餞を


 高校二年生の時に出会った彼女は、真冬という。病弱そうな白い肌は透き通るようだった。けれど唇は赤く、綺麗な黒髪と白い肌によく合っていた。
 二年Bクラスだったぼくと彼女は隣同士で、読んでいる本の趣味が合っていたことから、よく話すようになった。あの作家のこういう表現が好きだとか、こういう描写は美しいだとか、細やかだが色々な話をして、高校三年にあがる頃に付き合い始めた。
 偶然にも一年の時に決めた進路が被っていて、仲良く同じ大学に入り、ルームシェアという名目の同棲を始めた。二人とも学生だったから家賃は折半で、あまり楽ではない生活だったが、それでも楽しかった。ぼくは真冬を心底から愛していたし、真冬もぼくを懸命に愛してくれているのがよくわかった。
 同棲を始めてから二年目の秋。真冬は病床に臥せった。発見が遅かったためかガンは進んでいて、あちこちに転移していた。余命三ヶ月を宣告されてホスピスに入り、真冬は一ヶ月で死んでしまった。その一ヶ月の間、色々な話をした。これまでのこと、これからのこと、本の話、花、動物、芸術、色々な話を。
 真冬の骨は、彼女みたいに真っ白く、小さかった。

「美鈴、久しぶりね」

「ああ、真冬……逢いたかったよ、きみに、すごく」

 死んだはずの真冬が、今、ぼくの目の前にいる。華奢な細工の、白いチッペンデール様式の椅子に座って。よく似合っている。白いワンピースも、白い花の髪飾りも、真冬が気に入っていた青いパンプスも、本当によく似合っている。美しかった日々の中を切り取ったように、あの頃のまま、真冬はぼくの目の前で、微笑みながら座っている。

「あれから十年よ」

「うん、覚えてたよ」

「忘れてって言ったのに」

「忘れないでとも言ってたよ」

 真冬のみぞおちあたりから、花が咲くのが見えた。不気味なほど青い花だ。

「ねえ?美鈴」

「うん」

「大丈夫なんて、嘘は悲しいわ」

 その花びらがはらりと落ちるのを見届けて目が覚めた。
 時刻は午後五時、まるまる十二時間寝ていたことになる。なにより、妻はもう出勤している時間だ。ベッドヘッドのサイドテーブルを見ると、走り書きのメモがあった。

『美鈴へ

よく寝てるみたいだから起こさないね
いつも通りの時間に帰って来ます
お仕事もいいけど、よく休んで
行ってきます

秋良』

 長時間寝たせいか、眠気が晴れない。それでもベッドからでて、顔を洗いに洗面台に向かう。
 鏡の中からこちらを覗くぼくの顔は、水滴をポタポタ落としながらあの頃の面影を残している。なにもかも、目に見える希望を全て全て信じていたあの頃。


『ふゆ、卒業してさ、翻訳である程度食べられるようになったら、どこか遠い綺麗なところに行こうか』

『いいね、行こう……ねえ美鈴』

『うん?』

『小説は?書かないの?』

『……わからない』

『じゃあね、美鈴、私のために書いて、私のためのお話』

『うん、いいよ……真冬のための話を』

 ぼくが初めて書いた小説は、高校の頃に真冬をモデルにした主人公が不思議な人に出会うとても短い話だった。それでも真冬は喜んでくれて、ぼくもそれが嬉しかったのをよく覚えている。その後もいくつか真冬のための話を書いたが、真冬はそのどれもを嬉しそうに読んでくれた。
 そして真冬が死んで、ぼくは小説を書くのをやめた。だってぼくは真冬のために書いていた。どんな話も、真冬のためだけに。

『ねえ、美鈴、お話を書いてよ、私のためだけの』

 最後に書いた小説は、日常をただ繰り返すだけの話だ。ぼくの願望が表れすぎた話。変わらぬ日常をずっとずっと続かせたいと願った、真冬のためというよりはぼくのための話だった。
 そんな現実逃避甚だしい話も、真冬は喜んで読んでくれた。死ぬ三日ほど前だったろうか。

『ねえ美鈴、忘れてね……私のこと、忘れて』


 リビングのソファーに座って、テレビをつけながら置いたままにしていたパソコンを開く。
昨日どこまで進めたのか全く覚えていないが、半ば義務的に続けていたのを良く覚えている。今日もそうなるだろうと思う。これ以上。この物語に心を割くことはしたくなかった。
 しばらくやったら、今日は秋良の言うように休もう。

