「……おい。口開けろ」
「な、何もないですから」
「あるはずだ……ほら」
「ひゃう!」

 私にとって今、人生最大のピンチである。行きつけの歯医者に来たはいいが、何度診てもらっても慣れることのない雰囲気、歯を削られるときの音、あの痛み。そして何より……この先生だ。そう、問題はこの歯科医なのだ。
 普通に見ると……ま、まあ格好良い、のに……この椅子に座って見上げたときに視界いっぱいに広がる、それはそれは楽しそうに口元を歪ませてこちらを見下ろす――トラファルガー・ロー先生。

 彼の腕が良いのは確かだ。毎回痛い思いはするが、確実に治っている。ただ私が虫歯になりやすいだけだ。でも、でも! この先生今何したと思う? キンキンに冷えた水を、痛む私の奥歯に当たるように口に無理矢理流し込んだのよ!
 この歯は極々稀に痛む程度だから今日は削りたくなかったのに……先生は数秒口内を覗いただけで、さっき削った歯以外にも、この歯も虫歯だと気付いてしまったらしい。

「……痛いんだろ」
「いっ…いいいいえ?」
「強がるな」
「痛っ! せ、先生! ピンセットの先で歯を押さないでください!」
「……普通の歯なら、ちょっと押したくらいで痛まねェだろうが」

 にやにやしながらピンセットを指で器用に回している先生は、紛れもなくドSというやつだ。絶対そうだ。ロー先生がこの顔を見せたら最後。例え泣いて嫌がろうとも削られる。もしくは抜歯。

「…うう」
「痛いのは嫌だろ?」
「……」
「今治しときゃもう痛まねェだろうが……これから先もっと痛くなってから来たいなら、それはそれで俺は構わない」

 立ち上がったロー先生は、ふいっと向きを変える。その先は先生の休憩室。え……待って、ここで診察終わり? 今治してくれないんですか。もっと痛くなってから泣きながら来いということ? ……彼ならそんな考えを持っていてもおかしくはない。いや、確実にそう考えているだろう。

 冗談じゃない。そんな言い方されたら、今治しておきたくなるじゃない! そう思った私は、気付いたら椅子から起き上がり、先生の服を引っ張っていた。ゆっくりと先生がこちらを振り向く。

「……何だ」
「うっ……今、治してください」

 先生の目を見て言ったら急に顔が近づいてきて、驚いて身を引けば、背中が椅子の背もたれに当たった。何これ、まるで押し倒されてるみたいじゃ――。

「あ…の、先生?」
「楽にしろ。すぐに終わる」
「……え…っ」

 突然触れた唇はすぐに離れていったけれど、私の頭が全然状況についていかない。ただ口をぱくぱくさせるだけ。今のって、間違いなく、

「い、今……キス、」
「黙れ。麻酔がわりだ」
「麻酔って」

 どうしよう。今私、先生相手にどきどきしてる。


 結局痛かったんですけど…


「先生、普通に痛かったです」
「気のせいだ」


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