君、未成年なの?

深い眠りから意識が浮上して、朝が来たのだと気付いて徐に瞼を開いた。
毎日規則正しい生活をしているお陰で、目覚ましをかけなくても自然と朝には起きられる体になっている。脳は覚醒に向けて動き出し、まだ眠っていたいという欲望とは裏腹に眠気はどんどん覚めていく。
曜日の感覚を間違えていなければ、今日は土曜日のはずだ。カレンダー通り仕事は休み。閉めたカーテンの隙間から日光が差し込むのが見えるから、今日は天気が良いのだろう。そういえば冷蔵庫の中身がほぼ空だった気がする。外食や中食で済ませても良かったが、休みだし時間もあるし料理くらいした方が良い気がする。今すぐじゃなくても買い物には行かなくては。それに部屋の掃除もしたいしあれもそれも。そう思いながら体を起こすと、掛布団がずり落ちて見慣れない黒が目に入った。

「……なにこれ」

明らかにチトセが買うサイズよりもずっと大きい真っ黒の服だった。どこもかしこもぶかぶかで袖は余っていて、襟ぐりも広くて自分の体格に全く合っていないから片側に服が寄って首元が若干苦しい。こんなもの買った記憶が全くない。それどころか女物でもないし自分とは違う匂いがするし、胸の辺りがやたら解放的という事に気付く。案の定、着けて、ない。
寝巻きとして使っているお気に入りのスウェットだって持っているし、夜用の下着だって使っている。だというのに、今それらを着てないのかが全くわからない。感触的に下は履いているようだが、何が自分の身に起こっているのかが全く理解できない。
昨日、何かあったっけ。頭の中が混乱して整理がつかないまま、まずはどこかへ放り出したであろうブラジャーを着けようと手で探る。掛布団の上には見つからなかったから布団の中かと手と視線を彷徨わせると、自分ではない誰かの体が目について、チトセは反射的にびしりと凍りついた。
チトセよりずっと恰幅の良い体。見慣れた柔らかそうな黒髪。目を覆い隠すくらい長い前髪が、白いシーツの上に散らばっている。そのお陰で、髪の隙間から左耳にたくさん付けられたピアスがよく見えた。ピアスしたまま寝たの、なんて少々ズレた考えがまず過ぎったが、徐々にチトセの体が勝手に冷や汗をだらだらと流し始めた。
傍から見たら尋常でない程の冷や汗が伝う。そんなチトセを他所に彼女の隣で件のその人、吉田はすやすやと寝息を立てていた。彼は上半身裸だった。そして今チトセが着ているこのサイズが合わない真っ黒の服。ベッドの上に満足に服を上下とも着ていない男女が2人。点と点が結びついてしまった。
もしかしてやっちゃったって事なのか、これは。真面に男性経験が無いどころか、そもそも誰かと付き合うなんて経験もしてこなかったチトセは、自分が男女の営みのあれやそれに対応できるなんて思えなかった。まさかそんな事は、と信じたくなくて寝る前をよく思い出してみようとうんうん頭を唸らせる。昨日は何をやったんだっけ。何があって、どうしてこうなったんだっけ。
昨日は普通に仕事をした。仕事が終わったその後は……。そのあと、と心の中で繰り返していると朧げに思い出せてきた。
仕事が終わって帰宅している最中で吉田に会った。チトセは折角の休日だから一人でゆっくりしたかったというのに、吉田が勝手に着いて来たのを思い出した。
こういった事は特に珍しい事ではなかった。ただ、何かと絡まれるので鬱陶しくなったチトセがあからさまに嫌そうな顔をしても、吉田は引こうとしないのが困りものだった。いつもと同じように拒んでも意味が無いのはわかってたから、結局渋々、本当に渋々家に上げたのだったか。
彼はチトセの家に出入り出来る。というのも、勝手に合鍵を作られたからだ。それに気付いたチトセが、いくら何でもやって良い事と悪い事くらいあるだろうと非難したが、彼曰く以前チトセの家に邪魔した時に合鍵を作っていいかとチトセに尋ねたら良いと答えたらしい。本当にそんな事を言ったのか疑わしかったが、その時チトセは酒を飲んでいて当時の記憶がごっそり抜け落ちており、吉田が嘘を言っている証拠が取れなかった。鍵を替えても良かったが、住所や電話番号などはとっくに知られている為逃げてもほとんど意味が無い。仮に押し掛けられてもずっと居留守できるほど肝が据わってもいない。そも、自分の家なのになぜ家主が逃げなければならないのか。一層の事、早く引っ越したいのが本音だった。
それよりもまずは、いち早くこの空間から逃げ出したい。そもそもここはチトセの家なのだから、隣ですやすや寝ている吉田を容赦無く締め出せば良いのだろうけれど、それは流石に酷い気がしてやめた。
彼を起こさないようにそっとベッドの中を弄って目的のブラジャーを探す。暫し探していたが見当たらなかった。隣を起こさないよう細心の注意を払って周囲を見渡せば、ベッドの上にブラジャーが落ちているのが見えた。良かった、と安堵したがそれを取るには吉田を越さなければならなかった。つまり、彼の背後に放り投げられていた。
何であんな所にあるんだ。そもそも誰が投げ出したんだ。そんなのチトセしかいないのだろうけれど、いくら酒を飲んでいたとはいえ自分がそんな事をしたのか信じられなかった。吉田のものと思われる服を着ている自分。隣で寝ている上半身何も着ていない吉田。放り投げられたブラジャー。本当に昨夜何があったのかを知るのが怖い。
目的のものを取ろうとそうっと手を伸ばす。袖が当たりそうだったので捲って落ちないように押さえながら身を乗り出した。普段は2人も乗らないからか、少しの身動ぎだけでベッドがギッ、と2人分の重みで小さく音を立てた。
あと数センチで指先が肩紐に引っ掛かる、といったところで体に何かが巻き付いて強い力で引き寄せられた。元々ベッドの上という不安定な所で不安定な体勢でいた為、呆気なくベッドに逆戻りしてぼすんと体が沈む。
何事、とチトセは顔を上げるがこんな事ができるのは1人しかいない。長い前髪から覗く漆黒と目が合って、心臓がどくりと嫌な音を立てた。

