死の家の鼠。
それが彼、フョードル・ドストエフスキーが頭目を務めるという盗賊団の名だと聞いた。
盗賊団とはいうものの、構成員には殆ど出会した事がなく、たまにイワン・ゴンチャロフさんとお会いする程度の人付き合いしか私は持っていなかった。

「却説、今日は貴女と出かける予定です。」
「…私とですか?」

いきなり他人の部屋にづかづかと入り込んできて不躾に宣った頭目を見上げる。
私はというと、部屋に置かれたこじんまりとしたティーテーブルの前に行儀良く腰掛け、ゴンチャロフさんの淹れてくれた紅茶を嗜んでいたところである。
ところで彼は、ドストエフスキーさんを必要以上に崇拝している。
急に現れた私とは仲良くしてくれないかしら、と些か不安に思ったこともあったがそんな事はない。
何でも、自分の中の不幸を感じる部分を主様に消去して頂いたとか何とかで、寧ろ私は、その主様が連れてきた客人という事で丁重にもてなされている訳である。

「はい。紅茶が飲みたいのならカフェで構いません。寧ろ好都合です。」
「ですが、この紅茶は丁度今…。」
「時間がありません。早く行きましょう。」

珍しく急かすように云って私の手からティーカップを奪うので、ゴンチャロフさんには心の中で謝罪をしつつ、私は仕方なく自室で過ごす優雅な休日を手放した訳である。



却説、二人で連れ立って歩き辿り着いた先は、横浜のとあるカフェであった。
何をする為に向かっているのかも、何の為に私が必要なのかも全く知らされていないが、道中彼が頗る楽しそうであったことが私の興味をひいた。
何も知らされずに死の家の鼠の仕事に引っ張り出される事は少ない事ではないが、彼があからさまに喜色を浮かべる様は大層珍しいものであった。
喜色を浮かべると云っても、大抵は不気味な笑みを浮かべているのみであるので、それが喜びであると判断するのが些か難しい事ではあるのだが。

静かな店内に、ゆるりと流れるクラシック。
店員に案内され座った席は、窓際の日差しが心地好いテーブル席だ。

「アールグレイとダージリンを。」
「畏まりました。」

一つお辞儀をして去っていく店員を気にもとめず、上機嫌に笑うドストエフスキーは肘を机につき、両手を組んだ。
隠しきれない不気味な笑みは両の手で少しは隠れたものの、不穏に歪められる瞳は感情を抑えられずに揺れている。

「楽しそうですねぇ。」
「えぇ、とても善い気分です。」
「…此のお店が行きつけとか?」
「まさか。初めて来ましたよ。」
「そうですか。…でも、善い雰囲気のお店ですね。」

私が周りを見回せば、そこで初めて店の内装に興味を持ったようにドストエフスキーも首を回す。
そして最後に私の顔を見て、首を少し傾げて云った。

「そうでしょうか。…バッハにショパン、クライスラー。如何にもな押し付けです。」
「大衆受けを狙っているカフェにそれは求めすぎですよ。」
「大衆受けですか。それこそ興醒めです。」
「そう云うと思いました。」

カフェに流れる王道なクラシックに文句をつけたドストエフスキーは、しかしやはり上機嫌なままであるように見える。
私はおくびにも出さないものの、内心で首を傾げていた。
彼がここまで上機嫌な理由が全くもって判らない為である。

すると彼は益々不気味にうっそりと笑い、あろうことか私の髪を少しばかり掬ってみせた。
血の通っていないのかと見紛うほど白く滑らかな人差し指がサラリと私の髪を撫ぜ、すぐにスルリとすり抜けていく。
私は驚きの表情を隠せもせずにドストエフスキーを見つめた。

「、どうしたんです?」
「名前さんはそのままで。」

ドストエフスキーは笑みを湛えたまま、今度は髪の内側へ手を差し込み、意外と大きなその掌で私の頬を包み込んだ。
その掌は冷たく、滑らかで、それでいてしっかりとしていた。

「ドス、」
「フェージャと呼んでくれませんか。」
「……フェージャ。」

彼の瞳は何も判らせないようでいて、何よりも雄弁にモノを語る時がある。
唇は綺麗に弧を描いたまま、その暗紫の瞳は私に全てを理解させるのだ。

どうやら既に、彼がずっと楽しみにしていたモノは始まっているらしい。
私は少し恥じらいを見せ、彼の名を親しげに呼んだ。
ドストエフスキーは今度こそ満足気に口角を引き上げた。

