駅前の時計は午後7時を少し回っている。
部活の後に鳳と来週の練習試合についてあれこれ話しているうち、気づけばこんな時間になっていた。
濃紺の一枚布に覆われている上空もどこか優し気に思えるのは、まだ若干生温い仄かな風のせいか。
黙々と歩きようやく家まで数十メートルというところで、うちの門から誰かが出てくるのが目に入る。
その人物もこちらに気づき手を振りつつ向かってくる。「彼女」は兄の婚約者だ。
「若くん、こんばんわ」
「あぁ、どうも」
「お疲れさま、練習?遅くまで大変だね」
「いつもこんなもんですよ」
俺は彼女に対して淡い気持ちを少なからず抱いている。
打ち明けてしまえと心が泣いて叫ぶ時もあったが、もうここ数年ずっと心の奥底に留めたままだ。
「ひとりで帰るんですか」
他愛のない世間話ののち、兄の姿が現れないまま別れを告げ歩き出したので思わず声をかける。
「うん。彼、急用で出かけなくちゃいけなくなったみたいなの」
「ふぅん……じゃあ送りますよ。駅まで」
言っておいてなんだが、こんな気の利いたせりふが俺の口をついて出てきたことに驚いた。
彼女ははじめ遠慮していたけれど「痴漢に注意!」と書かれた看板を指すとわかったわ、と微笑んだ。
涼しげな虫の音色と街路樹の灯りが二人を包んでいる。湿気のない風が心地よい。
「ごめんね、疲れて帰ってきたところだったのに……」
「構いませんよ、別に疲れてませんし」
「ふふ……でもよかった。若くんともっとお話ししてみたかったから」
いつも部活だったりで中々会えないでしょう?と続く言葉に、一瞬にして体がかっと熱くなる。まるで自分が心臓だけになってしまったように。
確かに最近は彼女が兄を訪ねてきても避けていた。言うまでもなく一目でも会って話をしたいのは山々だった。
けれど会うたびに強くなる恋心とは裏腹に、「兄の婚約者」を好きになってしまった自分が惨めで嫌になるばかりで。
それから駅までの間、どんな内容の話をしたのかはっきりと覚えていない。
──只々悔しい。
彼女の口から何の気なしに発せられた深い意味もないただの言葉に、心が揺さぶられ舞い上がる。
そんな些細な影響で「はい」だとか「そうですね」だとかつまらない返答しかできない自分がどうしようもなく情けない。
俺は彼女とは違う、まだまだ子どもなんだと改めて思い知らされたような気がした。
「ほんとにありがとう。すごく助かっちゃった」
「大げさですね……俺はこれで失礼しますんで。お気をつけて」
「うん、若くんも気を付けてね」
別れの言葉もほどほどに、帰路につく人の流れに逆らうように改札を抜けていく背中を見送る。
その視線に彼女が応えることはなかった。
あとは俺も家路へ向かえばいいだけのはずなのに、呆然と立ち尽くす迷子のような気持ちのまま動けない。
俺はいったいどうすればいいんだろう。
ポタリ、と少し歪んだ地面に濃いシミが作られる。
ああ汗か。今夜はひどく蒸し暑い気がする。
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