「何してたの?」

気持ちが落ち着かないチトセに対して、吉田は何が面白いのか目元を緩めてゆるりと口元に弧を描いている。余裕そうな態度からして、彼は昨夜何が起こったのかを覚えているのだろう。「……べ、べつに」と咄嗟に視線を逸らしてぶっきらぼうに答えるとふっ、と吐息が頭に当たった。それが少し震えているから笑われているのだと気付いて、チトセはむっと顔を顰めた。

「ずっと隣でごそごそしてるから、何か探してるのかと思ってた」
「……何もしてない」

チトセが何かを隠している事など恐らくわかっているのだろう。わざと訊いてくるのだからつくづく意地が悪いと思う。もう下手な事は言うまいと口を噤む。君の後ろに自分のブラジャーがあるからそれを取りたいんです、なんて恥ずかしくて言えるわけもない。眼前にある胸板とか、何で背中に腕が回されたのか気になりつつも、何でもない風を装って表情を悟られまいとシーツに顔を伏せた。チトセの返答に彼はふぅんと小さく鼻を鳴らした。

「一応聞くけど、チトセさんって昨日の事覚えてる?」

この言葉だけで全てを察するのに充分の威力を持っていた。こんな何やら甘ったるいような、そうでもないような空気が漂うこの状況下で何も起こっていない方が不自然なのだ。何でこんな大変な事になっているのに全く覚えていないのだろう。酒癖は悪い方ではないはずなのだが、この時ばかりは禁酒を本気で考えた。吉田の言葉に内心冷や汗を流しながら素直に首を横に振った。

「……そっか。チトセさん可愛かったのに、覚えてないんだ。残念」

かわいかったって、なにが。先程まで平常だった心臓がどっどっ、と早鐘を打つ。その度に耳と頬がどんどん熱くなっていっていった。吉田の言葉が何を指しているのかわからないほど、チトセは初心ではない。
シーツに半分顔を埋めているような体勢を取っていて良かった。うっかり髪の間から耳が覗いていたりしませんように、としょうもない事を祈る。位置的に彼からはほとんどチトセの表情は見えないはずだが、気付かれるのは堪らなく恥ずかしかった。

「また酒のせい? 本当に程々にした方がいいと思うよ」
「……毎日飲んでるわけじゃないし、時々しか飲んでない」
「でも俺が見てる限りいつもこうだよ」
「仕事終わりの楽しみだからいいじゃない。……そういえば、吉田くんはお酒飲まないね」

