a day in our life

<< 2026年4月 >>
1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930

2024/09/22(Sun)

ブラウン・シュガーの雨が降る/ポケタキ


ブラウン・シュガーの雨が降る/ポケタキ

 アグネスタキオンの気まぐれっぷりは誰よりもよく知っているつもりだ。昨日、一昨日、一昨昨日と併走を断られ続けているけれど、今日はあの真っ赤な目を輝かせて「いいだろう」と返してくる可能性が十分にあるから厄介なのだ。
 細胞培養の経時観察中だから、論文をまとめているから、オンラインでセミナーを受けるから等々、断る時には一応それなりの理由があるから当然と言えば当然だ。アイツは走るのが嫌いなわけじゃないし、俺を疎んじているわけでもない。単純に研究が忙しいだけなのだ。
「擬似相関なんだろうねぇ、t値もp値もクリアしているが因果が分からない。要するに少々行き詰っていたんだよ。気晴らしだ、走ろう」とか「待っていたよ、今日は少しばかり走りたい気分でねぇ!」とノリノリで乗ってくることもたまにはあるし、「探したよポッケくん! さあ、実証実験だ!」と声を張るタキオンに廊下からターフまで引っ張られたこともある。探すも何も、待っていれば俺は必ずアイツのところに行くのに待ちきれなかったらしい。そういう子供みたいなところがタキオンにはある。
 勝手なことばっか言いやがってとは思うが、向こうから誘ってきた時のタキオンはそりゃもう弾丸みたいに疾いのだ。このチャンスを逃すのは惜しい。ド直球で言えばガチンコ勝負してぇ。この場所は誰にも譲れねぇ。
 んで俺を遥か後方に置き去りにしたタキオンはタイムと体の状態を確認して高笑いして、さっさと研究室に戻っていくのだ。あまりの大差に俺は本当に必要だったのかと自問自答せざるを得ないが、ウマ娘は誰かと走った方が真価を発揮しやすい。だから俺だって毎日しつこくタキオンを誘っているんだ。息も絶え絶えになりながら「次こそ見てろよー!」とその背中に叫ぶのがお決まりの流れみたいになってしまっているが、アイツが聞いているかは分からない。頭の中ではもう次の論理を組み立て始めている気がする。
 つっても俺だって別に毎回ブッちぎられてるわけじゃない。いい感じに競り合えることも増えた。この前なんて初めてタキオンより先にゴールしたのだ。ただ、会心の雄叫びを上げて後ろを見たら、最終コーナー手前でタキオンはぶっ倒れていた。また怪我したのかと血の気が引いたが、駆けつけるとアイツは「血圧が上がらない。そういえば昨日から角砂糖しか食べていない」と弱々しく呻く。「バカ野郎!!」と思い切り怒鳴って購買に全力ダッシュした。万全じゃない相手に勝っても意味がないってこういうことだよなとしみじみ噛みしめながらにんじんゼリーやらおにぎりやらを買っていると、追いついてきたエアグルーヴから廊下は走るなと叱られた。翌々日、タキオンから「耳鳴りが止まないんだがねぇ?」と言われたのは無視した。

 自分で言うのも何だがヤンキーとは執念深い生き物だ。なめられたらブッちぎるまでいつまでだって追い掛け回す。一度や二度負けたとしても、そういう相手に追いついてブチ抜く瞬間が最ッ高にアガる。これは他のどんな物にも変えられない瞬間だ。勝ち逃げなんて目覚めの悪い真似はぜってー許さない。いつだってぐっと顔を上げて「俺が最強だ!」と胸を張って言えるよう生きてきた。
 タキオンが俺を併走用モルモットとしか見ていないように、こっちだってアイツのことはいつか乗り越える壁としか見ちゃいない。興味があるのはいつだって相手の走りだけ。相手がどんなクソみたいな性格や生活態度をしていても一向に構わねぇ……はずだったんだ、今までは本当に。
 タキオン。飯は三食食え。サプリで済ますな。夜になったら寝ろ。座ったまま寝るのは仮眠だベッドで寝ろ。風呂入って毎日着替えろ。白衣を変えるのは着替えとは呼ばねぇんだ中身を変えろ。なんで白衣ばっかこんなに持ってんだよ。あとさ、怖いからまばたきしてくれ。

