喉の奥から空気が抜ける音がする。
傍らで事切れている男に緩慢な動きで視線を向けた。
己の師匠である煤煙。辰弥の体を開き、蝕み、己の傀儡たらしめんとした男。
もう指の一本も動かせないほど辰弥自身も満身創痍であるにも関わらず、この男の死だけが辰弥の心を晴れやかにした。
戦を望み、己の欲を満たす為だけに動いてきた煤煙を摘み取る事こそが辰弥の使命だと思って生きてきた。
その準備として、過去も性別も学問の能力さえも解らぬ人物を演じて早くも十五年。
使命を全うしたのであれば、幕引きにも相応しいだろう。
「…さん、辰弥さん…!」
誰かの呼ぶ声がする。目が霞む。
「辰弥さん!確りしてください!」
「…利吉、君」
掠れた喉から辛うじて言葉を紡げば、利吉は冷え切った手を取った。
「なにが…どうして…っ!」
「利吉君…私は、もういい…月影の所へ、行って…?ごめんね…あいして…たよ」
上手く笑えているだろうか。もう力が入らない。
彼はどんな顔をしているのか、それすらも分からないままに辰弥はその生涯の幕を引いた。
**
冷たい亡骸を抱えて火を起こす。
穏やかなその表情に涙が枯れるまで泣いた。
この結末を予想していたのだろう。隣の大男の正体も分からぬまま、利吉はこうして生きている。
辰弥の髪を切って、懐にあった物を取り出した。
いつも最低限の物しか持ち歩かない彼が匂い袋を仕込んでいた事に気付いて、その袋を取り出した。
中には小さな紙切れと嗅ぎなれない甘い花の香り。
紙を開くと短く綴られた手紙だった。
文字の読み書きが出来ないと振舞っていたこの人が、本当はそれが出来たことを物語る手紙に、結局この人のことをなにも知らなかったのだと泣いた。
『利吉という男に、尼寺の月影を会わせるように』
匂い袋はいつか辰弥が教えてくれた丹桂の香りがした。
輪廻があるなら、来世があるなら、彼がこの香りを纏って自分に気付かせてくれるようにと、匂い袋と共にその亡骸を火にくべた。
広がる炎に煙が立ち上る。
あの人は天に逝くのだろうかとぼんやりそんなことを考えていた。
火の始末も出来ぬまま、その場を立ち去る。
辰弥の遺した紙を握り締めてから、懐へ大切にしまいこんだ。
月影は辰弥が懇意にしていた尼僧だ。
辰弥が存命中に利吉も何度か会ったことがある。
一先ずは彼女の元へ向かって、またここへ戻ってこよう。
振り返ってから立ち上る煙を見上げる。
追い掛けたくなる気持ちを押し止めて、尼寺へと足を向けた。
「利吉殿か」
尼寺の門をくぐって直ぐに声をかけられた。
出会った頃と何一つ変わらない美貌の尼僧、月影。
盲目だという彼女は音もなく近付いた利吉にまるで見えているかのように笑った。
「何の用かえ?…辰弥が死んだか?」
思わず目を見開いた。冗談でもそのような事を言う人ではない。
「…はい。貴女に会いに行けと、最期に」
「そうか…難儀な男じゃったな…上がって行け、聞きたいと顔に描いてある。辰弥のこと、妾の知る限り全て伝えよう」
月影は辰弥が終ぞその口から話さなかった過去について教えてくれた。
今は亡きアマガベニ城に幼い頃に買われて入ったこと。
その時から色事を仕込まれ、忍者として育てられてきたこと。
そして、彼は師匠でもある元アマガベニ城忍頭、煤煙を討つために動いていたこと。
「出自も己が情報を隠すのも、進んでするような子ではなかった。煤煙を討つ為に身を潜め、相討ちを覚悟しておった。故に、おんしからの想いにも答える事ができなんだ。ほんに憐れな奴よ」
「…なぜ…なぜ、誰かを頼ろうとしなかったのでしょう」
その壮絶な人生を聞いて、利吉は声を絞り出しながら袴を握りしめた。
「巻き込みたくなかった。怪我をさせたくなかった。果てるのは己一人で十分と」
「…そんな…理由で…っ」
俯いた瞳からぱたぱたと涙が落ちる。もう枯れたと思っていたのに、まだ悔やみきれないらしい。
「辰弥も知らぬことがある」
月影の言葉に利吉は目元を拭って顔を上げた。
「辰弥の落し子。今は町の油屋で住み込みの女中をしておる。おんしが良ければ、会いに行ってやってはくれぬかえ?」
「…何故です?」
月影は空気を震わせて微笑んだ。
「おんしの求める答えがあるやも知れぬ」
「…分かりました。お邪魔してしまってすみません」
立ち上がると月影は音に反応して僅かに顔を上げた。
「気を落とすな。辰弥もそれを、望んでは居らぬだろう」
「…はい」
尼寺を後にして再び山へ向かう。
そうだ、辰弥は利吉が悲しむことを望んでいない。いや、想定していなかったのだろう。
己の価値を低く見積りがちな辰弥は、いつでも、相手は自分ではないと利吉を突き放してきた。
その理由がこの結末を知っていてのことなら、何故早く打ち明けてくれなかったのだろう。
何故、もっと上手く彼の話を聞き出せなかったのだろう。
何故、生きる道を選んでくれなかったのだろう。
荼毘の炎は消え、その後に白く遺った骨だけがあった。
手を合わせて骨をひと欠片拾う。
「何もくださらなかったのですから」
せめて骨の一片は、この身に纏うことくらいは許してほしい。
不意に背中に気配を感じて振り返る。ふわりと風が舞って誰もいないその森の奥で、彼が変わらず微笑んでいるような気がした。
