ロバート
人は、いつから大声をあげなくなるのだろう。幼い頃はなにも気にせずに出せていた甲高い声、或いは産声のようにわんわんと涙を伴い響く声。胸が膨らんで、股ぐらから血を流して、私はあるひとつの声を失った。
例えば映画の中で、ヒーローがその身を犠牲にしても、美しい恋人たちが悲恋に崩れても、素晴らしい人生を歌う声が溢れても、どうにもならない未来のために別れを受け入れても、私の声は戻ってこない。けれど私は、叫びたかった。産声のように、わんわんと泣き叫びたかった。
本当は愛してはいけない相手だと知ってから数年、それでも、消えてはくれない。
私と同じの叔母が、愛しても叶わなかった人と心中した時。
あの子が、私の大切なあの子が、なにも知らない軽薄な男に奪われた時。
私はまた、あるひとつの声を失った。
「ごめんね、ミサキ」
彼女もまた、成長とともに声を亡くしたのだと知ったのは、あの軽薄な男との後ろ姿を見送った少し後。はらはらと涙を流して、声もろくに出せずにたまにしゃくりあげるだけ。そうして苦しそう泣きながら、私の向かいに座ったエミリは言った。
「ずっと気付いてたの、でも、無視してた…許してなんて、言わないわ」
こじんまりした喫茶店の無関心なBGMが反響する頭の中、私はひとつ、声を取り戻す。
「ごめん、ごめんね…ミサキ、あの人に抱かれて」
軽薄な男は、他の女の元を渡り歩いてなお、エミリを手放さなかった。手元に置いて、じわじわと飼い殺すように。
エミリの声は震えていた。
例えば親友同士、なにもかもわかっているはずの親友同士、同じことを言われたら、裏切りと呼ぶのだろうか。少なくとも私は、そうは呼べない。愛してはいけない相手だと知っていても、エミリを愛していた。安っぽいテーブル越しに私の手を握るエミリが、どんな気持ちであの男の言葉を聞いて、どんな気持ちでそれを受け入れ、すがりつくのか、なんとなくわかる。
エミリの言葉に頷いても、エミリも私も幸せになんかなれやしない。けれど私には、首を縦に振ることしかできなかった。
なにが最善かなんてわからない、ただ、私もすがりついていた。
「親友の目の前で親友の彼氏に抱かれんの、どんな気分?」
殺されたほうがマシだとすら思えた。
けれど彼女が、
「……ごめんね、ミサキ」
おぞましい行為が終わるまで、私はひとつも声を出さなかった。ミサキのにおいがするベッドで、殺したいほど憎い男と交わう私を、部屋の主であるミサキは隅で泣きながら見ていた。心も体も、私が欲しかったもの全てを手に入れた男。
「…呪われろ、アンタなんか!全部持ってるのに、どうしてこんな!」
「ミサキ、ミサキ!」
「なに言ってんのかわかんねーんだけど、イカれてんの?」
「殺してやる!!」
どうして?
なにもかも奪っていく男を、あなたを傷付けるだけの男を好きになったの?
私なら、どんな傷付きやすい宝石よりも大切にしてあげた。男に生まれたかった。どんな風に愛したって許される、男に生まれたかった。
「ミサキ、ごめんね」
あの男が出ていった部屋の中、エミリがぽつんと言った。
「この間から、そればっかり」
「ごめん、本当に、ミサキが男だったらよかった…ううん、女だって、ミサキを好きになれたら幸せになれたんだろうな」
「…エミリ、私、あなたを一生恨むわ」
それが、エミリへの最後の言葉になった。
悟られたまま、愛を告げることもしない内に。
私は、なんのためにあの男に抱かれたのだろう。…あの子を取り戻したかった。すっかり笑顔を殺してしまったあの子を、どうにかして、どんな手でも使って。
もう一度、エミリの笑顔が見たかった。
いちばん大切なものと引き換えに、私は、成長とともに失ったはずの声を取り戻した。
(おしまい)
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