我ながら鈍ったものだ。
戦場で彼の顔を思い浮かべるなんて。
生命のやり取りをする中で、この身体を滑る手を思い出すなんて。
(私も、相当焼きが回ったらしい)
息が上がる。大きな怪我はない。
木の幹に背を預けて深く息を吐いた。
息も殺せない程に疲弊している。忍としては致命的だ。
情報を得る為であったのに、思わぬ相手を見つけて思わず戦に手を貸してしまった。あの男を、己の師匠だけは殺さねば。この世に傷を負わせるばかりだ。
(帰ろう)
幸い追っ手はない。気配を消し切るようになるまでには時間が掛る。少し休憩をしても問題は無いはずだ。
「…辰弥さん…?」
幻聴かと思った。見上げた先に浮かべていた相手がいるなど。
「利吉、君」
「…先程の、戦の」
「大きな怪我は無い。ちょっと休憩してるだけだから放って置いて」
彼が身体に触れて、そっと持ち上げた。
「ちょ、ちょっと!」
「文句は聞きません。鬼城は…遠いな、うちでも良いですか?」
下ろす気配もなく、抱き上げる手に力が入った。
「私に拒否権はないんだろう」
「分かって頂けて助かります。忍術学園よりはいいと思うので」
捨て置けばいいものを、知った顔があればこうして拾ってしまうのは忍に向かぬ性だと言っても気付かないのだろう。
気配を巡らせて辺りを調べる。隠れている忍もいなさそうだ。
「…奥方、怒るだろうなあ」
「おや、母上をご存知で」
「昔、ちょっとね」
乗り心地は最悪だというのに離す気は全く無いらしい。
「君はもう少し捨てる事を覚えた方がいいよ」
「…全部捨ててしまいそうな貴方だから、寄り添いたくなるんです」
ああ言えばこう言う。しかし今は言い争っている体力か惜しい。
「着いたら、教えて」
目を伏せると疲れの波が押し寄せてくる。微睡みの淵に立つまでに差程時間はかからなかった。
**
「こうして手当てするのは二回目ですね」
話し声が聞こえる。まだ眠りたい身体に鞭を打って瞼を僅かに押し開く。
「伝え聞いた通り大きな傷はありませんでしたよ」
声の主である女性の隣には、若い忍が居た。
「手当をしたことがおありで」
「まだ貴方が赤ちゃんの時だったかしら」
嫋やかに微笑む彼女に、起きるタイミングを見失って再び目を閉じた。
「薬草を採ってきてくれるかしら」
「はい。行ってまいります母上」
立ち去る気配に息を吐いて体を起こす。
「奥方、ご無沙汰しております。このような形での再会で申し訳ない」
彼は気付かなかったが、彼女は起きている事を分かって居たらしい。
「いえ、利吉からよく貴方の話は伺っていますよ。あんな小さな子供が、と思っていたのに随分と大きくなって」
二十年近く振りなのだ、無理もない。
「ご迷惑をお掛けしました」
「ふふ、とんでもない。いつでも遊びにいらして下さい。そうすればあの子もよく家に居付きましょうから」
「そんな、これ以上お手を煩わせるには」
立ち上がろうとする所を止められて座り直す。
「貴方の気に掛けるようなことは何もありません」
これが母という生き物なのだろうか。その圧の強さにただ頷いた。
「母に嗜められる、というのはこういう気持ちなのでしょうね」
「なら、母のお願いをひとつ聞いてくれますか?」
美しく強かな女性に向かってぱちりとひとつ瞬いた。
「今日のお夕食、食べて行ってくださいな」
(成程、これが彼の受けてきた愛情なのか)
なんともむず痒い暖かなものだ。
「今日はお言葉に甘えさせて頂きます」
「ふふ、色々お話が聞けるのが楽しみですわ。どうせ、あの人は帰って来やしませんし怪我が治るまでゆっくりなさってくださいな」
そういう訳には、と開きかけた口を閉じた。何もかも見透かしての事なのだろう。
あの日も、手当のお礼に花を置いて発った。
今回も一晩たりともここで過ごすことはない。だからこそ、顔を合わせて居られる間は彼女の意のままにと目を伏せた。
**
「どんな話をしていたんですか」
帰ってくるなり顔を見比べた利吉に辰弥は肩を竦めた。
「と、言うかですね…何で教えてくれ無かったんです!」
身を乗り出す利吉に、辰弥は素知らぬ顔で首を傾げた。
「なんの事?」
「うちに来た事がある、と。あ、今言う必要ある?って思ったでしょう」
