私は彼の仕事部屋がどうにも苦手であった。
光の一片も差し込まないその部屋は、コンピュータの仄暗い光によってのみ薄ぼんやりと照らされている。
幾多も並べられたディスプレイの前に腰をおろしてそれを眺める男こそ、フョードル・ドストエフスキーその人である。
私の所有主にして、死の家の鼠頭目。
私が彼について知っている事は、たったこれっぽっちの事のみであった。

一見やつれているように見えながらも貪欲さを失う事を知らないその瞳は、ディスプレイを見つめて離さない。
一体どれほどの時間が経っただろうか。
落ち着かなげに噛んでいた指の爪をやっと口から離し、彼は此方を振り向いた。
さらりと揺らいだ長い前髪の奥から此方を射止める視線に、私は首を傾げた。

「大方計画通り終わりそうです。」
「それは良かったです。ゴンチャロフさんに今日はお祝いですって伝えないと。」
「…貴女はいつも大袈裟です。」
「そうでしょうか?」
「ぼくには理解しかねます。」
「そういう人との交流は、己の見解を広めるのに役立ちますよ。」
「また、根拠のない事を嘯いている。」

私は言い返さずに肩を竦めて見せた。
実際、この男が私を捨てずにいる理由の一つが其れだと私は考えている。
ドストエフスキーの、緩やかな興味の範疇にいるのだ。私は。
消すほどの理由もない。さらには、消すにしては惜しい異能を持っている。
そして己と違いすぎる観点を持っている。
其れだけの点で、私はドストエフスキーの垂らす細い蜘蛛の糸にしがみついて、地獄の底スレスレのところで喘いでいるのである。

***
死の家の鼠に初めて招かれた時。
初めてゴンチャロフさんと言葉を交わした時。
私は"死"を覚悟した。

其れは肉体的な意味での死ではない。
息をしていても、体に暖かい血が巡っていても。
"死"んでいる人もいるのだと、ゴンチャロフさんと話した時に理解したのである。

そして恐れた。
私も"殺"されるのだと理解した。
この狂った男に、フョードル・ドストエフスキーに"殺"されるのだ、と。

しかしどうした事か私は、健康なまま生きている。
異能も数回しか使った事がない。
死の家の鼠の構成員になるわけでもなく、ただ頭目の客人の様な立ち位置で日々を送っているのみである。

***
ドストエフスキーが唐突に、此方に向けて手を差し伸べた。
確かに男であるのに、白魚の様な指が私を誘った。

「どうしました?」

私はその誘いに抗う術を持たなかった。
静かに彼に近寄って、その前髪の奥を覗き込む。

「ぼくの手を取ってください。」

私は其の人の手を取った。
ひんやりとした滑らかな手だ。
まさかこの手で幾人も殺しているとは思えないような美しさであった。
その美しさとは対照的に、不気味に笑みを零すドストエフスキーに首を傾げてみせる。
私は此処に来てから、首を傾げる事が滅法多くなった。
彼の事がいちいち判らないからである。

「ぼくの異能を知らないわけではないでしょう。あの時と違って。」

あの時。
ドストエフスキーに連れ去られて家を捨てた時の事だと、今回ばかりはピンと来た。
そうだ。あの時も丁度こんな風に、彼に手を引かれて家を出たのだ。

しかし確かに今の私は、あの時の私とは違っている。
彼が私に触れるだけで、私を殺す事が出来ると知っている。

「…懐かしいですね。」

私の反応に彼は興を削がれた様だった。
ぽい、と投げ捨てられた手を私は暫く見つめた。
何の変哲も無い、普通の掌だった。

「君は本当につまらない事を云いますね。」
「…知っています。」

拗ねて此方に背を向けた男を後ろから眺めると、ウシャンカばかり目立って些か可愛げがあるという事を私はこの時初めて知ったのである。

「貴方が私を殺せる事も。…何故かは一向に判りませんが、そうしない事も。」
「……。」
「…私の手を戸惑い無く取ってくれるのは、貴方だけですよ。ドストエフスキーさん。」
「君はぼくと対等であると?」
「まさか。…ただ、私にはもう貴方しかいないのです。」

のそりとドストエフスキーは立ち上がった。
彼の冷たい指が私の首を這って、うなじを撫でた。

「名前さん。貴女は罪の無い世界を象徴するものになる。」
「…罪?」
「罪にとっては消失も、或いは罰と成り得るかも知れません。」

ドストエフスキーの親指が、まるで愛撫するかの様に私の首を摩った。
彼は力を入れていない筈であるのに、私は窒息する思いであった。

「ぼくの期待を裏切らないでくださいね、名前さん。」

私の視界には、その淀んだ紫のみが映り込んでいた。
ドストエフスキーが去った其の部屋で、鼠が声をあげて笑った。

私は不意にブルリと震え、足早に其の部屋を去ったのである。

人の消え去った部屋では、相も変わらず鼠が鳴いていた。