譫言も愛
ハルキという男は、なにもかもに、いつも何かしらに裏切られているような人間だった。
親に捨てられ、親戚中をたらい回しにされ、やっと見つけた"大切にしてくれる人たち"を亡くし、恋人には騙され、友人には寝取られ、教師に襲われ、会社に切り捨てられ、何度も裏切られてきた。そうしてなにもかもを奪われ続け、それでも人を信じることはやめなかった。
「優しいんだ、ただ普通に、優しいんだよ」
ハルキがようやく安息の束の間を手に入れたのは、高校1年の秋だった。
その頃に転校してきたハルキはどう考えても訳ありという風で、大人というものに絶望しきっていた。たらい回しにされていたハルキを引き取ってくれたのは、人類みな兄弟程度の血の薄さの遠縁だったらしい。けれど家族のように、優しく、そして厳しかった。
家庭がやっと安息になったハルキは、そこでやっと青春らしい青春を堪能する余裕がでたのだ。偶然隣の席になった俺と友達になって、部活や恋やらに精を出して、普通の高校生みたいに笑っていたのをよく覚えている。
ハルキの過去をぽつぽつと知り、そうしてハルキが裏切られるまで、そう時間はかからなかった。ハルキにとって、もう何度目のことだったかは知らないが、俺がそれを目にするのは初めてのことだ。
所属していたバスケットボール部の先輩が、めきめきと力をつけていくハルキをよく思わなかったのか、当時ハルキが大層気に入っていたミッドナイトブルーのバスケットシューズを切り刻んだ。尊敬している先輩だっただけにショックだったんだろう。日も暮れきったのに電気もつけず、誰もいない教室でズタズタの靴を呆然と眺めていた。
「これ、初めて買ってもらったんだ、バスケ部に入りたいってビクビクしながら言ってさ、そしたら2人とも色々いるだろうってスポーツ用品店までついてきて、まだ何が要るかもよくわからないのに、これがいいあれが似合うって、これは使うだろう嗚呼あれも必要だろうなんて、2人で雑誌見ながらほとんど決めてた」
最初、俺はハルキが泣いているんだと思った。けれど違った。ハルキは涙のにおいすらさせずに、ただ項垂れて、虚ろな目でミッドナイトブルーを見つめていた。
そうしていると決して小さくはなかったはずのハルキが、とてもとても小さくなって、胸が疼くのを感じた。首折り語るハルキが、踏みにじられた百合のように見えて、ひどく空しい。
「うれしかった、うれしかった…のに、なあ」
言葉尻は、もう囁くようだった。
ずっと、あの姿は頭から消えない。
それから何度も裏切られて何度も奪われるハルキを見るうちに、あの目は心を殺す目なんだと気付いた。憎むでも恨むでもない、悲しみや空しさや切なさとも違う、どうしてと責めるわけでも、どうしてと嘆くわけでもない。ただ奪われ裏切られ、何かを諦めるための目だったのだ。
「結婚するんだ」
照れ臭そうな笑顔でそう言ってきたハルキを見たとき、俺は安堵のような、絶望のようなおかしな気持ちになった。今までずっと、ずっと裏切られ続けてきたハルキが、ようやく安寧の場を手に入れられたのかと思うと、心底ホッとした。でも、俺以外の場所に安寧を見出したと思うと、寂しくてたまらなかった。
「おめでとう」
絵に描いたみたいにスタンダードな白いタキシードにかけた言葉は、本当に本当の本心からの言葉だった。泣きそうになったのも本当だ。ただ俺は安心して、けれど寂しくて、なにもかもなくなってしまったような気持ちすらあった。俺が築き上げたすべて、ポッと出の何処の馬の骨とも知れないような女に奪われたような絶望すらあった。
それでも、ハルキが幸せそうに、これ以上はないってくらい幸せそうに笑っていたから、俺も嬉しかった。あの笑顔をもう誰にも奪われないように、俺の寂しさくらい捧げてみせると思った。のに。
「……おれ、おれはただ、家族が欲しくて、ただ、もうひとりは嫌で、それだけで、それだけ、」
俺はただ、幸せになってほしかった。それだけだ。
「おれは、ただ、さびしかったこともつらかったこともくるしかったこともどうでもいいから、いや、あの頃に報いたくて、ただ、そばにいてほしかった、ただ、いっしょに、寝て、起きて、食べて、笑って、ただ・・…なあ、おれ、贅沢だったかな……」
うわごとみたいな電話を聞いて、俺は肺が潰れるほど全力で走った。二人では十分なあの部屋、一人には広いあの部屋を目指して、世界新記録でも出せるんじゃないかってくらい、全力で走った。バイクで向かえばよかったのかもしれないが、バイクに乗っていたら何人か轢いていたかもしれない。
とにかく、俺は走った。世界の果てより遠い場所に思える。あの女に盗られた時より絶望を感じていた。
走る間に、踏みにじられた百合を思い出す。あの寂寞の背中に、諦めの瞳に、悲哀の首筋に、いつもいつも殺される心に、思いを馳せた。きっとハルキの方が泣きたいだろうに、俺が泣きそうだった。狂ってしまいそうだった。
あの女の顔も思い出せなかったが、せめて少しでも届けばいいと内心で呪詛を、ああ、
……ああ!
