愛すべきスティグマ
『そんなに泣くぐらいなら最初からしなければよかったでしょう』
マリア様のステンドグラスを背負って、母が僕の背を撫でる。
悪戯がバレて叱られて泣くと、母は決まって優しげな笑顔でそう言った。僕はその優しさに甘えて、いつまでもいつまでも泣いてしがみついた。
最後にはそうして許してくれるのが嬉しくて、小さな悪戯をたくさんした。
『ほら、あんまり泣くと目が溶けちゃうよ』
そう、少しばかり意地悪そうな声色で言われて、やっと泣き止んで教会から出ると、お揃いのロザリオを揺らして帰った。
太陽を見送る町並みを並んで歩くと影が怪物みたいに伸びて、それをやっつけるフリをしながら鼻をすすって家路を辿る。しゃらしゃら揺れるロザリオにつられて母を見ると、本当に愛しそうに僕を見ていて、いつでも同じことを教えてくれた。
『あなたの名前はね、あなたが幸せになれるように、そう祈ってつけたのよ』
……暗転。
思い出すのもおぞましい可哀想な記憶がある。
僕の足元でエプロンを引っ張るかわいいかわいい子供が、こしょこしょ話と言って照れたように笑った。僕はそれに応えるように人差し指を顔の前で立ててかがんでやる。すると、耳元でくすくすと拙い声。それがおかしくて、僕もくすくすと笑い声を漏らしてしまう。
「せんせい、ひみつだよ」
「うん、なあに」
ほっぺを林檎のように赤く染めて、ニコニコ笑う子供は可愛らしい。
保育士という仕事は大変だけど、苦だと思ったことは一度もない。自由に動き回る子供達に振り回されはするが、園内に満ちる子供の笑い声は、愛すべきものだった。
「ほんとのほんとに、ひみつにしてね」
「わかったよ」
子供が走り回る音に紛れて、泣き声が聞こえる。どこかで泣いている子がいるようだ、この子の話を聞き終えたら見に行ってあげないと。
風が吹くと、少し肌寒いような日だった。それでも日が当たっていると暖かい、そんな日だった。
「ぼくね、こうきくんがすきなの」
「...せんせい?」
可哀そうな子供が僕を覗き込む。無性に泣きたくなった。僕たちは同じ、だからわかる。この子の未来が。この子が全てを理解してしまえば、恋は苦しみでしかなくなる。口に出したらきっと、この子の世界は壊れてしまうだろう。僕みたいに。
「…かわいそうに」
不思議そうに首を傾げる子供は何も知らない、可愛い子供だ。糾弾も、迫害も、嫌悪も、されるべきではない。ただ愛されるべき子供だ。
『あなたが幸せになれるように』
僕だって、そうだった。
……暗転。
昔、振り返れば遠い昔、僕の初恋の記憶。
恋なんてくだらない。高校二年生までずっとそう思っていた。
キスやセックスなんてしたくない。他人と唾液を混ぜ合わせたり、股間を弄り合ったりするなんて、ただただ気持ち悪いだけじゃないか。他人が少し触れただけでも気持ちわるいっていうのに。
そう思っていた僕に産まれた恋心は、全く純潔を保っていた。手を繋ぎたいとも思わなかった。触れなければずっと純粋かつ清潔でいられる。口に出すこともしないのは、途端に清潔さを失ってしまうような気がしたから。くだらないと思っていた恋は、僕の芯になった。アイボリーやサーモンピンクは心地好い感情だ。くるしくない。触れたくない。そんな思春期。
親友に抱いた感情は強い尊敬や思慕を孕んで、崇拝にも似たようなソレは友情を越えた感情だった。後ろめたさなんて微塵ほどもなくて、まるでタンポポやスミレだとでも言うようにストンと僕の中にあった。
葉桜の緑に染まった並木道、先を歩く親友が振り向いて僕に笑う。
「俺さ、彼女が出来たんだ」
風が僕を追い抜いて、親友の元へ吸い込まれていく。綺麗だと思った。東西南北上下左右縦横斜め、グワングワンと揺れている様な気がした。
「あ、お前だから言うんだぞ?秘密にしろよな」
切ない。せつない。むなしい。
「うん…相手は、どんな子?」
「いい子だよ、特別かわいいってわけじゃないけど、優しくてさ、そんで俺のこと好きだって言ってくれたんだ」
そうやって、そうやって君は僕から離れていくんだ。僕なんかとは一緒に帰ることもなくなるんだ。彼女と一緒に帰って、体を寄せて、気持ちを交わして、キスして、触れ合って、愛し合って、2人だけの時間が何よりも大切になるんだろう。僕の方がきっと、気持ちは強いのに。
