ぼくのベテルギウス
征服される。
四つん這いになって後ろから突かれると、言い様もないおかしな熱が体の奥から脳髄までのぼっていくのがわかった。背中に覆い被さった幼馴染みが、耳元でおれの名前を囁くのを聞いて、脳裏に消せない顔が浮かぶのがわかる。お互いの顔が見えないからこそ、それもひとしおだ。けれどおれは、見たくないのだ。愛しいけれど、見ない方がいい。
罪悪感もなにも、思う必要があることは全部全部消えていく。気取らせない卑怯を悔いる必要があるのに、裏切っている事実を否定する必要があるのに、それを思わないことを恥じる必要があるのに、なにも考えたくない。ただ征服されるのを良しとして、本当の心だとか、自分の醜さに蓋をしたフリをしている。
それこそが征服されるということで、同時におれも、この幼馴染みを征服しているのだろう。
「しづ、しづや」
「よ、すが」
「大丈夫、だから」
なにが、とも、どうして、とも聞かない。ただそうして大丈夫大丈夫と言っていたいんだろう。だから苦言を呈することもしない。けれどどうしても苛立つ。おれにも、幼馴染みにも。
安ホテルの一室、老いた娼婦みたいなけばけばしい部屋で、おれたちの逢瀬は果てる。金曜日の仕事が終わった後、そう、決まって金曜日だった。金曜日、終業後、安っぽい名前のホテルオリオン、慎重にスーツを脱いで、痕跡を残さないように征服し合う。ずっと一緒にいたから、これからもずっと一緒にいようなんて、幼く純粋を装った約束を交わした。
罪の深さに気付いていても、犯さないことはできない。ベッドヘッドのサイドテーブルに置かれた二つの指輪を首輪に仕立て上げて、小指から伸びる赤い糸に目を伏せて、罪を隠し抜く唇を吸い合って、おれたちの逢瀬は果てる。
引き攣れたような、声にならない声が漏れるのを抑えることもせずに。
「あなた、おかえりなさい」
もう随分遅い時間なのに、妻は待っていた。ひたすら背徳を貪った後のおれの帰りを。
目を合わせることができないのも当然だ。けれど足元も、少しよれたTシャツも、見られない。不自然にならない程度に目線を彷徨わせる。
「ああ、ただいま」
「ごはんは?」
「あー……先に風呂入る」
ホテルでシャワーは浴びたけれど、それでももう一度何もかもを洗い流したい気分だ。
「そう、温めておくね」
「うん、ありがとう」
目を伏せる。鈍く輝く指輪は、明らかにおれを責めている。わかってるんだ、いけないことだってことぐらい。言い訳だって許されないことぐらい。
「ねえあなた」
「ん?」
「お風呂から出てきたら、話があるの」
「そう? ……わかったよ」
心当たりがないフリをして脱衣所に逃げ込む。
ついに気付かれてしまったんじゃないか。そう思うと、着ているスーツが強烈な重みをもってのしかかってくるように感じた。この場所で脱ぐ以外、どこで脱いだのか。それをわかってしまったんじゃないかと…。
とにかく、風呂に入って洗い流そう。今夜の記憶も。今更かもしれないが。
「あのね……」
内心どぎまぎしながら平静を装って、妻が話しだすのを待った。夕飯の準備をしながらいつ言う出すべきかとあぐねていたのか、手を止めてやっと切り出した頃には、おれの髪はほぼ渇いていた。
「うん」
「出来たみたいなの、子供」
「へっ?」
息が詰まった。一瞬の焦燥と安堵に襲われる。思っていたより冷静だ。
「……そうか、やったな」
「ええ、まだ性別はわからないけれど、名前……決めなきゃね」
「あ、休んでなよ、これからはおれがやるから……もう遅いんだし寝ても……」
「うん、そうするね……ありがとう」
墓場まで持って行こうと、はたからそう思ってた。だからおれは潮時が欲しかったんだろう。けれど、薬指すら震えないほどに、おれは見て見ぬフリをしてた。
潮時が、やっと来た。
□ ■ □ □ ■ □
金曜日の終業後、安っぽい名前のホテルオリオンで、おれは縁が来るのを待つ。最後だからと寝る気にはなれなかった。潮時がやっと来てくれたのだから、引きずられてしまうようなことはしない。
「ごめん、長引いた」
「いいよ、じゃあ入ろうか」
お互い社会人だから、意図しない残業などがあるのもわかってる。今回は縁だったが、おれが遅れる時もあった。
いつも通りのけばけばしいノーマルな部屋を選んで入ると、コートを脱ごうとする縁を制止した。
「ごめん縁、今日は寝る気はないし、ここに長居する気もないんだ」
「え?じゃあなんで入ったの?」
当然の疑問だろう。けれどおれたちの関係は、こういう安っぽい、密かな場所で終わらせるのがいい。
「話がしたくて」
「なに、話って」
「こういうの、もうやめよう」
「は……?」
「子供ができたんだ」
そう言うと、縁は愕然とした顔で頭を垂れた。顔を覆う手に、光を反射する目映い指輪。唇を噛みそうになったのを、なんとか引き止めた。
「そんな」
「これ以上は無理だよ、縁」
「……嫌だ、オレは志津哉を、はなしたくない」
諦めたような色合いの目の奥、獰猛な鈍い光がおれを射抜く。今度こそ唇を噛んだ。
「オレは、気にしない、奥さんが一番なのもわかってる、それでもいいから」
「おれが気にする」
「でも今までは」
「今までも、おかしかったんだ」
馬鹿だな。お前も、おれも。おれは何度、お前の嘘を見ればいい?何度見破らないフリをすればいい?何度騙されてやればいいんだ?