どうして、どうしてだよ。やすやすと俺から盗っておいて、なんで手放したんだよ。こんなひどいことはない。呪われろ。ただ死ぬよりひたすら苦しめ。ハルキの悪夢すら生ぬるい。どうして裏切ったんだ。どうして置いて行ったんだ。どうして、なんでだよ。あいつが何したってんだ。あんなに悲しい、かなしい、かなしい……どうして!どうして!どうして!
あんなに幸せそうに笑わせておいて、あいつから孤独を奪っておいて、どうしてだよ。優しいやつだろ、金だってないわけじゃなかっただろ、浮気なんかしなかっただろ、甘すぎず厳しすぎず中庸のとれたやつだろ、清楚で、潔白で、純真で、誠実で、ひたすらにかなしい、どうして、どうして!
本当なら、あの時、俺から奪っていったあの時、殺したいほど憎かった。羨んだ。凸凹の体が羨ましくてしょうがなかった。首を絞め上げて、八つ裂きにして、内臓を引きずり出してやりたいほど妬んだ。頭の中で何度も殺した。醜い悲鳴を上げて死んでいくのを、何度も何度も見た。でも、だけど、けど、できるわけなかった。あんなに幸せそうなハルキ、初めて見たんだ。俺じゃ無理なんだってあの瞬間わかったんだよ。
俺じゃ、あんな顔にできない。それが、全部全部押しつぶされそうなくらい、悔しかった。息もできないくらい歯痒かった。あんなに幸せそうなハルキを見てから、ずっとずっと毎夜毎夜死にそうになるほど寂しかった。あの背中に回される手を、あの瞳を覆う唇を、あの首筋に寄せられる髪を、あの心に入り込める心を、ずっとずっと何度も何度も夢に見た。
あんなにも寂しい背中を蹴り飛ばして踏みにじって、どいつもこいつもあんなにも悲しい心を殺させて切り裂いて、それでどうしようっていうんだ。どうして、なんで、なんで……。
なんで俺じゃだめなんだよ、ハルキ。どうして俺には無理なんだ。俺だって、お前と一緒だ、ただ、ひとりは嫌で、ただ、一緒にいたくて、ただ、そばにいたくて、ただ、いっしょに、寝て、起きて、食べて、笑って、ただ…お前と、ただ、おまえがすきだ、すき、愛してる、ただ。
「ハルキ!」
世界の果てより遠い部屋に、ハルキはひとりで首を折って、佇んでいた。ひどく広く感じる。
「…ごめん、祝ってくれたのに、だめだった」
「そんな、そんなこといいんだ」
泣いてないって知っていた。いつもそうだったから。なにもかも、同じだった。背中、瞳、首筋、心。
「なあ」
俺の腕を掴んだハルキの手には、空っぽのくせに大した力があった。
「ん?」
震えているのは、揺らいでいるのは、どちらもそうだ。失い続ける苦しみなんて俺にはわからない。ハルキの孤独は、俺のものじゃない。だから、だからこそ、俺はうそをつくって決めたんだ。ずっと、墓場まで持っていくって決めたんだ。
「お前は、おれの味方でいてくれるよね」
「もちろん、」
もちろん、もちろん、そのつもりだ。けれど本当は、けれど俺は、可哀想なお前を愛してしまっていて、項垂れる首筋におかしな劣情すら抱くほどだ。
だけど、お前がそうして、俺に縋ってまで望むなら、俺は自分すら騙せる。でも、好きだ。お前が、どうしても泣かないお前が愛しくて、可哀想なお前が好きで好きでたまらなくなる。
言ってしまおうかと悩んだときもあったけれど、裏切られて項垂れるお前を見ると、どうしても、どうしても言えなかった。だってそうだ、裏切られて裏切られて、色々なものを奪われて、そうしてどんどん小さくなっていくお前から、儚く首折るなけなしのお前から、どうして友達まで奪えるっていうんだ?
だから一生、言うつもりはないよ。一生、お前を愛して、騙し続けてあげるよ。お前の孤独と俺の想い、天秤にかけなくったってどっちが重いかなんてわかる。
「俺は絶対、お前を裏切ったりはしないよ」
おまえがすきだ。
「ずっと」
すきだ、
「俺はお前の」
好き、好きだ、
「お前のそばにいるから」
好きだ、好きで好きでもう、たまらない。
「ずっと、」
お前がすきだよ、お前が一番泣きたいだろうに、俺の方が泣きたくなるくらい。
「俺だけは」
お前の孤独は、俺が一緒に背負ってみせるから、俺が持ち去ってみせるから、だから、だからもう泣いたっていいんだ。いつも死んでしまう心に、息を吹き込んだっていいんだよ。
(おしまい)
しつっこい話が書きたかったんです
テーマは反復です
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