喉の奥が苦しくなった。報告を終えた親友が前を向いて歩き出した。その背中に教えられる。結局、感情や思考の純潔なんて、残酷なくらい簡単に崩れてしまった。あの暖かい、アイボリーやサーモンピンクがじわりじわりどす黒いような可笑しな色に染まっていく。
T字路を左に曲がって彼と別れる。僕に向けられた笑顔を思い出したら、何故か一歩も踏み出せなくなった。どうしようもなくって、まるで健全な感情を抱いていたつもりの自分が恥ずかしくなって、顔を覆いたくなる。立っていられなくてしゃがみ込んだ。きちんと息は出来ているのに、苦しくてしかたない。
太陽を見送る町並みが僕を囲む。振り返っても、あの背中はもう見えなかった。
『泣かないのよ』
僕は泣かなかった。
……暗転。
ごめんね。どうしてもくるしかったの。あなたはあたしのたからものよ。それでもくるしいの。あなたがいたならしあわせなのに、まいにちまいにち、くるしくてしかたないの。あなたがくるしんでいるのも、かなしんでいるのもしっていた。でもなにもできなかった。ごめんね。どれだけいとしいあなたのねがいでも、あたしにはあなたをころすなんてできないのよ。だってあなたは、たったひとりしかいない、あたしのじまんのこどもだもの。××ねんまえのあたしのこころに、あなたをうまないなんてこたえはなかったの。うまれてきてほしかった。あなたがのぞまなくても。ごめんね。だいすきよ。だいすきよ。せかいじゅうのだれより、あなたを愛してるわ。ごめんね。だいすきよ。どうか、しあわせになって。
母はぽつりとそんな手紙を残して、屋上から飛び降りて死んだ。僕がゲイだから死んだ。
いつか母に殺してくれと頼んだ時のことを思い出す。その時母はただ泣いていた。ゲイのAVを見て勃たせて「殺してくれ」と言う僕を見て泣いていた。そして鼻を啜りながらぼそぼそ「あいしてるわ」と呟いた。
八つ当たりでしかない。受け入れられることなんてないとわかっていたのに、馬鹿みたいに溢れ出るのをそのまま吐き出してしまって、結果拒絶された。その腹いせでしかない。
わかっていたはずなのに、どうしようもなく泣きたかった。僕は泣かない。
いっそのこと泣いてしまいたかった。
『そんなに泣くぐらいなら最初からしなければよかったでしょう』
けれど否定したくない。
……暗転。
三つ下の後輩は、最初こそただ可愛いだけの後輩だった。それがいつしかあの親友のように、あまりにも大きな存在になった。
切ないほど恋しかった。愛しかった。
笑顔にどれだけ救われたかわからない。そうしてすくいあげたのも彼なら、突き落とすのも彼だった。わかっていたはずなのに、僕を置き去りにする背中を思い出すと、いつも零れそうになったのだ。結果、溢れてしまった。
伝えれば拒絶されることなんて、わかっていたはずなのに、伝えなければ君は今も笑って僕をすくいあげてくれたのに。
でも、あの背中は、寂しい。息もできないほど切ないんだ。
「あんたホモかよ、きもちわりぃ」
消えたい。
……暗転。
マリア様の前で跪くと、首から下げたロザリオがシャラリと揺れる。ステンドグラスの後ろから射す、後光とも呼ぶべき西日は、僕を責めているようだ。
僕の住む地域では土葬は禁止されているため、母の遺体は荼毘に付した。葬儀等も終えて、今は冷たい石の下にいる。神父様が祈りを捧げてくれる中で僕はずっと、あの後輩のことと、いつかの背中と可愛い子供のことを考えていた。
「母は、自死という罪深い選択をしました」
懺悔室は、息苦しい。
重くのしかかってくるのは、罪の意識だろうか。
「僕が、その選択をさせてしまいました」
一生、言うつもりはなかった。僕が同性愛者だということを、懺悔することが嫌だった。あの後輩を恋しいと思う気持ちも、いつかの背中を切なく思う気持ちも、罪深いことだと思いたくなかった。同情のひとつさえ、誰かに寄越されたくない。だって僕は他の人と何も何一つ変わらず、他人に恋をしているだけだ。
「神父様、僕はこれまでこの懺悔室で色々なことを告白し、そして神のお許しを頂いてまいりました」