『だから言ったんですよ!殺してやるって!』

『馬鹿なことを…』

 テレビでは刑事ドラマをやっている。音楽を聞く気分でもない、けれど静寂の中にいたら気が狂いそうだ。

『そんなことをしたって、あの子は帰ってこない!』

『そんなことわかってる!オレが一番、わかってるんだ!』

 だめだ。
 一文字も進まない。パソコンをテーブルの上に乗せて、今回の資料を開く。目を滑らせても頭には入ってこないが、翻訳しているよりはマシだ。それを読みながら、ソファーに仰向けに寝転ぶ。
 そうだ、ぼくがいちばんわかってる。


「美鈴、また逢えた」

 目の前に資料の文字ではなく、白く真っ黒な壁があった。いつもと違う、今回は廊下を通ることなく直接部屋に来たらしい。真冬の燐とした声が背後から聞こえて振り向くと、花が増えていた。胸元、腹、喉元から青い花が咲いている。
 青い花が咲く場所に、背筋がすぅーっと冷えるのを感じた。真冬のガンの転移場所は確か。

「真冬」

「ねえ美鈴、小説は書かないの?」

「うん、きみが死んでから、もう書いてないよ……書けなくなったんだ」

「そう」

「真冬」

「なあに?」

 真冬がぼくの問いかけに応えて笑う反動か、花が揺れる。最初に咲いていた花の周辺には、色とりどりの花が拡がっていた。

「どうして、逢いにきてくれたの?」

「……もうあなたを解放しようと思ったのよ、私からあなたを、解放しようと」

「どういう……」

 夢が遠のく音がする。

「そのままよ、美鈴」

「待って、待って、真冬!」


 ……目が覚めると、心配そうにぼくを見る妻の顔が見えた。どうしてか、ひどく安堵して泣きそうになる。

「美鈴、大丈夫?」

 起き上がってソファーに座り直すと、妻はソファーではなくぼくの目の前にしゃがんで、ぼくの顔を覗き込むようにしながら、馬鹿みたいに震える手を握ってくれた。

「……だめだ、秋良、ぼくは、大丈夫なんかじゃない…」

 みっともない震え声だ。反響もせずに落ちて行く。

「美鈴、悪い夢を見たの?」

「そうじゃないんだ、ただ、ただ……哀しい」

「なにが哀しいの?」

「別れを告げなきゃいけないなんて、」

 さようならを言わないでと泣いていたのは、きみじゃないか。

『大切なものはしまっておかないとだめよ……わからなかったの?だからあんなにも簡単に手放せたの?』

 だからぼくはしまっておいたんだ、忘れないように、心の奥深くに。きみをしまっておいたんだ。

「あ、このドラマ……美鈴も見てた?」

「うん、」

「真冬さんと?」

「うん」

「……ねえ美鈴、わたし、あなたが好きよ、愛してる、どんな日常も幸せなの」

「うん、ぼくもそうだよ、秋良をあいしてるし、本当に、しあわせだよ」

 食事の準備ひとつ出来ていないとか、妻を困らせているとか、そんなことを考える余裕は今のぼくにはない。
 けれど言ったのは本当のことだった。大丈夫じゃないのも、このドラマを真冬と見ていたことも、妻を愛していて幸せだと思うのも、全部本当だ。

「ねえ美鈴、真冬さんのこと今でも愛してるでしょ?」

「うん、今でも愛してるよ」

「小説を書かないのも、真冬さんのためでしょう?」

 妻と出会ったのは、あの病院だ。
 真冬のために通っていた当時、妻は三階担当の看護師だった。真冬がホスピスに移ってからしばらく会うことがなくなり、それから三年ほどして街中で再開した。
 その頃のぼくは、三年が経っても真冬が死んだことで打ちのめされていて、とても正常とは言えない状況だった。翻訳の仕事はしていたが、気を晴らすためと酒代を稼ぐためでしかなかった。それを支えてくれたのが妻だ。見兼ねてというか、放っておけなかったのか、今にも倒れそうだったぼくを家まで連れて帰り、アルコール依存を治すために毎日通ってくれた。しだいに好き合うようになって、同棲を経て結婚したのだ。
 だから妻は、真冬のことをよく知っている。ぼくがいない時に二人で話したことがあると、ぼくの世話をしている時に妻がこぼしたことがあった。その時に何を話したのか、詳しいことは聞かなかったが、真冬さんは良い人だったねと言っていたのを覚えている。

「逆だ、ぼくは真冬のために小説を書いていたから、書けなくなったんだ」

「ねえ美鈴」

「なぁに、秋良」

「わたしが真冬さんとした話、恥ずかしいから言わなかったんだけど、実はわたしあの頃からあなたが好きでね、それを真冬さんは知ってたの……いつか美鈴をお願いしますって、きっと幸せになれるんだからって、そう言ってたのよ」

