丘の向こう側から大きな鬨の声が聞こえた。稜線から赤い竜の旗印がぬっと顔を出すと、懸命に留まっていた相手方も蜘蛛の子を散らすように逃げ出し始める。追撃はしなくていいという命令が聞こえてきて、ベディヴィエールはほっと息をつく。旗の元へ向かおうと手綱を引きかけたところでトリスタンから呼び止められた。彼とは今回も同じ部隊だった。
「何です、トリスタン」
「耳」
毎度ながら恐ろしく言葉が足りないので、意味が分からなかった。「耳ですか?」と聞き返すと、トリスタンは指で自分の耳朶に触れた。それを真似て、ベディヴィエールも己の耳朶に触れてみる。
「――――あ、」
左のピアスが無くなっていた。思わず周辺を見渡したが土埃と血に塗れた下草と小石ばかりで、それらしき物は見当たらない。
「探しましょうか?」
トリスタンはすぐにそう言ってくれたが、ベディヴィエールは首を横に振る。
「無理ですよ。あちこち駆け回りましたし、どこで失くしたかなんて検討もつきません」
「けれど、大切なものなのでは?」
「物心つく前からつけていました。でも、きっと安物ですよ。値段を訊いたことはありませんけどね。とにかく、もういいのです。貴方も気にしないで下さい。……私の身代わりにでもなってくれたのでしょう」
「……分かりました」
重ねた言葉の多さこそ未練の現れに思えたが、それ以上言い募るようなことはしなかった。この広い戦場から小さなピアスを探すなんて、千里眼でも無ければとても無理だ。
「トリスタン、そんなことよりも我々の勝利です! 王の元へ参じましょう!」
ベディヴィエールは明るい声を出して葦毛を走らせる。トリスタンは何も言わずに、その背を追った。
◆
ほんの数日後の、まだ勝ち戦の熱が冷めきらない頃のことだった。日沈まであと数刻という頃にベディヴィエールの屋敷を訪ねる者があり、確認してみたところトリスタンだったという。
「ベディヴィエール卿に至急渡したいものがあるのだと、サーは仰っておりました」
頬をばら色に染めた侍女がうっとりとした表情で言付けを伝えてくれた。トリスタンの美貌はほんの少し言葉を交わしただけで、女性を虜にしてしまう。「外面がいいだけで中身は適当でずぼらなのに」と以前本人に言ったところ「お気づきでないようですが、それは卿も同じです」と返されたが、納得はしていない。
「このような時刻にすみません、ベディヴィエール卿」
謝る割りに、恐縮するような雰囲気は微塵も感じられなかった。むしろ開き直っている様子だ。
「本当にそう思うなら明日にすればよかったのです。どうせ明日も顔を合わせるのに。……至急渡したいものがあると聞きましたが、一体何なんです?」
「これですよ。ふふ。思ったより美しく出来ていたから嬉しくて、すぐに受け取って欲しくて」
差し出しされたのは、トリスタンやベディヴィエールの手の平であればすっぽりと収まってしまうような華奢な小箱だった。「……渡す相手間違ってません?」とベディヴィエールが初手で確認したのは、壮麗な外装が細やかに施されているのが見えたからだ。どう考えても、これは麗しい御婦人の手の平に乗るべき一品である。
「確かに酔っ払っている時などはよく卿を美女と見間違えますが、今は素面なので安心して下さい。その装飾は『サービスしといたよ』と言って店主殿が勝手に施したものです。ちゃんと友人への贈り物だと言ったのに」
「はあ……そうですか」
多分、邪推されたのだろう。
「ベディヴィエール、どうぞ受け取って。早く開けてみて下さい」
「明日の朝に開けます」
「この期に及んでそんなことを!」
「ふふ。冗談ですよ」
眉根を寄せているトリスタンを余所に、ベディヴィエールはそっと小箱を開けた。――真っ赤なピアスが二粒、きれいに揃って並んでいる。ベディヴィエールは言葉を失った。針で指先を突いて血の一雫を落としたようなこの美しさは、どう考えても高級品だ。とてもただの友人に贈るような品ではない。装飾を施されたのにも合点がいく。
「とても良いルビーの粒がありましたが、それは流石に周囲から疑われてしまいそうなのでガーネットを加工して頂いたんですよ。私と貴方がただならぬ関係だと噂するご婦人方はそれでなくとも多いですからね。……何故でしょう?」
「貴方がこういうことするからですよ……」
ガーネットの宝石言葉は友愛で、ルビーの宝石言葉は深愛。二つの区別は遠目にも着くものなのだろうか。これはガーネットですと一々主張しながら歩くわけにもいかない以上、キャメロットのご婦人方の観察眼を信頼するしかない。
◆
「……というかこんな高価なものをつけて戦場に出向けと? 失くしたばかりだというのに、耳が気になって集中出来ませんよ」
「最高級の物を選びましたが、ガーネットはルビーに比べれば廉価です。それに貴方もアーサー王の騎士であるのですから、もう少し装飾品に気を配っては?」
「気ままな貴方と違って、私には妻と食べ盛りの子供が二人いるのです」
「仲がよろしいようで何よりです。ピアスの一つや二つ、私には何てことありません。卿が失くしたらまた買って差し上げますよ」
「優雅なことで、羨ましいですよ。我が家に何かあった時にはこれを質屋に流して貴方に新しいやつ強請りますから、その時はよろしくお願いしますね」
「贈り主の前でそんなことを言うなんて、私は悲しい……」
「もう、勝手に贈っておいて拗ねないで下さいよ。……トリスタン、ありがとう。失くさないなんて約束は出来ませんが、大切にしますから」
そのガーネットはとある人類史のベディヴィエールの両耳にて生涯に渡ってきらめき続けたが、最高級品であるそれの輝きは下手なルビーに勝ったものだから――キャメロットのご婦人方に生涯に渡って論争を巻き起こしたことを、ベディヴィエールは知らない。
***
トリスタンは何度かご婦人方から訊かれたけど、はぐらかしてどちらだか教えなかった。
dustbunny