「ほ、ほあっ……はうあっ、うぐ…」
「……落ち着いて、なまえ」

 私は何をしにここへ来たんだったか。あっ、そうだ。置き忘れてしまったペンケースを取りに来たんだった。教室へ戻る途中「ペンケース忘れた!」と大声を出したために「ダッセー!」と田中にゲラゲラ笑われながらも、音楽室まで引き返してきたのだ。田中は後で教室に戻ったらシメる。

 だが、その音楽室で潔子さんに会えたのは僥倖だった。私は彼女に憧れている。大好きだ。誤解を招かぬように言っておくが、恋愛感情ではない。こんな女性になれたらな、という純粋な憧れである。そして冒頭にある通り、私は今部活の先輩マネージャーである彼女を目の前にしてテンパっている。

「これでしょ、忘れ物」
「あ! 私のペンケース、どうして…」
「私、なまえと同じ席使ってるみたいだから」
「えっ」

 音楽の先生は、特に出席番号順などではなく好きな席に座らせる。よく一緒にいる友達同士で席につき、たまにこそこそと話したりするのが楽しい授業だ(もちろん先生にバレたら私語を怒られてしまうので、細心の注意を払う)。

 私には、絶対にこの席に座ると決めている席がある。窓側の列の後ろから2番目、陽当たりのいい席だ。ちなみに真後ろには必ずと言っていいほど田中とその愉快な仲間たちが座り、ときどきちょっかいを出してくる。うるさい。小学生か。

 いや、今は田中のことなどどうでもいい。潔子さんが、潔子さんが私なんぞと同じ席を使っていらっしゃるだと。お、おお、同じ、席を。

「窓側、後ろから2番目。私いつもそこなの」
「え、き、潔子さんも」
「うん。あそこ…陽当たりいいしちょうどよく風も入るし、いい席だから」

 ふわりと微笑む潔子さんに見とれていると、「もうチャイム鳴るから早く戻りなよ」と肩をポンと叩かれる。き、きよ、潔子さんに、かかか肩を、を!?

「は、はい!! あの、ありがとうございます、ペンケースっ」
「ん。また放課後、今度は部活で」
「はい!!」

 う、わあ…私、潔子さんと同じ理由で、同じ席に座ってたんだ…!
 天にも昇る気持ちで、にやける顔をそのままにスキップで教室に戻る。チャイムとほぼ同時に教室に滑り込み、席についた。うふふ…と笑いながらペンケースを抱きしめると、両隣の友達と目の前の席の田中が、気持ち悪そうに私を見た。

「え、気持ち悪」
「田中うるさい」
「なんで筆箱なんか抱きしめてんだよ」
「潔子さんが」
「きききき潔子さんがなんだ!?」
「潔子さんいつも、音楽室で私のいつもの席に、私と同じ席に座ってるんだって…幸せ…」
「はっ、はぁああああ!?」
「それで私のペンケース見つけて、手渡してくださったの…」
「手渡しだと!?」
「でね、チャイム鳴るから早く行きなさいって、肩をポンって…」
「ぬおおおぉぉぉおお!!!」

 そうか、私のつい先程の体験がそんなにも羨ましいか。身を捩らせ頭を抱えて叫び続ける田中を、私と両隣の友達、そしてたった今教室に入ってきた先生の冷めた目が見つめた。先生がクラス名簿の角で田中の頭を小突いてやると、彼は我に返った。

「あとでノヤにも自慢しよっと」
「ノヤっさんもたぶん、俺と同じ感じの反応すると思う」
「ふふん。潔子さん美しかったなぁ」
「とりあえずお前、次から音楽の席を俺と交換しねぇか」
「しない」
「肉まんやるから」
「交換したところで田中は『潔子さんの椅子…!』とか興奮して、座ることができずに終わると思うけど」
「………」

 授業が終わって1組まで飛んできたノヤに潔子さん自慢をして、ノヤの叫びが響き渡るまで……あと45分。



(学校10題より:03.音楽室)

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