宙吊りの成育
自らを鳥だと言い張る気違いがいる。両腕を鳥の羽のように動かし、空の上から街どもを見下ろせるのだと、世界を見てきたのだと言う。
僕は思う。そんな息も絶え絶えな絵空事よりも、夢想家の怖気立つような綺麗事の方が、よっぽど美しい旋律だ。空の上から街どもを見下ろせるのだと、世界を見てきたのだと、そんな悲しい嘘を聞きたくないのだ。二つの手と、確りと立つ両足とを呪いそうになってしまう。息が詰まって、無性に叫びだしたくなる。頭を掻きむしって、誰でもいいから滅茶苦茶に糾弾したくなる。自由な人間に呪詛でも吐きかけるべきなのだろうか、僕は。
空の上から街どもを見下ろせるのだと、世界を見てきたなどと、気違いの戯れ言だ。
この世界は狭いようで広い。果てまで行っても、実はその先が存在する。何度の人生があれば全てを見ることができるのか、試したものも試せるものもいないからわからない。たとえ空が飛べたとして、世界を見てきたなどと。
「蝶ほど綺麗な生き物って、いるかしら」
腹の膨れた女が、ケタケタ笑いながら言った。男女も別れていない狭苦しい公衆トイレは、ある意味で一番差別のない場所かもしれないと、浮上する頭でおかしなことを考える。
そんな窮屈な空間に僕と女、二人。普段なら吐き気を催すだろう状況にも、今は微塵も文句はない。まさに手当たり次第とでも言うべき行きずりの女と折半で、最高にトべるという触れ込みの薬を買った。そして何の意図も感じさせない雰囲気で様々な思惑を秘めた公衆トイレにぎゅうぎゅう詰めになって、タイミングを合わせて半量ずつ飲みこんだのだ。
「僕は蝶こそ醜い生き物だと思うがね」
僕もヘラヘラ笑って返した。
「ああ、見解の相違ね、やってられないわ、こんなに悲しいことばかりなのに」
女の顔が聖母像のように見えた。
透き通った映像が、見たこともないはずの映像が、三半規管から髪の先を伝って脳に染み入る。
羽はあるのに飛べない鳥。箱庭に収まりきらない爪先。ただ坂を転がる小石。汚濁を愛する花。水辺で泣き叫ぶ母。声のない夢。前に進まない飛行機。盲いたイルカ。もう泣かなくなった赤ん坊。捨てられるばかりの指先。
ああ、僕たちは見てはいけないものを見ている。聞いてはいけない声を聞いている。育ててはいけない心を育てている。
「ねえ、喉から手が出るほどに欲しいものがあるのに、どうやっても手に入らないの」
自由な人間に、唾を吐きかけたい。
僕たちは羨まないと生きていけないのだ、結局。悲しみに苦しみに切なさに淋しさに身を沈めて、それでもたったすこしの歓びを手放せない。自由とはなんだと語りかけて、一体何人が答えられるだろう。
社会か、感情か、身体か、重力か、束縛か、真理か、終末か、どれから逃れれば自由と呼べる?
羽を手にいれたら自由になれるのか、木々のざわめきのように嘯く気違いと同じく。
「なあ、鳥になりたいと思うか」
「いいえ思わないわ、わたしはいつでも人間でありたいのよ」
あの気違いが、ひどく羨ましかった。
どんなに息も絶え絶えな絵空事だろうと、叶わぬ夢だろうと、落日の命だろうと、一度でいい、羽ばたいてみたかった。
(おしまい)
インスパイア兼リスペクト:イージーライダー
自由を求めているけど、本当の自由を見るのは怖い
とても心に響くフレーズでした
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