鰐の骨接ぎ


 ワニを特集したテレビ番組を、何とは無しに作業をしながら見た。ワニは大きいものでは7メートルにもなり、体重は1トンを超えるらしい。元から知っていた視覚情報はあるが、テレビから流れてくる音声をBGMに脳内で想像してみても、稚拙な造形にしかならなかった。
 クロコダイル科のイリエワニという説明が聞こえた後テレビの画面を見ると、確かに大きなワニがぽっかりと口を開けて写っていた。牙がギラリとこちらを睨んでいる。目つきは、まさに王者とも、いや陰鬱としているともつくような、鋭い目つきだ。
 そして陸地ではぐだぐだと動き、水中ではすいとひそやかに泳ぎ、あの大きな口で獲物を噛み砕く。
 どうしようもなく魅了された。無惨にも食い殺され、可哀想とみなされる弱い獣が、どうしてか羨ましくなった。僕に似ていると思ったのだ。
 ただ散っていくだけの運命、ああ、悲しいな。

「君ねえ、もう何年目だい?こんなミスするなんてやる気ないんじゃないの?新人の頃はもっとやる気があって、仕事もできたように思うけどねえ」

「すみません、すぐに直します」

「謝って直せばいいと思っているんだろう、時間は有限なんだから、頼むよ」

「はい、すみません」

 なにもかもがうまくいかない時というものがある。電車は遅れ、人にぶつかり、書類をぶちまけ、飲み物をこぼし、仕事ではミスをする。それらが重なって起こるような時だ。
 そういう時というのは、心になにかしらの澱のようなものが溜まっていて、それを吐き出さなければ治ることがない。それがもう何年も続いている。
 うまくいく日もあるが、くだらないミスをしてばかりの毎日だった。上司の言う通りだ。やる気がないんだろう。自分でもそう思うのだ。
 この何年かで、酒の量もタバコの量も、コーヒーの量も増えた。飯の量と友達は減った。残ってくれた友達には、緩やかな自殺でもしているのかと指摘された。全くまるでその通りだ。そのうち、気付いたら死んでしまったとか、そういう風にしてひょっこりぱったりぽっくり死ねないものか、そればっかり考える。
 やる気がないのは仕事にじゃない。何もかもにやる気がでない。楽しいことも苦しいことも、全部やめてしまいたかった。

 助けてくれクロコダイル。

 朝起きて、適当な朝食を食べて、うだつはあがらないまま妥当な仕事をして、順当に残業をして、見当違いな不満を抱えながら酒を飲んで寝る。変わらない繰り返しだ。こんな繰り返しの中で生きるなら、いつでも死ねるって希望がなければ無理だ。いつか死ぬんだって、そう思っていないと生きられない。
 でも、どんな生活をして、何を食べても飲んでも、何を希望としたって、死にたいわけじゃない。ただ僕は、生きるのに少し疲れただけなんだ。

 だから、助けてくれ、助けてくれよ。

「またかい、最近どうしたの君、凡ミスも多くて、一生懸命という風にも見られない、なにか特出するものもない、新入社員の頃から知っているけど、やっぱり、あの頃の方ができる人材だったよ、向上心も見受けられない、老いるには早いんじゃないかい、君」

「すいません、最近、体調が優れなくて、バテたのかもしれません」

「…体調管理も仕事のうちだよ」

「わかってます、しばらく、お休みをいただけますか、戻る頃には貢献できるようにします」

「本当だね」

「はい」

 なんの感動もない。申し訳ないとも思わない。疲れが勝る。

「なあ、お前大丈夫なのかよ」

「…大丈夫、大丈夫だよ」

「本当かよ…つらくなったら言えよ?」

「わかった、わかったよ」

 大丈夫か大丈夫じゃないかは、実際のところ僕にもわからない。でも、言うしかない。大丈夫以外の言葉を言ってどうなる?
 惨めだ。
 何より、内心や苦しさを吐露するくらいなら、大丈夫って言っていた方が楽じゃないか。抜き身の自分をさらけ出すなんて、こわい。ただ僕は疲れた。疲れただけなんだ。

 だから。

 休みを貰ってしばらく、僕は何をするでもなく、ただ無気力に日々を過ごした。友人に頼るでもなく、病院に行くでもなく、面白くもないテレビやネットを見て、最低限の食事だけして、生み出すのはゴミとタバコの吸殻ばかり。
 有意義とは遠くかけ離れた生活。それでも確かに、幾分かは楽なような気がした。

「クロコダイル……」

 ネットを漁って、某国に猛威をふるっているという危険なドラッグについての記事を見つけた。素人でも簡単に作れて、かつ安く、不純な薬。肉を溶かす、薬には程遠い毒。僕に似合いだ。何より名前がいい。違法サイトで原料と注射器と、ついでに大麻を購入して、それが届くのを待つ間、久しぶりに生きた心地がした。
 だがその材料が来るより前に、別の荷物が届いた。母親からだ。内容は休職中の僕を気遣うような手紙と、食品などの物資だった。母親らしい手紙だった。

 ……無理はしないでね。しっかり休んでから次に進みなさい。あなたが幸せになれる道を行きなさい。あなたが幸せなら、それ以上のことはないわ。

 結局、クロコダイルなんて作らず、咳止めも注射器も捨ててしまった。怖かったのもそうだ。けれどなにより、こんなもので救われたら僕の今まではどうなる?
 僕の肉を切り裂き溶かして腐らせる毒は、臓腑よりも皮膚に、脳髄よりも肺腑に染み込んでいる。でもそれは、ドラッグじゃない。目に見えて楽で苦しい方へと逃げる心だ。僕をここまで弱らせたのは、僕自身の狡猾さだ。
 材料と一緒に買った大麻に火をつけて、肺いっぱいに吸い込む。冷蔵庫まで這って行って、缶ビールを出して思い切りあおった。

 ……犯罪とか、善良とか、バカバカしいことだ。何が良いか悪いかなんてとっくに知ってるよ。けどさあ、もうそんなことどうだっていいんだよ。どうだっていいんだ。どうせ終わってしまうなら、僕はせめて苦しみたい。笑っていても幸せでも、生きてる実感がないんだ。だから、終わりを信じたいから、僕は苦しんでいたい。
 そう思っていたのにどうしようもなく泣けてくる。僕は間違った。それはわかる。でもどこで何を間違ったのかがわからない。最後に希望を見たのはいつだったっけ。

 また缶ビールをあおる。大麻の火はとっくに消えていた。
 明日は出かけよう。川がいい。どうせいないだろうワニを探して、いなくてもいいんだ。むしろいない方がいい。いないことがわかったら、僕はきっと歩き出せる。いなくたって、ワニはきっと、この下らない憂鬱を噛み砕いてくれるだろう。





(おしまい)

なんとなくで書き始めて途中で頭働かなくなってやめたのを、書き切ろうと思って数ヶ月ぶりに手をつけると、どういう展開にしようとしてたのかわかんなくて、結果よくわからない感じでうやむやにしたやつ




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