「辰弥さんが来られたのは、一年は組の良い子たちより幼い頃でしたもの。貴方も赤ん坊だったのよ」
奥方の助け舟に辰弥は小さく頷いた。
「覚えていたんですか?」
「そりゃね。ちゃんと手当してもらったり人の世話になったのは初めてだったし」
利吉の目が僅かに開く。十にも満たぬ子供が手当も受けられず、忍のようなことをして来たというのなら、この人はどんな生を歩いて来たのだろうか。
「今の生活は気に入ってるんだ、君の気が咎めるようなことはないよ」
「ふふ、昔も大人のようだと思ったけれど、大きくなりましたね」
奥方が雑炊を椀に盛って辰弥に向かって差し出す。それを遠慮がちに受け取ってから辰弥は擽ったそうに笑った。
「ありがとうございます」
「手負いの獣のような殺気を放つ割に見目のいい子供だと主人も言っておりましたよ」
椀を受け取った利吉が、何処か拗ねたように眉を寄せた。
「母上、またゆっくり教えてください」
「お邪魔させて貰ったのは一日だけだったんだけど、本当に良くしてもらったんだよ」
「私も見てみたかったんです」
「最初は小さなくノ一かと思ったんですよ」
「私の話は良いですから、折角の奥方の料理頂いても?」
「まあ。どうぞ召し上がれ」
いただきます、と皆一様に手を合わせて奥方の料理に舌鼓を打った。
「泊まって帰られたらいいのに」
「報告もあるのでそうも行きません」
引き留めようとする奥方に苦笑いを浮かべて、辰弥は手を拭った。後片付けを終わらせる頃には空はすっかり暗くなっていた。
「利吉は仕事でしょう?」
矢羽音が飛ぶ。内容までは理解出来ないから恐らくは家族間のやり取りなのだろう。
「すみません母上。辰弥さんを送って仕事に行ってきます」
「大袈裟だなあ、送ってくれなくとも一人で帰れるよ」
「ふふ、送らせてあげてくださいな。また何時でもいらしてね」
奥方に見送られ、夜の道を歩く。
「さっき何を話してたの」
「バレましたか」
「彼女に私の話をしていたんだね」
少し意外だった。彼は外のことを親に話すような質では無いと思っていた。
「大切な方なのでいつか紹介したい、と」
「私の話をお母上から聞いてなかったんだ?」
悪戯っぽく笑むと、急に抱きしめられた。
「もう一度言ってください」
「大袈裟だなあ」
「そうじゃなくて」
そっと利吉を押し退ける。思ったよりもするりと腕が抜けた。
「…君ね、私に何を期待しているのかは知らないけど」
「貴方と共に生きたいんです」
夜の静寂を切り裂くような切実な声音だった。
「私の行く先は生き地獄だ。同伴は要らない」
「私は貴方となら地獄へ向かってもいい」
真摯な瞳が黒を捉えて射抜くのに、煙のようなそれはふわりと躱した。
「だからだよ、君に何も教えられないのは」
困った様に笑う影に利吉は言葉に詰まった。
利吉と事を構えたのは彼にとっても予想外だったと話していた。羨望のようなものだったのだと。
巻き込まない為の彼なりの愛情なのだと知って、利吉は己の胸を掴んだ。
「どうして、貴方はそう…一人で」
「ずっと一人だったからかな。他にやり方を知らない。けれどこればっかりは私が決着をつけなければならない」
再び影は歩き出す。静かな夜に足音すら響かない。
「だから君とは暫く会わない」
「お断りします」
繋ぎ止められるのであれば、喜んで仕事の合間の時間を割いて辰弥を訪れよう。彼の物語が終わりを迎えようとしているのなら尚のことだ。
「困った子だね…で、今日は私の所に泊まって帰るとでも奥方に言ったのかな?」
「貴方が許してくれるのならそうしたいのですが」
「許す訳ないだろ、帰れるうちに帰っておけばいいよ」
いつもの軽口に戻る会話に利吉は肩を竦めた。
「頼みますよ、母上から怪我の様子を明日の朝も見るように言われたんです」
彼は何処か利吉の母の言葉に弱い気がする。あの時の矢羽音はもっと異なる内容だったが、意味合いとしては大きく違わないから嘘をついた事にはならないだろう。
「はあ、今夜だけだよ」
「ありがとうございます」
辰弥の一番近い拠点に足が向く。
夜の道を星明かりだけが静かに照らしていた。
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