もし、僕の恋が罪深いなら、僕以外の他人なんか要らないじゃないか。
もし、この想いが罪だというなら、ならばみんな咎人だ。イエス様でも背負えない罪を背負った可哀想で醜い、どこまでも哀しい罪人だ。
「神父様、僕には自覚してからずっと、誰にも言うまいと、罪ですらないと、けれど墓まで持って行こうとしていた秘密があります、この小部屋でだって言うまいと思っていたことです」
だからみんな、死罪でしかるべきなんじゃないかと、思う。
「僕は、男の身でありながら、男しか好きになることができません、母は僕がゲイだから死んだのです」
秘めた恋だとか、背徳に寄せる身だとか、そういう禁忌ぶった悲恋ぶった人間は、なにもなにもわかってなんかいない。
傷つけ合わない想いなんて、叶わない想いと変わらない。なんの意味もない、実の生らない花だ。
「…この想いは罪ではないと、ずっと言い聞かせてきました、他の人と同じように、他の誰かを好きになっただけだと、たとえ相手が誰であっても、罪にはなりえないと…」
とうとう、ずっとずっとずっとずっとずっと堪えてきたはずの涙が零れてしまったのがわかった。堰を切ったようにあふれて止まらない。嗚咽も、みっともなく懺悔室に反響している。神父様が困っている。けれどどうにも止まりそうになかった。
『そんなに泣くぐらいなら最初からしなければよかったでしょう』
母の言葉がフラッシュバックする。
泣くぐらいなら最初からしなければよかった。そう思ってしまうのが嫌で、今までずっと堪えてきた。
あの背中を見送った時も、後輩に拒絶された時も、母を死に追いやってしまった時も。誰かを好きになったせいで泣きたくなかった。好きになってよかったんだと、ずっといつまでも思っていたかった。
きみを、好きになったせいで泣いたんじゃない、胸が痛いだけなんだ、だから、僕は、よかった、きみを好きになってよかったんだ。ずっと、そう言い聞かせていたかった。
「罪、でしょうか、秘めなければと殺され続けた僕の想いは、罪にしかならないのでしょうか」
僕の問いかけは諦めに近かった。罪だと言われてもいい。悲しいけれど、別にいい。けれど、神父様が罪だと、神が罪だと言ったって僕は、許しは乞わない。
「……神父様、僕は僕の想いについて、許しを乞うことはしません、」
だって、僕まで罪だと認めることになる。
「神父様、僕は許しは乞いません、僕は、ただ救いが欲しいのです」
泣いてしまっても、罪と言われても、許しは乞わない。
『ほら、あんまり泣くと目が溶けちゃうよ』
だけど僕は今、今、救われたかった。
……暗転。
もうとっくに、仕事はやめていた。けれど愛する後輩の歪んだ顔ばかり夢にでてきた。夢の中でふわふわ浮く僕に後輩が吐き捨てる。
『あんたホモかよ、きもちわりぃ』
ロザリオは、捨ててしまった。すると、幾許か肩の重みもなくなったような気がする。
でも、それだけだった。
背中、後輩、母の遺書、可愛い子供、マリア様のステンドグラスから射す光。1日、何をするでもなく部屋にいるといつも頭の中をぐるぐるまわる。ロザリオみたいに捨てられたらよかった。
『そんで俺のこと好きだって言ってくれたんだ』『きもちわりぃ』『どうか、しあわせになって。』『せんせい、ひみつだよ』
膝が震える。なにがいけなかった?どこで間違えた?だって少し前まで、あんなに、みんな笑ってた。僕も、笑ってた。
くるくるまわる。
『俺さ、彼女が出来たんだ』『ちかよんな!』『うまれてきてほしかった。あなたがのぞまなくても。』『ぼくね、こうきくんがすきなの』
目の前で歪んだロープの輪がぐらぐらゆれる。僕に死んでいいと告げながら突き放している。輪郭が曖昧になっていく。ゆらゆら、一瞬落ちて、またゆらゆら輪郭が滲む。死にたくない。こわい、死にたくないよ。
『あなたの名前はね、あなたが幸せになれるように、そう祈ってつけたのよ』
椅子を蹴っ、た。
……暗転……。
(おしまい)
リメイクです
もとは三つぐらいあったのをひとつにまとめました
この人が一番可哀想なんじゃないかな(当サイト比)
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