彼を初めに見たとき、何と思ったろうか。

憎いと思ったか?__否。
怖いと思ったか?__否。
では神々しいと思ったか?__それも否。

貧弱そうな体に隈のひどい目。
烏の濡れ羽色をした髪は肩近くまで伸び、これまた長い前髪で顔が覆われていた。

その前髪の隙間から覗く不気味な光を湛えた暗紫の瞳に、全てを奪われた事のみ、はっきりと覚えている。

私はその男、フョードル・ドストエフスキーに、全てを奪われた。
一度目は、私の周り全てを。
二度目は、私自身を。

私には、もう彼しかいない。
ドストエフスキーは、そう云った事が可能な男であった。

そして私を捨てることも、簡単に出来る男であった。



その日はどう云った日だったかと問われても、私はもう答えられない。
ごく普通の日であったからだ。

ありふれた日常。平和な毎日。

その一部であった。
そうであると思っていた。

家に帰るまでは。

私はしがないOLだった。
何処にでもいる普通の女だ。
朝出勤し、少し残業をして夜には帰る。
親元を離れて横浜で一人暮らしをしていて、残念ながら彼氏はいない。

人付き合いは深く狭く。
高校や大学時代の友人で今でも食事などに行くのは、ほんの数人程度だ。
会社の人とはビジネスライクな付き合いのみ。
飲み会は、どうしても断れない時のみ参加する。

そんな私の交友関係を探り全てを断ち切るなど、彼にかかればお遊びにもならなかっただろう。

その日家に帰ると、ソファに白い帽子を被った男が座っていた。
その帽子がウシャンカと呼ばれるロシアの帽子であるのは、後に彼本人から聞いた話だ。
咄嗟に、侵入者だ、と思って静かに息を詰め、後ろ手に玄関の戸のドアノブに触れたところで彼は振り返った。
前髪で隠れている割に、私はやけに鮮やかにその瞳を捉えた。

「こんばんは、善い夜ですね。」

余りにも当然のように話すもので、私は一瞬考えた。
此処は本当に私の家だろうか?と。
しかし私は自分の鍵で戸を開けた。
家具の配置も何もかも、此処は確かに私の家である筈…。

「確かに此処は貴女の家です。」

ヒュ、と私が息を吸う音が響いた。
この男が、私の日常に現れるべきでは無い男である事だけは私にも判っていた。

「…何が目的ですか。」
「おや、意外と話が早くて助かります。」

その男は本当に少し驚いたようで、そんな顔をしてから不気味に微笑んだ。
質問など数え切れぬほどあった。
貴方は誰ですか、何故ここにいるのですか、そんなに着込んで暑くないですか。
貴方は__幸せですか?

「…。」
「そんなに警戒されてはぼくも悲しいです。」
「警戒は、していません。」
「それはおかしい。自分の家に見知らぬ男が我が物顔で居座っている。警戒するのが自然と云うものです。」

つまらなそうな顔をする男だと思った。

「ではこれは、警戒しているのでしょう。」
「…賢いのか莫迦なのか、判らない人ですね。」
「判らない方が、楽しいでしょう。」

私は判らない事が好きだった。
その性格と親の裕福さに恵まれて、大学院まで修了した過去を持っていた。

男はまた少し不気味に笑った。

「善いでしょう。…今日は貴女に、提案があって来たのです。」
「提案…?」
「とても簡単な提案です。…何か困った事があったら、この端末を起動してください。」

そう云って、いつの間にかソファを離れていた男は私に一つの端末を握らせた。
その端末はヒンヤリしていたが、それ以上に冷たく骨張った男の指が手の甲をスルリと撫でたので、私はゾワリと背筋を震わせた。

私は黙ってそれを見つめた。
見た所、ごく普通の端末のようだった。

「安心してください。貴女を脅かす機能は付いていません。…寧ろ、ぼくは貴女を救いたいのです。」
「…端末一つで人を救えると?」

その男が隣に立つだけで、周りの空気がヒヤリと凪ぎ、肺まで冷たい空気が流れ込んでくるようであった。

「ぼくなら其れが可能なんです。」

去り際、耳元でフョードル・ドストエフスキーと名乗ったその男は、最後まで不気味に笑っていた。

彼が去った部屋は、まるでいつも通りの部屋であった。
私は端末を出来るだけ見えない所にしまい込み、その存在を忘れる事にした。
次の日仕事帰りに、家の鍵を変えてもらう為に大家を訪問した。
少しばかり時間はかかるが、そのように話が進み、私は再び日常が訪れる事に安堵していた。