「ポッケ君はいちいちうるさいねぇ」
「おめーが生物として必要最低限のこともしねぇからだろ!!」

 ◆
 
 その日は朝から結構な雨が降っていた。午後になっても止む気配は全くなくて「放課後どーする?」なんて会話が教室では飛び交い始めていた。何食わぬ顔で入室してきたタキオンに暫く誰も気付かなかったのはトレードマークである白衣を着ていなかったからだろう。制服姿のタキオンは威圧感が半分くらいになって、体も一回り小さく感じる。
 タキオンは教壇に立って教室をぐるりと見回し、クラスメイト全員に向けて「私の席はどこだったかな?」と臆せず訊ねた。否応なしに全員がアイツの存在に気付く。姿がどうあれ中身に変わりはない。ちょっと引くくらい図太い。肝が据わっているというより、教室がカボチャ畑に見えているのだろう。
「こないだ席替えがあって、タキオンちゃんは窓際の一番前になったんだよ」
 と教えてくれたのはダンツフレームだ。全く顔を出さないタキオンの席を即答出来るレベルで覚えているお人好しなんて、ダンツ以外にいなかっただろう。空席だったそこで友達とお喋りしてたんだろうウマ娘が慌てて立ち上がる。タキオンは平坦な調子で「どうもありがとう」と礼を言って着席した。みんながほっと胸を撫で下ろした。
「……なァ、席変わってくんね?」
 こっそり前の席の奴に耳打ちする。俺の座席は窓際の一番後ろ。一つ前にズレるとタキオンの様子をこっそり観察するのにちょうど良い距離になった。先公は何も言わずに授業を始める。気づいてないのか俺を怖がって何も言えないのか、それは分からない。
 起立・礼・着席の後にきちんと前を向いていたのはほんの十数秒で、すぐに窓を叩く雨粒を眺め始めた。いかにもつまらなそうな無防備な横顔が妙に眩しい。アイツはたまにガチで光ってることがあるからそれかと思って目を凝らしたけど、今回は違うみたいだった。
 こういうことはたまにあった。レースの時のギラつきとも試薬の発光とも違って、目に映る風景からタキオンだけがそっと切り取られているみたいな柔らかい眩しさを感じることがある。閃光のように目を灼く強烈なそれじゃない。夜に見る雪がぼんやり光って見えるみたいな明るさだ。
「あ、バカ」と思ったのは結露で白く曇った窓に指を伸ばして落書きし始めたからで、しかも小難しい数式でも書くのかと思いきや大根に似たゆるキャラを描いた。頭に消しゴムでもぶつけてやろうかなと手元を探る。
「アグネスタキオンさん、落書きは窓じゃなくてせめてノートにしなさい」
 俺が消しゴムを投げるよりも先に先公が注意する。まともに授業を受けさせるのはハナから不可能だって思っているような言い方だった。正解だ。
 タキオンは手の平で落書きを消すと「やることがないねぇ」と言いたげに頭を左右に傾けた。机に顔を伏せて眠ろうとしてみたようだが、耳と尻尾が急にぴんと逆立ったかと思ったらガバっと跳ね起き、物凄い勢いでノートに何か書きつけ始める。忙しい奴だ。ちょっと離れた席にいるから面白がっていられるけど、真後ろの席の奴は本当に可哀想だ。俺が座ってたらあいつをイスごと蹴り倒しているし教科書を丸めて頭を引っ叩いている。
「アグネスタキオンさん。これ、答えてもらえる?」
 一連の奇行が腹に据えかねたのだろう、先公はこめかみに青筋を走らせながら名指しした。タキオンはペンを走らせる手をぴたりと止めると、機械じみた不自然な動きで顔を黒板に向ける。
 「……サルコメアの構造の説明かな。それともハックスレーの滑走説の話かい? 筋原線維はZ帯によって区切られ、A帯もとい暗帯たるミオシンフィラメントの間にI帯もとい明帯たるアクチンフィラメントが滑り込み、収縮時にはアクチンフィラメントが――」
 つらつらと説明し始める。皆が呆気に取られている中、席を立ってまた指先で窓に絵を……いや、何らかの図を描いた。
「さて、ウマ娘の骨格筋の細胞には特有の微生物が存在するという仮説は元より囁かれているが、未だ部位の特定には至っていない。生物のエネルギー産生を担うミトコンドリアとは大きく形状が異なるのか場所が異なるのか。だが事実を鑑みれば仮説の信憑性自体は高い。存在するが未発見であるのだろうそれを、私は仮にウマムスコンドリアと呼んでいる。ウマムスコンドリアのATP産生効率は――」
 一際高いトーンで興奮気味に自説を披露しようとしたところで、
「もういいです、アグネスタキオンさん。着席してください」
「えー!?」
 急にはしごを外され間の抜けた声を上げる。怒って教室を出ていってしまうんじゃないかと思ったが一拍置いたタイミングですとんとイスに座り、一応最後まで大人しく着席していた。
 雨が窓を叩くのをひたすら無為に眺めるタキオンの横顔はやっぱり妙に眩しくて、板書そっちのけで眺める。一回だけ外に向けて小さく手を振ったから視線の先を追いかけると、アイツのトレーナーが傘を差して歩いていた。タキオンは今日は光ってないけど、トレーナーの方は両目からヘッドライトみたいな光を放っていた。シンプルに怖い。