**
何かを忘れるようにひたすら仕事に打ち込んだ冬。
とうとう次の春には一年の頃から知っている乱太郎を始めとするは組の良い子達が揃って卒業するという。
近頃、忍術学園には赴いていない。あの学園にはまだ彼の気配が色濃く残っているせいかもしれない。
母からも父からも愛情の籠った怒りの手紙が届いている程に、仕事の鬼になっていた。
辰弥の死を告げて回ることもせず、それから逃げるように仕事に打ち込めば銭ばかりが溜まった。
ふらふらと町を歩いていると、油屋の前を通り掛かった。
「ちょっと」
後ろから袖を引かれて振り返る。
「あんた、ちゃんとご飯たべてんの?」
耳障りな女の声に溜息を零して振り返った瞬間、目を見開いた。
黒い髪、深紅の瞳。生き写しのような容貌はまさしく辰弥のようだった。
思わず抱き締めれば、彼女は驚いたようにあたふたと身体を動かした。
「ちょっと、お前さん…!」
「…辰弥さん…っ、辰弥、さん」
嗚咽を零す利吉に彼女は呆れたように息を吐いた。
「私は紫乃だよ。あんた、今にも死にそうな顔して。ちょっとまってな、暇貰ってくるから」
とんとんと背中を撫でる手が優しくて、小さく頷いた。
そこからはなし崩しのように床に縺れ込んだ。
間違いなく女なのに、時折その表情が辰弥に思えて心が震えた。
行為を終えた床で、一晩の過ちだと紫乃は肩を竦めて言い捨てた。
「あんたの想い人が私に似てたのかもしれない。けどそれを引き摺ってちゃ終わりだ。人を想う気持ちでご飯が食べれるわけでもなし、今日のことはお互い忘れようさ」
竹を割ったような快活な女性だった。彼女も自分とは関わりたくないのだろう。
そう判断して、利吉は彼女の言葉に頷いた。
あっという間に季節が巡り、夏が過ぎて秋になった。
風の噂で土井半助が忍術学園を辞めて孤児院を開いたと聞いた。
そんな最中、ある尼寺から仕事の依頼が入って利吉は息を詰めた。
月影の尼寺。ずっと仕事に打ち込んで彼女の言葉すら忘れていた。
油屋の女中。辰弥の落し子。もしかすると、あの紫乃という女性は。
「…あんた、やっときたね」
裏口から入ると、顔を出したのは紫乃だった。
髪はボサボサで肌は荒れ、目には隈をこさえている。
「もう二度と、私達に近づくな…!」
鬼の形相で彼女が押付けたのは、小さな小さな赤子だった。
緩やかにつり上がった目元は父に似ている。そしてその瞳は、辰弥と同じ深紅の。
「…っ、ぐ…っ、う…」
ぱちぱちと瞬いて微笑む赤子を抱いたまま、利吉は声を押し殺して泣いた。
分かっている。自分にそんな資格はない。
けれど、これが本当に彼と自分の血を引く子であるとするならば、己はなんて業の深い。
辰弥は利吉が子どもが苦手だと言うことを見抜いていた。
「…すまない」
赤子のまろい頬を撫でると、きゃらきゃらと笑う。
この子を抱いて行く先は決まっている。
何を思うよりも先に足が動いた。
「あれ?利吉くんじゃないか!」
「…お久しぶりです」
半助の声に子供たちがわらわらと集まってくる。
「あああ!こら、ちょっとあっち行ってなさい。きり丸!すまないが相手を頼む」
「はいはいっと!あ、利吉さん!長い間どこ行ってたんスか、皆心配してたんですからね!」
言葉ではそう言いながら慣れた手つきで子供たちを半助から離す様に思わず頬が緩む。
「…色々あったみたいだね」
静かになった頃合いを見計らって、半助は暖かい声音で呟いた。
「その赤子は?」
「…預かって頂けませんか」
言葉少ない利吉に、半助はその顔をじっと見詰めた。
「わかった。その代わり定期的に会いに来ること。ご両親も心配されてる。帰りにくいならうちによればいい」
「土井先生…大切な人を、亡くしました」
脈絡もなく告げた言葉に、半助は僅かに目を見開いてから目尻を下げた。
「…そうか」
「お兄ちゃんが言うなら…また来ます」
「うん、ほどほどにしろよ?身体は忍者の資本だからね」
「…はい、ありがとうございました。少し、気が軽くなりました」
深々と頭を下げた利吉が去っていくその背中を、半助は見えなくなるまで見送っていた。
**
「馬鹿だなあ」
もう忘れかけていた声が響く。
これは夢だ。切なくも儚い、ただの夢。
「利吉君は本当にどうかしてるよ。私なんて忘れて、真っ当に生きたらいい」
覗き込んで来た顔はいつもと変わらない。何を考えているかよく分からない美しい笑みを湛えた人物は。
「…辰弥さん…っ!」
その姿を捉えて抱きしめる。暖かい。その暖かさが、現実との乖離を突きつけて胸の奥が苦しくなる。
「ごめんね、利吉君。泣かないで。そんな顔をさせたかった訳じゃない」
「本当に、酷いお人だ。結局私は、貴方の何も知らない」
「…うん、そうだね。ねえ、利吉君。私の言葉を覚えていてくれてありがとう」
唇を重ねて、辰弥はくすぐったそうに笑った。
「地獄で待っているから、君はちゃんと君の生を全うしなさい。そうじゃないと、もう会いに来てあげないからね」
それは嫌だと首を振ると、優しく頭を撫でられた。
「貴方は、幸せでしたか?」
震える声で辛うじて言葉を紡ぐと、辰弥は満面の笑みで答えた。
「勿論。利吉君に愛されて、退屈しない人生だったよ!」
─終─
トップへ