心の隅に蔓延る、其れでは無意味ではないかと云う小さな疑念に、私は蓋をした。

丁度その日だ。
私の元に連絡が来た。
親が亡くなったと。

そこからはあっという間だった。

両親は事故だった。
不幸な事故で片付けられた。
幾つになっても仲睦まじい夫婦だったから、二人で出かけることは多かった。
その日もそうだったのだろう。
__そしてその幸せなデェトの帰り、乗っていた車が事故に巻き込まれた。

数少ない連絡を取り合う友人も、ある人は遠くへ転勤になり、ある人は理由も判らないままパタリと連絡が途絶えた。

其れから私の会社は倒産した。
其れなりに大手だったので大きなニュースとして取り上げられた。
最低限に抑えられたリストラの中に、私も入っていた。

こうして私は全てを失くした。

家のソファでぼんやりしていると、フョードル・ドストエフスキーの顔がチラチラと浮かんでは消えた。
彼が私に握らせた端末を隠した場所も覚えている。
彼の人が云った、困った事がこの状況の事だと云うのも判っている。
そしてこれら全て、あの男がやったであろうことも…。

私は暫く考えた。
あの不気味な男にとって、私はそれほどまでに必要な女なのであろうか?
それならば、連絡を取るのもやぶさかでは無い。
しかしあの男にとってこの程度、朝飯前だったらどうする?
その場合、私にそれほどの価値は__無い。
飽きたらすぐに捨てられる。
随分と大きな子供の玩具になるだけだ。

私は路頭に迷っていた。

暫くは貯金でなんとか生活をした。
バイトや非正規雇用で凌いだ事もあった。
しかし悉くあの男に邪魔をされるので、どれも長くは続かなかった。

貯金も底を尽きそうになった頃、私は遂に腹を括った。

隠していた端末を探し出し、電源をつければ不気味な鼠が笑っていた。
なんと悪趣味な待受だろうか、と少しばかり驚いた。
端末はすぐにドストエフスキーに繋がった。

「意外と耐えましたね。」
「…嬉しいですか?」
「貴女が意外と耐えた事がですか?其れとも貴女から連絡が来たこと?」
「私は感服しています。」

フフフ、と電話の向こうでドストエフスキーが笑った。

「ぼくが憎くないのですか?」
「貴方は憎まれたかったのですか?」
「質問に質問で返されるのは、あまり好きではありません。」
「なら、憎くありません。」
「何故?」

私は判らない事が好きだった。
大学の専攻も、自分が一番出来ない科目を選んだ。
判らないからだ。
仕事も、あまり意義が判らないものを選んだ。
其れが知りたかったからだ。

「貴方の事が判らないからです。」
「…ぼくのところに来ませんか、名前さん。」

初めて名前を呼ばれたな、と思った。
名前を知っている事には別に驚かなかった。

「…ロシアへ?」
「いいえ、ヨコハマです。」
「…貴方の事が知れるのなら。」

カーテンがふわりと揺れた。
窓も開けていないのに風が私の髪をさらった。

「それは貴女次第です。」

ベランダに立つ男の瞳に吸い込まれたのは此れで二度目だった。
私はその時、私の全てをこの男に奪われたのだ。

「貴女の瞳が好きなんです。」

ドストエフスキーは虚を突かれたような顔をした。
私は更に畳み掛けた。

「私の価値を教えてください。貴女がこれ程までにして私を玩具にしたがった理由を。」

ドストエフスキーは笑った。
今度は幾許か楽しげな笑みだった。

「いいでしょう。新しい家に案内します。」


所有者が消えたその部屋は、契約が次の日までだった。
鍵の変更を頼んでおいて、急に引越しをする事になったと言われた時は大家もさすがに辟易した。
更には、引越し業者が来る気配が無いものだからどうしたものかと思っていたが、
いざ契約が終わった日に部屋を訪ねてみればそこはもぬけの殻だった。

狐につままれたような気分で大家は部屋を去ったと云う。