「そうだったんだ……」

 真冬らしいと思う。
 あの頃のぼくは、こんな幸せを想像してなんかいなくて、真冬とずっと一緒にいる未来が壊れかかっていることと、真冬を失う恐怖に震えていた。もう二度と幸せになんかなれないんだと思っていた。

「ねえ美鈴」

「なぁに、秋良」

「久しぶりに外食しない?あのお店、行きたいの」

「うん、いいよ」

「じゃあシャワー浴びてくるから、ちょっと待ってて」

「……うん」

 妻がぼくの手を放してリビングを出て行くのを、ぼーっと見送る。
起きたばかりだからか、体がだるい。このまま二度寝でもしてしまいそうだ。また寝れば、真冬に逢えるだろうか。あんなに寝たのに、まだ、眠い。


『美鈴、私しあわせだったわ』

 すぐに夢を見ているのだとわかった。いつもの夢じゃない。ホスピスのベッドに横になって、細く白い手を握ったぼくに言う真冬。死ぬ一週間ほど前だ。
 ぼくはそれが別れの挨拶みたいで嫌だった。けれど、ぼくもと月並みなことを言って、他にもなにかと言葉を探す。だから、と真冬が続けるのを聞いて、口を閉じた。

『ねえ美鈴、忘れてね……私のこと、忘れて』

 窓の外を見ながらそう笑う真冬の背中はあまりにも細く、頼りなかった。そんなこと言われたら、たとえ忘れるつもりだったとしても忘れられなくなる。無理だと言いたかった。でもぼくは、真冬に笑っていて欲しかった。どれだけ哀しい笑顔だったのか、よくわかっている。どれだけ哀しい笑顔でも、笑っていて欲しかった。だからなにも言うことはせず、握った手に力を込めるだけにした。そうすると真冬は困ったように笑って、握った指をそうっと撫でてくれた。

『私は、あなたを縛ることはしたくないの』

 なら死なないでくれと、言いたかった。けれどそれを言ってしまえば、真冬をこの上なく困らせるだろうことはわかっている。ぼくは一度だって、真冬に死なないでなんて言わなかった。気丈そうに振る舞う笑顔を見てしまえば、言えるはずがなかった。

『……でもね、ひとつだけお願いがあるの』

 伏せていた顔を上げる。

『さようならは言わないでね、さようならだけは、言わないで』

 その言葉がもうさようならみたいだと思ったが、それも飲み込んでただ頷いた。
真冬の手を握るぼくの手が、かすかに震えている。気付かないフリをしてくれる真冬の優しさがこわい。


『忘れないで、』

 真冬が死ぬ、前日だ。珍しく泣くものだから、ぼくはぼくにできることなんてなにもないんだと悟った。

『こんな、こんなこと、言うつもりじゃなかったの』

 真冬の涙をそっと拭ってやると、少し落ち着いたのか先の発言を撤回するように呟いた。ぼくは馬鹿みたいにわかってるよと返して、ただ傍にいた。哀しいのもわかってる、淋しいのもわかってる、口惜しいのもわかってる。ただやっと本心をさらけ出してくれた真冬が、少しだけ嬉しかった。ぼくにくらい、弱みを見せてくれてもいいじゃないか。

『美鈴、美鈴、愛してるわ』

『ぼくも愛してるよ真冬』

 だから、死なないで。



「美鈴、また会ったね」

 気付くと、いつものあの夢にいた。花はもう部屋中に拡がっていて、甘いようなにおいが充満している。

「真冬……」

「ねえ美鈴」

 秋良の声が、真冬の声と一緒に反響する。

「私、あなたを愛してる、いつだってしあわせだったのよ」

『わたし、あなたが好きよ、愛してる、どんな日常も幸せなの』

「ああ、ぼくもだよ……幸せだったし、幸せだ」

 秋良といて幸せを感じる時、ぼくは無意識の内に真冬に対する罪悪感のようなものを抱いていた。
 忘れないでと泣いて死んだ真冬をじわじわと忘れていく恐怖と、そして別の誰かと幸せになるという後ろめたさを感じていた。
 それはいつまで経っても消えず、だからこうして、真冬は姿を現した。