「――今日も授業を受けないなら単位はやらないと脅されたんだよ。だからわざわざ出向いてやったのに、出席して尚あの扱いはひどいと思わないかいカフェ。たまたま研究が一段落していたとはいえ、つまらない脅迫になんて屈するんじゃなかった。ああ、リモート授業さえ許可してもらえれば出席日数なんて気にする必要ないのにトレセン学園は時代に逆行している!」
 休み時間になるとタキオンはマンハッタンカフェの席でグチっていたが、物凄く迷惑そうな顔をしたカフェから「あなたは着席はしていても授業を受けてはいませんでしたし、リモート授業なんてカメラオフしてミュートもしますよね?」と静かにツッコまれていた。



 ひとしきりグチるとタキオンは普通に教室を出ていった。アイツがホームルーム中に教室にいるなんて、ペンギンが空を飛ぶくらいあり得ない。やっぱり放課後練習の前にアイツの研究室――旧理科準備室へ出向く必要があるみたいだった。最早ルーティンの一部と化しているルートだから特に面倒だとは感じない。更衣室に向かうクラスメイトたちを後目に、教室でジャージに着替える。
「いってらっしゃいポッケちゃん。私は先に行ってるね。結構雨降ってるけど、タキオンちゃん来てくれるかなぁ?」
 ダンツは心配そうに窓の外を見た。
「研究がひと段落したみてぇだし、アイツの速さは重バ場でも関係ねぇからな。今日こそ研究室から引きずり出してやるぜ!」
 手の平に力強く拳をぶつけて見せ、教室を後にした。

 タキオンの研究室は今は使われていない離れの棟の隅っこにある。そこへ続く廊下はいつでもしんと静まり返っていて、自分の足音ばかりが大きく響く。不気味だ。タキオンがいなけりゃこんなとこ絶対に近づかない。オバケの目撃談も多々あるが、どれもアイツが原因っぽいので怖くない。
 骨格標本が廊下を歩いていた、夜中に白い影がゆらゆら動くのを見た、カーテンの奥から覗く真っ赤な目と視線があった、狂ったような高笑いが響いてきた、窓に真っ赤な手形が無数についているのを見た、「助けて、間違えた、苦すぎる」とすすり泣く声を聞いた、雨でもないのにびしょびしょに濡れた少女がぽたぽたと雫を垂らしながら廊下に立っていた、等々。アイツの所為で離れ棟の七不思議が出来上がっちまうぞ。
 なんて考えている内に理科準備室に着いた。頬を叩いて気合いを入れ直す。
 今日こそイケるはずだ。キメるぜ。

「ようタキオン、五時間目ぶりだな。表出ろ。天気なんて関係ねぇ……」
 今日こそ俺が勝つからな、と言葉は続くはずだったが、呼びかけた相手は床にぶっ倒れていた。
 暗幕が垂らされた部屋の中は薄暗いが、試薬があちこちで発光しているので視界はぼちぼち利く。こう言っちゃ何だが馬鹿げたドッキリみたいな光景だったから、誰かが看板を持っていないかちょっと周囲を探してしまった。
 タキオンは徹夜と爆睡を繰り返して生きているから行き倒れは頻発イベントだ。その度に世話焼きなウマ娘たちが部屋や保健室にタキオンを運び込む。カフェは絶対に運ばないので研究室で倒れている時はそのまま放置されているらしいが、それでも一向に反省する様子はない。
 うつ伏せになっている体を転がし、とりあえず呼吸を確認する。案の定眠っているだけのようだった。当たり前のように床で寝るな。
 窓辺に向かい、暗幕を一気に開ける。生憎の天気とはいえ昼間だ、仰向けにされたタキオンは強い光に不愉快そうに呻いて、窓に背を向けるように丸まった。
「起きろ。立て。お前が五時間目に出てたの知ってんだからな。研究終わってんだろ?」
 頬をぺちぺち叩くとタキオンは心底不快そうに眉根を寄せた。薄っすらと開かれた瞳はドブ川の底みたいに濁った赤銅色だ。
「……カフェかと思ったらジャングルソケット君か」
「お前のそのボケ、一周回って最近愛を感じるようになってきたぜ」
「今日は諦めてくれ。今飲んだ試薬の副作用かな、もう眠くて眠くて仕方ない。手続き記憶力の強化に効果がある筈なんだが実用は無理そうだねぇ」
「はあああ? ふっざけんな! ついさっきまでアホな落書きしてただろうが根性で起きろ!」
「それは食べたことないな」
「適当に返事すんなコラ!!」
「ウェルニッケ野がもう働かないんだ放っておいてくれ。おやすみ」
 そう言い残して瞼を閉じたタキオンは大声で呼んでも揺すっても無反応で、前髪をめくって額をぺちぺちしてもここぞとばかりに耳ごと髪をわしゃわしゃしてみても嫌そうに顔を歪めただけだった。こりゃダメだ。

