愛も涙も知れる淵
すがりついている。だれもかれも何かにすがりついている。悲しいことはなんだろう。考えずとも身に触れる悲しみは、なんだろう。去りゆく目は優しかったか、優しかったのは手か声か、睫毛の先、あるいは心臓か。頭痛はひどくなる。じくじくぐわんぐわんと揺れて、次第に問いかけのような声を落とす。それは本当に問いであったか、はたまた揶揄か、誰にもわかり得ないことなのだろう。
「よわむし」
揶揄、問い、雑言、愛の言葉、どれも生み出すのは人間ばかりだ。美しいと嘆くべきか、醜いと慶ぶべきか、実は取るに足らぬと捨て置くべきなのかもしれない。それでも手一杯の精神が悲鳴をあげるのだ。手一杯のくせに、手を伸ばそうとする。思想も劣等も猜疑も悪なら、この世に善人などいないはずだ。それでも悪というなら身をもって己の神秘を証明せねば成り立たぬ。詭弁にしかなりえぬ。
「なきむし」
か弱い涙は美しい。無知の涙は醜悪だ。泣いて許しを乞うのは幼子だけでいい。弱さを恥じぬ涙こそ悪だ。悪は切り捨てられるべきだ、迫害されるべきだ。蒙昧は愚などと、純粋は花などと、みな等しく衆愚であればそれで良いのに、必衰を善かれとする厚顔こそ愚だ。鐘の音など高尚が過ぎるだろう。嫉妬などするだけ無駄だ。嫉んでも妬んでも、愚のままでは手に入るまい。必衰など悲しいではないか。
「うじむし」
血を地を守るに伏すことに恥も愚もない。屈するも必然、切り捨てるも必然、夢を見るのも必然。道理などと偉ぶるな。それも結局は人が決めた。殺すのも守るのもみな人なら、どうしてその価値がはかれる?人のために何かを為すなら、それもまた必然。己のために何かを為すのも必然。この世には必然しかないのだ。偶然が息衝く余地などないのだ。その手を伸ばせ。届かずとも伸ばせ。叶わずとも伸ばせ。愛せずとも伸ばせ。己のための手であるべきなのだ。腐り落ちても諦められぬのは当然だ。崩れ去っても欲するのは当然だ。悲哀などと笑わせる。少しの価値も見いだせぬなら、そんなふうに絶望を装うなら、殺してしまうべきなんだ。
「よわむし、よわむし、なぜ生きてるの?」
弱さを欲しても、見えるわけではない。強さを否定しても、優しくなれるわけでもない。強くなければ、優しくなどなれない。誰よりも冷たさを知っていなければ、暖かい人間にはなれない。誰かを否定すれば勝てるのなら、この世に勝者や敗者などいなくなるだろう。孤独でなければ強くなれないなら、この世に本当の強さも、本当の孤独だって存在し得ない。正論だけでは勝てない、詭弁だけでは捨てられる。重んじるべき感情も取るに足らぬと切り捨てられる世界だ。誰が泣こうが負けは負け、誰が笑おうが勝ちが価値、下手をすれば見抜かれる。無能が息をしていると笑われる。
「なきむし、なきむし、目がとけちゃうよ」
愛に縋り付いて醜態を晒すぐらいなら、みんなひとりぼっちなんだと言い聞かせてしまった方がやりやすい。諦められないなら、羽をもがれた羽虫のように蹲ってでも求めるのがいい。なにも美しくある必要などない。本質なんて五十歩百歩、みな等しく他人には見せられぬような形をしている。どろどろ、ぐちゃぐちゃ、ぬるぬる、例えようもない気高さを内包した獣であるべきだ。毅然とした眼はひどく美しい。理性的な人とはシンメトリーのような美しさを漂わせているものだ。ピンと折れずにまっすぐ、見えない定規を内包する空気が神秘すら思わせるのは、他の動物は持ち得ない美だ。ある種の完璧主義がそうさせているのだろう。だからみんな縋り付いて、けれど縋り付いてないフリがうまいのだ。孤独に酔っていても、孤独である自分を美化し正当化している時点で切り捨てられてはいない。血や縁がなんだと鼻で笑っても、結果として待つ死を避けられなければ切り捨てていることにはならない。世捨て人だなんだといって、自分が捨てたのではなく捨てられたのだと気付いていない。なにも要らぬというのはつまり要求そのものだということに気付いていない。
「うじむし、うじむし、ふみつぶされろよ」
人に生まれたら、人以外にはなれない。
それを嘆くか、喜ぶか、靴の裏に踏みつぶされ殺される虫も、それ以外にはなれぬ。獅子に食まれ殺される獣も、それ以外にはなれぬ。子供に弄ばれ殺される蛙も、それ以外にはなれぬ。苛まれ苦しむも、破れ悲しむも、叶い喜ぶも、動物だ。頂点に君臨する、崇高で傲慢な獣だ。他を食いちぎり、他に食いちぎられ、他の獣と変わらぬ死を迎える。それのどこが不幸だというのだ。それのどこが幸福だというのだ。愛情も孤独も劣情も辟易も悲哀も歓喜も、不幸でも幸福でもない。当然のことだ。
生きている。
(おしまい)
終始主張がぶれっぶれ
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