「ありがとうございました」

 親子連れで賑わう食料品売り場。私は正直傍から見てもほくほく顔をしていることだろう。そう、今日あれだけ手に入らなかったバターを購入することに成功したのだ(ここまで来たかいがあった!)。店員の笑顔を背中に感じながら食料品コーナーを後にした。達成感と充実感が心を満たしていく。

「(家に帰ったらうーんとお姉ちゃんに文句言ってやる!)」

 元を辿れば頼んだものを買わず、自分が食べたいものを買ってきたお姉ちゃんが悪いのだ。人の千円札を勝手に使った罪に比べれば文句なんて充分軽い。
 食品売り場の隣に位置するフードコートを通り、家族連れの暖かいざわめきを耳に受け止めながら広間のように大きく開けた憩いの場へ出る。

「(もうすぐ4時か。まだ時間はあるかな)」

 自分の腕時計が示す時は3時50分─門限までに間に合う電車は5時12分発のものであるから、後1時間程は自由時間があるということになる。お昼は自宅で済ませてきたし、甘い物は体重の問題でクレープを食べるまでは極力控えていきたいところだ。食べたいところだけども。

「(──それなら少しだけ雑貨屋に寄って行こうかな)」

 ここには頻繁に訪れる訳ではないが、それなりに何回か家族で来たこともある。確かエスカレーターで二階に上がるとどこかに雑貨屋「ハンプティー&ダンプティーズ」があった記憶がうすぼんやりと残っている。(他の店を見回りながら探すことにしよう)、頭の中でこれからの進路が決定した私は、くるりと後ろへ方向転換をして一歩を踏み出した──はずだった。

「うわっ!?」

 ──どん、と振りむきざまに誰かと思い切りぶつかってしまった。その勢いに体制を崩してしまった私は、持っていた買い物袋と一緒に地べたへ尻餅をついてしまった。こんな人前で派手に転ぶなんて!

「すまん、大丈夫か!」

 心配する声と共に視界に現れた、男の人の骨張った大きな手──思わず見上げるが、遥か高い場所にあるライトが逆光となって、相手の顔がよく見えない。
 しかし、自然とそれに自らの手を重ねていた。ぐっと引き寄せられた瞬間にふわりと香る石鹸の香りに、自分でも顔が熱くなるのがわかった。何故。

「悪かった。少し急いでてな、怪我はないか?」
「いえ、大丈夫です。こちらこそすみませ────」

 何かが強烈な破裂音を響かせた。
 え、なんだろう、なにこれ。心配そうに顔を覗き込んでくる少しだけ小柄な男性。青いシャツにしっかりセットされた茶髪、そしてタレ目がちの瞳が印象的。その驚愕で大きく見開かれた両目を、何故か反らすことが出来ずにいた。あれだけ恥ずかしさと耐性のなさで火照った頬も、まるで触れれば鉄が溶けてしまいそうな程、まだまだ急上昇を続けている。一心に見つめていたその目にはぽやりと間抜け顔をした私が写っているような、そんな気がした。
 胸が、ばくばくと音を立てる。

「あ、えっと」謎の緊張感から口内がからからになり、やたらと噛んでしまう(あれ、なんだろう、さっきから私おかしい)。気を取り直し、大きく深呼吸をする「──はい、怪我はどこにも。こちらこそ、後ろを見ていなくてすみませんでした……」
「いや気にすんな。怪我がないならよかったし、俺も映画の上映時間がって大分慌ててたしな」
「映画ですか?」
「ああ。4時5分から上映の──」
「4時5分って、もう4時8分ですよ!映画始まってますよ!!」
「なっ!?」

 大きな時計も、腕時計も示す時間は同じく4時8分を指している──そろそろ広告用のCMが終わり本編へ入ってしまう頃合いだ。相手は急いでいたというのに、申し訳ないことをしてしまったようだ。

「時間取らせちゃってすみません!ど、どうぞっ!」
「ぶつかっといて何だが──すまん!」

 その言葉を皮切りに一目散に駆け出していく男性。見る見るうちに青い背中は人混みに溶け込んでいった。

「(こういう事もあるんだなあ)」

 暫くの間誰かも知らない人々を眺め、私はその場を立ち去った。一抹の後悔とともに。

- それはきっと恋に落ちる音


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