嘘なんてもうやめよう、つくのも、つかれるのもくるしい。だからもうやめよう。そんなに苦しそうにさ、そんなにも優しい嘘を、おれは見なかったことにはできない。騙されてやることしかできない。
お前もお前で、おれたちの首輪を、それがどこに繋がっているのかを見て見ぬフリをして、そしてあまりにも優しい嘘を吐く。おれに裏切ることを許させるための嘘だ。可哀想を気取ってみせる、白々しい嘘だ。その嘘は、哀しくて、口元は苦しそうに歪んでる。もう聞きたくない、見たくないんだ。だから、もうやめよう。
「この場でお前を滅茶苦茶に犯すって言っても?」
「そんなことしないって知ってる」
「奥さんを殺すって言っても?」
「……そしたら、その前にお前を殺すよ」
「……愛してるのに」
「大切な人を裏切りながら愛し合うのは、もう堪えられない」
裏切りを愛なんて都合のいい言葉で誤摩化すのも、本当に愛している人に裏切ることでしか応えることができないのも、やめよう。中途半端に大切にするなんてどっちにも失礼だ。
おれはもう二度とお前の愛の言葉なんて信じない。信じるフリだってしない。嘘じゃないと、それが本当の本心だと知っている。けどおれはそれを信じてはいけないんだ。だってそれを信じたら、応えずにはいられない。そうしたら本当に本当の裏切りになってしまう。
だからおれは、お前の愛の言葉なんて、信じない。
「もうやめよう、よすが」
「しづ……」
「よすが、おれはお前が好きだよ」
「……オレだって、そうだ、お前が好きだよ」
息が止まりそうになる。
確かに、おれは縁を愛してしまっている。それだけの事実を飲み込めないほど、胸がいっぱいで、空気すら入る余地もないくらいだ。
「でも、だから、やめよう、逃げるのも騙すのも」
「……志津哉」
悲痛な顔がやがて、諦めたような笑顔に変わるのを見届ける。いつか来る瞬間だとわかっていても、それでもむかえたくなかった。首輪にも赤い糸にも甘えていたんだ、おれたちは。薬指も小指も見れなくて、スーツすら後ろめたくて、手に入らないはずのものに手を伸ばしていた。
「志津哉、ほんとうに終わりなんだな」
「ああ」
キスをすれば、お互い覚悟が鈍るとわかっていたから、震える手を握り合う。縁が、かすかに笑うのがわかった。
「相変わらず、冷たい手だな」
おれの手はここまで来て、未練がましく白んでいる。
「よすが」
大人になると色々なことが窮屈になる。スーツも指輪もそうだ。けれど一番は、こんなに悲しいのに、大声で泣きわめけないことだと思った。
「泣くなよ、しづ」
困ったように握る力を強めた縁に、本格的に涙が止まらなくなる。今生の別れってわけじゃない。だから泣いている。いっそこれが永遠の別れなら、どんなにか楽だろう。
いっそ叫び出したかった。縋りついて、愛を強請ってしまいたかった。
「おれは卑怯だな」
「志津哉」
「覚悟を決めたはずなのに、お前に覚悟をさせたのはおれなのに、おれは」
「そうだな…でもいいんだよ、オレは、それでも愛してるから」
手をはなそうとして、そうさせて貰えなかった。
「だからオレは、お前の心が欲しかった、体ばかりじゃなくて、心が、ずっと欲しかった」
縁の手も、白んでいることに気付く。もう一度握り直して、かなしい諦観の目と見つめ合う。
「馬鹿だな、よすが」
燻りながら見開かれた目は星に似ている。安穏の夜空を、煌めいて飾り立てる星々の輝き。それが滲むのをまんじりと見た。逸らすことはもうしない。
「もう持ってるくせに」
白んだ二つの手に、二人分の涙が落ちる。
征服は、もう終わり。
(おしまい)
緑ちゃんと美永子ちゃんの兄貴同士です
縁が緑ちゃんの
志津哉が美永子ちゃんの兄貴
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