとカマイルカが次々にジャンプする。
シャチと飼育員のお姉さんは固い絆で結ばれているのが伝わってくる。

海で暮らす哺乳類たちは、広い水槽が狭く見えるくらい颯爽と泳いでいく。

爽快な青い空の中にイルカが跳ねる。
シャチと息を合わせてお姉さんが高いところから水面に飛び込む。

思わず歓声や拍手をしてしまう。

「漱石さん、まさか泣いてるの?」
「う、うう。だってあんまりにも愛らしくて、一層神々しいんだもん」

イルカってすごいなと思って無心で見ていたけれど、隣の漱石さんが気になって横目で見るとぽろぽろと涙をこぼしていた。
くじで当てた五等の小さいシャチのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめて彼女が笑った。

きれいだな、この瞬間を忘れたくないなと思った。







「今日は誘ってくれてありがとうね。最初は何かと思ったけど…」

ウミガメが泳ぐプールの後ろにすぐ本物の海が見える。
波の音と潮風のせいか夕暮れが寂しい。

それで気が付いた。
俺漱石さんが好きなんだ。

自分以外の人間に対して戦いたいとかそういう興味はあったけど、好きなものとかいろんな表情とかそういうのを知りたいと思ったのははじめてだった。
女の子は嫌いじゃない。でも、ランク戦より面白いとは思わなかった。

でも漱石さんと一緒にいるのは楽しい。
もっともっと彼女の事が知りたい。
赤い唇の感触や温度とか、その服の下にある白くて細い身体の曲線とか。

胸に浮かんだ言葉は口にする事なくずっしりと沈んでいった。

「夕飯は寿司にしましょう」
「お寿司大好きだけど、いまから食べるのってすごい罪悪感!!!」
「でも食べたくないっすか?」
「うぐ、わかるのが悔しい…!」

鰯とか鮪とか蟹とか見ちゃうと美味しそうってなるよねえ。
しみじみと呟く漱石さんの手を掴む。

彼女に触れた途端、胸がずきりと痛んだ。