 どうせ外は雨なんだし、筋トレがてら部屋まで運んでやることにした。タキオンの背と膝裏に手を添えてぐっと脚に力を入れる。軽すぎて逆に転びそうになって慌てた。
 筋線維の質と量がヒトとは異なるウマ娘は、見た目こそヒトに似ているが質量は十倍になることもあると今日の授業で習った。なのにタキオンは拍子抜けするくらい軽い。碌に食わねぇんだから当たり前だ。勿論こちらも同じウマ娘で、特に俺は腕力に自信があるタイプだからってのもあるだろう。ヒトと比べたらそりゃ重いんだと思う。多分。
 ……あんな走りが出来ンだから、見た目が華奢でもずっしり来そうなモンだけどな。こんなに軽くてなんであんな力強い踏み込みが出来ンだよ。実はコイツ、走るんじゃなくて翔んでんのか?
 一瞬そんなことを考えたが、タキオンの蹴った土が顔に掛かったことがあるから地面を走っているのは確実だった。

 タキオンを抱きかかえながら、余程良いところの生まれなんだろうなぁと思うのは、じゃなきゃここまで無防備でいられるわけがないからだ。
 クリークがタキオンを背負っているのを見たことがある。ルドルフ会長に横抱きされているのを見たことがある。タイキに担がれているのを見たことがある。シャカールに引きずられているのを見たことがある。フジさんなんかアグネスタキオン回収の第一人者なんて言われている。お嬢様学校だけあって、トレセン学園の生徒はみんな善いヤツだ。
 地元はちょっとばかし治安が悪い街だった。ヒト前でこんな風に寝ていたら何かされても文句は言えない。財布を掏られるとか盗撮されるとか、もっと最悪なことだって考えられる。
 悪いことはする方が悪い。それは当然だが、みんな色んな事情を抱えているとお袋は言っていた。隙を与えることで本当なら起こりえなかった不必要な間違いを生むことがある。「ポッケはあたしに似て可愛いでしょ。ヒトより力があるからって油断しちゃダメだからね」と小さい頃からよく言い聞かされていた。
 腕の中で眠るタキオンを改めて見下ろす。起きている時はドブ川みたいに濁った瞳を常にかっ開いている分、瞼を伏せると印象がかなり変わる。セルフカットをやめて寝食を改善すれば更に違うだろう。
 タキオンは案外整った顔立ちをしているのだと、フジさんやカフェは気づいているだろうか。多分フジさんは気づいてんだろうなぁ。俺よりもずっと前から。
 ……誰にでも寝顔見せてんじゃねーよ。
 ちょっと苛立つ自分に気づいて「なんで俺怒ってんだ?」と首を傾げた。