「よく出来ました、名前さん。」

頬を撫ぜていた彼は、親指で私の右目の瞼を柔らかく擦った。
そして念押しでもするかのように私の瞳を覗き込んでから、ドストエフスキーは手をおろした。



大変優雅な昼下がりである。
紅茶をゆっくり嗜みながらドストエフスキーさんと親密な振りを続けて数刻。
先程彼は手洗いに立ったところである。

御手洗に、と云って立ち上がった彼は、不自然ににこやかに笑って瞳を歪ませた。
いってらっしゃい、と云った私に、彼はまたしても不気味極まりない笑みを零して足早に去っていった。
行き交う人々が彼の笑顔を見て腰を抜かさない事を祈るばかりである。

「初めまして、お嬢さん。」

外を眺めながら残り僅かな紅茶を啜っていれば、知らぬ男の声がする。
男は大胆にも、先ほどまでドストエフスキーが座っていた席に腰掛けていた。
砂色の外套を羽織ったその男は、長い脚をこれ見よがしに組み、此方に少し身を乗り出して頬杖をついている。

「…貴方は?」
「失礼。私は太宰。太宰治だ。」
「…それで太宰さんは私に何の用でしょう?」
「あぁ美しい人よ、私と共に心中してはくれないだろうか?」
「それならばお断りします。私はまだ生きていたいのです。」

何と云う事だろう!こんなに美しいお嬢さんと心中出来たら私はそれだけで善いのに…。
そういって大袈裟に嘆く男を些か冷めた目線で見つめた。

私はこの男を知っている。
そして男が太宰と名乗ったと同時に、ゴンチャロフさんの紅茶を諦めてまでここへ連れ出された理由にも見当がついた次第である。

「彼、御手洗に行っただけですからもうすぐ帰ってくると思いますよ。」

太宰が我が物で座る席を見ながら云う。
するとすぐに、太宰の背後に不気味な笑みを湛えたドストエフスキーを認めた。
どうやら其処で高みの見物を決め込むようである。

「…あの男の名を知っているかい?」
「、えぇ。何故です?」
「悪いことはいわない。ドストエフスキーの元を離れた方が善い。」
「…貴方は…。」

私を説得しようとして、であろうか。
私の台詞を遮って、太宰は私の手を握った。
其れが全ての終了の合図であった。

存外呆気なく終わってしまったので、太宰の後ろ側でドストエフスキーがあからさまに笑みを消した。
その淀んだ暗紫から、私は静かに目を逸らした。



太宰が私に触れた瞬間、私は異能を発動させた。

ドストエフスキーが私を玩具にしたがった理由。
其れが私の異能である。
全ての異能を根本から消し去る異能。
私が異能を発動させた状態で触れた異能力者は、次の瞬間から一切異能が使えなくなる。
消滅するからだ。

ドストエフスキーは其れを私に教えた時、太宰治の話も共に聞かせたのである。
私と太宰、どちらの異能が勝るのかに興味がある様子であった。

だからこそ今日この場に、私は連れてこられた訳である。
そして異能を発動させ、私はあっさり負けた。

豆鉄砲をくらった鳩のような顔の太宰から目線を外し、近付いて来たドストエフスキーを見上げる。

「負けました。」
「えぇ。完敗ですね。」
「太宰さんの異能、強いですねぇ。」
「ぼくは興醒めです。帰ります。」
「え、ドストエフスキーさん?」
「名前さんも遅くなりすぎないでくださいね。」
「ちょ、ちょっと待ってください!私も帰りますから。」

未だ手を握りしめあったままの私と太宰を置いてドストエフスキーがさっさと立ち去ろうとするので、私は慌てて立ち上がった。
太宰は未だ理解が追いついていないようであった。

「太宰さん、私、全て知った上で彼のところにいるンです。」
「何だって?」
「私の居場所は、死の家の鼠にしかありませんから。」

案外、握られた手はするりとほどけた。
私は一つ会釈をしてから駆け足で店を出た。

無表情のドストエフスキーは、爪を齧りながら突っ立っていた。
どうやら一気に機嫌は急降下してしまったようである。

「ドストエフスキーさん。」
「何ですか。」
「帰りましょう。」
「……。」

彼は指を齧るのをやめ、どす暗い瞳で私を見据えた。
私が笑って見せれば、彼は何もいわずに踵を返した。
その足は死の家の鼠へ向かっていた。

穏やかな夕日が二人の背中を優しく撫ぜて、不揃いな影がゆらりと揺れて横に並んだ。