「あれから十年よ」

「うん、覚えてたよ」

「ねえ、もういいんじゃない?」

「……うん」

「もういい加減、ちゃんとしあわせになって」

「うん」

「美鈴を、私も、解放してよ」

「真冬、ぼくは」

 ぼくは、大丈夫。きみは心配してくれたんだろう。忘れないでと泣くきみも、忘れていいのと笑うきみも全部覚えている。今でもきみを愛してるよ、忘れてなんかやらないよ。
 でもぼくは、幸せだ。ちゃんと、幸せになれる。秋良は本当に優しくて、細かいところにも気がつくできた人間だよ。多分きみも知っているだろう。
 リビングで笑い合う瞬間も、珍しく寝ぼける瞬間も、幸せだ。ぼくは大丈夫。本当に、幸せなんだ。
 だから眠っていていいよ。不安も心配ももういいんだよ。淋しいだろうが、ぼくはもう、きみがいなくても大丈夫だ。

「ごめん、真冬……ありがとう」

「しあわせなの?」

「うん、そうだよ」

「それなら、いいの」

 愛をもって、ぼくはきみにさようならを告げる。ぼくの箱庭を、粉々に、砕いてしまおう。

「美鈴、愛してるわ」

「ぼくだってそうだよ、きみを愛してない瞬間なんてないよ」

「そうね、だから」

「うん、だから」

 細く嫋やかな首に手をかける。少しでも力を入れたら折れてしまいそうだ。そうっと少しずつ少しずつ力を込める。去り際に手を振るように、優しく。

「さようなら、真冬」

「ええ、みすず、さようなら」

 ささやかな花が咲き誇る笑みで、真冬は涙を流す。ぼくも泣いていた。訣別の涙だと知っている。
 部屋中に広がる花が、じわじわと消えていくのがわかる。真冬の白い手も、お気に入りのパンプスも、じわじわ、じわじわ消えていった。

「ねえ、みすず」

「ん?」

「餞別をちょうだい」

 いっそうの力を込めながら、真冬の髪にキスをした。そして頬と唇に軽い口づけを落とすと、真冬が鈴を転がすように笑ったのがわかった。

「ひみつにしといてあげる」

「ああ、お願いだ」

 悪戯っぽく笑って、真冬は消えた。座っていた美しい椅子が、ひとりでに燃えあがる。部屋全体がオレンジ色に照らされて綺麗だ。
 白く繊細な細工の椅子が燃え尽き灰になると、それはぼくの影になった。部屋が消えていく、ぼくの、宝箱、箱庭。



「美鈴!?」

「……あきら」

「ああ!よかった、よかった、何度呼びかけても起きないから……よかった」

 心配かけてごめんと言いたかったが、ひどく喉が渇いて言えそうにない。ぼくに縋り付いて泣く秋良の頭をそっと撫でるくらいしか出来なかった。

「あ、喉渇いた?お水飲む?」

 弱々しく頷くと、ばたばたとキッチンまで駆けて行き、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを持って戻ってきた。それをそうっと飲まされて、やっとまともに話せるようになる。

「ごめん、秋良」

「いいのよ、本当によかった」

「……さようならを、してきたんだ」

「……そう」

 久しぶりに体が軽い。今なら町内一周全速力で走っても大丈夫なくらいだ。

「行こうか」

「え、どこに?」

「外食、行くんだろう?」

「外食って……大丈夫なの?」

「うん、すごく気分がいいんだ」

 パァッと顔を輝かせた秋良と家を出る。快晴、日の光は強いが、時折吹き抜ける風が心地いい。歩いて行ける距離ではないので車に乗るが、そう遠くなければ歩きたい気分だ。
店に着くまで、車を走らせながら色々な話をした。
 真冬の話、小説の話、夢の話……とにかく、色々。

「嘘だと思うかい?それとも、あくまで夢だと?」

「ううん、たった少ししか話してないけど、真冬さんの気持ち、なんとなくわかるわ」

「……そっか、うん、そうだね、そっか」

 店に入って定位置に着くと、二人とも頼むものはもう決まっていた。秋良はハンバーグ、ぼくはハヤシライス。

「秋良」

「ん?」

「ぼく、小説書くことにしたんだ」

「そう」

 秋良はにこやかに水を飲んで、すまなそうな顔をして話しだした。


「実はね、あなたの小説、勝手に読んだことがあるの」

「本当?」

「うん、素敵なお話だった……けどね、そこにあなたがいないの」

「ぼくが?」

「そう、だからね、あなたがいるただ幸せなだけのお話を読みたいのよ、紆余曲折があっても、幸せなキスをして終わるような、ハッピーエンドを」

 なんだか胸がいっぱいで、そうだねと答えるだけにした。穏やかに笑う秋良が、ひどく眩しかった。

「うん、幸せなキスか、いいね」

「でしょう?」

 店員に見えないように隠れて軽いキスを交わす。触れたくちびるの柔らかさに、なぜか泣きたくなった。
 幸せなキスだ、きっと多分、せかいでいちばん。





(おしまい)




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