 同じ栗東寮だからタキオンの部屋はよく知っている。何をしたのかたまに封鎖されていることがあるから余計によく知っている。両手が塞がっているので、つま先でドアを軽く蹴ってノックした。
「デジタルー、いるかー?」
「そ、そそその声はジャングルポケットさん!? ちょ、ま、……ウワーッ!!」
 タキオンと同室のウマ娘の名を呼ぶと、返事と共に悲鳴と大量の本の山が崩れたような音が返ってきた。
「おい大丈夫か? 助けとかいる?」
「は、はい! いや、いいえっ! 大丈夫です、大丈夫だけど片付ける時間を少しだけ下さい!」
 散らかってても別に気にしないけど、腕も塞がっているし大人しく待った。ドアを開けたデジタルは「お待たせしました。今日は雨ですし、今まで読めていなかった本でも読もうかな〜と思って……嘘はついてませんよ?」と、何も聞いてもいないのに謎の弁解をする。
「急に押しかけて悪かったな。コイツが理科室の床に転がっててよ」
「この部屋の来客は九割以上がタキオンさんの運び込みなので、そうかなって思いました。でも昨日の夜は珍しく自分の足で帰宅してベッドで寝て、朝はシャワーも浴びてたから油断しちゃってました。二、三日は帰らないものかと……。試薬の副作用で倒れたとかですか?」
「お前すげぇな、大当たりだよ」
 褒めるとデジタルはちょっとだけ得意げな顔をして、慣れた動作で布団をめくった。
「こちらがタキオンさんのベッドです。油断はしていたけどベッドメイキングは毎日行っているから大丈夫ですよ。いやー、本当にたまにしかいらっしゃらないから、タキオンさんの寝息が聞こえてくるとあたし興奮して眠れないんですよね。二徹決定です」
 イマイチ返事しかねる言動に「お、おう」とだけ返して、さらっとしたシーツの上にそっとタキオンを下ろしてやった。コイツのベッドは絶対しわくちゃで上には物が散乱して薬品の染みだらけだろうと思っていたのに、全てがホテルのベッドみたいに整っていたから意外だった。デジタルが凄いのか、タキオンが全然部屋で寝ないから、その両方か。
「コイツの着替えってどこだ?」
 普通のことを聞いたつもりだったが、正に今タキオンに布団を掛けようとしていたデジタルはうぇええええ!? と奇声をあげて後退った。
「まっ、ま、まさかタキオンさんをお着替えさせるんですか……!? フジキセキさんでも踏み込まなかった領域に踏み込もうと……!?」
「だってこのままじゃ制服シワになんだろ。いいじゃん、全員ウマ娘だし。手伝えよ」
「デジたんにはウマ娘ちゃんノータッチの誓いが……! でもこれ不可抗力では? ダメダメ、耐えてあたしっ! タキオンさんの柔肌に触れるなんていかなる理由があっても……。やわはだ……でゅふ……」
「脱がせたぞ。着替えまだか?」
「早っ!? これがダービーウマ娘の速さですか! ……心の準備はまだだけど、あたしのチキンハートの為にタキオンさんに風邪をひかせるわけにはいきません、四十秒で支度します! はい。というわけでこの青い部屋着。サイズ大きめだし被せるだけだから一番着せやすいと思います。肩チラ不可避なんですけどタキオンさんは大人っぽいからこれがまたよく似合っちゃうんですよね。𝑩𝑰𝑮 𝑳𝑶𝑽𝑬。下はこの黒いショートパンツだと美脚を引き立てつつキュートさも添えられてオススメです。尻尾穴が開いて無いんですけどまあ部屋着だしタキオンさん本人が全く気にしていないので大丈夫かと。おでことお耳のガードがあんなに堅いのにどうして尻尾周りは妙に緩いのか。だがそれがいい。百億満点。優勝はタキオンさんです。どうぞ、ご査収下さい」
「ああ、言ってることはよく分かんなかったけどありがとな!」
「はい私は生きる価値のないウマ娘です」
「誰もそんなこと言ってねーぞ!?」

 体を支えているから服を被せてくれと頼んだけれど、デジタルの手はタキオンの頭上まで来るとぶるぶると大きく震え始めてしまう。ふざけているのかと思ったが「お願い、鎮まって私の両腕……ッ!」と歯噛みする顔は必死だし額には汗が滲んでいた。一体何が起こっているんだコイツに。
「……タキオン、着替えようぜ。俺の背中に手ぇ回せるか?」
 仕方がないのでタキオンの方にささやきかけてみる。すると「むー」という不機嫌そうな呻きと共に両腕がしっかりと背に回された。見た目からして細ぇなぁと思ってたけど、直に触れ合ってみるとなんつー華奢な腕だと更に驚いた。俺の腕と違ってなんかふわっとしてる。その上、髪をちゃんと洗ったらしい今日のコイツからは尋常じゃなく良い匂いがする(いいですかポッケさん。タキオンさんは風呂キャン勢ですけど、いざお風呂に入る時はご実家から送られてくるお高級なボディソープとシャンプーを使うんですよ)(デジタル、お前、直接脳内に……!?)。しかも合わさってる胸が俺の二回りくらいでかいし柔らけぇ。主食が紅茶とサプリとミキサー食の癖になんでこんなご大層な脂肪がついてんだふざけんな。間違って揉みしだいちまう前にさっさと終わらせねぇと。それにタキオンが抱きついてきた瞬間からデジタルが念仏唱えてて怖い。
 眠っている癖に妙に協力的なタキオンのお陰で、着替えは割りとスムーズに済んだ。「タキオンさんは立ったまま寝てることもあるくらいだし眠りが浅いんだと思いますよ。器用ですよね」と解説してくれたデジタルは念仏を唱え終え、今度は安らかな微笑みを浮かべながら写経をしていた。

「せめて片付けはデジたんがします」と床に散らかした制服をデジタルがハンガーに掛けているのを尻目に、タキオンの寝顔を何とはなしに眺める。教室で見た横顔と同じ眩しさを感じる。ずっと、眺めていたい。
 ああ。やっぱコイツ、めちゃくちゃキレーだ。
 そう認めざるを得なかったが、悔し紛れに手を伸ばしてわしゃわしゃと前髪を乱してやった。「えっ」という小さな叫び声に振り返るとデジタルが目を丸くしている。
「タキオンさんって、ポッケさんにはおでこやお耳を触らせるんですか?」
「ああ、そういえば頭触られんの苦手なんだっけコイツ。起きてる時はぜってー無理だろうな。俺なんか鳥とまってても気にしねぇけど」
「……タキオンさんって、どんなによく寝ててもおでこや耳に触られると起きちゃうんですよ。何度かフジキセキさんやルドルフ会長がせめてピアスだけでも外そうとしてくれたんだけど、必ず起きて自分で外してまた寝るんです。眠りが浅いんです、本当に」
「へぇ……。おいタキオン、ピアス外すぞ」
 物は試しだとタキオンの右耳に手を伸ばしてみた。指先が触れた一瞬だけぴくんと耳が跳ねたけれど、後は大人しいモンだった。「ポッケ君なら仕方ないか」なんて都合のいい幻聴が聞こえてきそうなくらいに。
 ころりと手の内に転がってきた多角形をサイドテーブルに置いて、デジタルと目を見合わせる。
「――――尊いの飛び出し注意ですよ、それはぁっっ!!」
 デジタルは突然自分で勝手に後ろに吹き飛んで、思いっきり壁に衝突した。駆け寄って抱きかかえ「どうした急に! 大丈夫か!?」と訊ねると、物凄く満足げな顔で「やんごとなし」と呟き、意識を失う。一瞬スゥっと姿が消えかけたような気がしたけど、それは気の所為だったようだった。ちゃんといる。
 アグネスはどっちもやべーとは聞いてたけど、確かにこっちもやべぇ。二人とも意味が分からねぇ。そう実感しながらデジタルをもう片方のベッドに寝かせて、静かに部屋を出た。

 ……まだ練習時間あるけどなんかスゲー疲れたな。ダリぃ。でもダンツいるし、行くか。
 軽く息をつき、寮の廊下を小走りする。



「ポッケちゃーん! こっちだよー!」
 ターフは重バ場の良い練習だとばかりに走るウマ娘たちでそれなり賑わっていたが、ダンツはすぐに気づいて呼びかけてくれた。雨にも負けず、それどころか雨なんて全く気にせずずぶ濡れのまま笑顔で大きく手を振る姿を見るとほっとした。
「悪ぃ、待たせちまったな」
「走ってたから大丈夫。アップ手伝う?」
「サンキュ。でもいいや、一人でやる。俺はいつものメニュー軽くこなしたら戻るわ」
「……タキオンちゃん、やっぱり来てくれなかったね。残念。遅かったけど研究室にはいなかったの?」
「いや、研究室の床で寝てたから部屋まで送ってやった」
「そっかぁ。ポッケちゃん、優しいんだ」
 ダンツは顔の前に両手を持ってきて、小さく拍手してくれた。その顔を。違う。顔よりも頭よりも上の部分をじーっと見つめる。
「……え、何? もしかして私、髪に何かついてる?」
「いや、耳見てただけ」
「なんで!? そ、それはそれでなんか恥ずかしいよー!」
 ダンツが両手で耳を覆い隠す。カバー付けてんだし良いじゃんと笑い飛ばして、屈伸を始める。

 雨で湿った芝は砂糖菓子が融けてまとわりついたみたいに重かった。脚全体に力を込め、振り切るように走る。


day/prev/next/dustbunny
ALICE+