ふと、いつも晩酌をしている時の様子を思い出した。思えば吉田がお酒を煽ってるのも、そもそも缶を持った姿を見た事が無い。見た目で判断するのは良くないけれど、酒も煙草も嗜みそうな感じがしていたのに。アルコールに弱い体質なのか、何か理由があって飲まないのか。かと言って深入りする事でもないだろうと考えているチトセの耳に、彼の声がするりと入ってきた。

「飲まないよ。俺、未成年だし」

チトセは衝動的に彼の腕の中から抜け出して出ベッドから起き上がった。同時にすごく間抜けな声が出た。吉田はそんなチトセの様子を見て、少し目を見開いて驚いたような、珍しい表情をしていた。
彼の言葉から導き出される結果を改めて理解しようと頭が超高速で回転する。しかし、ぐるぐるとただ考えが回るばかりで一向に答えに辿り着けない。恐らく理解してはいるのだけれど、心がそれに全く追いついていない。
呆然と吉田を見下ろすチトセの姿がよほど滑稽なのか、彼は一度瞬きをして微笑を浮かべるとチトセを見上げた。縫い付けられたように漆黒から目が離せなくなる。さっきまで火照るほど熱かった顔から、血の気がどんどん引いていく音がした。

「俺は別に隠してるつもりは無かったんだけど。チトセさんも聞いてこないし」

それもそのはずで、チトセは吉田を成人していると思っていた。成人していると思い込んでいる相手にいちいち未成年ですかなんて聞かないし、当然突拍子も無しに身分証明書見せてなんても言わない。これは嵌められたとかではなく、チトセの落ち度だ。知らなかったとはいえ、未成年に、手を出したとは。

「……本当に……本当に、申し訳ございません……」
「えっ、何してるの」

土下座するしかない。チトセは力無くベッドから下りて彼に向かって頭を下げた。吉田もベッドから起き上がると、縁に座り直してチトセを見下ろした。

「そんな事しなくて良いのに。チトセさん、顔上げて」
「だっ、だって私、きっととんでもない事を」
「とんでもない事?」
「君にだる絡みしたり……」
「いつものチトセさんとそんなに変わらなかったけど」
「お酒の強要とかしたり……」
「無かったし、強要されても飲まないよ」

どうやら嘘は言っていないようだ。飲酒していない事実にはほっとしたが、まだ問題は残っている。床に額がつきそうなほど平伏して服が重力に従って落ちるから、首元がやけに涼しい。極限に達してしまいそうなほど居心地が悪かった。

「あと、この服とか……多分、その」

チトセが今着ている、というか着せられたと思われるこのぶかぶかの服が何が起こったのかを知らせている。自分のものではない知っている匂いが、まるで彼に包まれているようで落ち着かない。考えたくない事だが恐らくは、それ以上の事をしているのだろうけれど。

「……ああ、その事なら忘れられないかなぁ」

改めて絶望の淵に立たされるには充分な言葉だった。ショックで打ちひしがれているチトセは気付けなかったが、吉田の声色にはどこか愉悦の色が含まれていた。チトセは覚えが無いとはいえ、自分がしでかしたであろう事の重さに押し潰されそうになりながら必死に言葉を紡でいった。

「本当にごめんなさい。君にした事も、それを全く覚えていないのも全部……。謝って済む事じゃないけど、本当にごめんなさい。責任はきっちり取るから」
「……責任?」

チトセの言葉を吉田が拾い上げた。必死になってチトセがこくんと首肯すると、吉田は興味深そうに頬杖をついた。顔を伏せているチトセからは見えないが、彼の瞳はまた弧を描いていた。光も反射しない黒が、じっとチトセを見下ろしている。

「責任って、例えば?」
「た、例えば……? ……じ、自首……」
「それはやめてほしいな。それとも、チトセさんは俺が止めてもそうしたいの?」
「そんなわけない……けど、このままは……」

チトセがどうしたら良いのかわからず言い淀むと、吉田は考え込んだ。
暫くした後、うん、と彼は誰に対してでもなく頷くと、未だに平伏したままのチトセに近寄った。顔を上げるように再度催促されてチトセが恐る恐る顔を上げると、緩く細められた漆黒と目が合った。
「それならさ、」と声を掛けられて反射的に肩が跳ねる。言い渡される宣告にあからさまに怯えるチトセに、吉田はまた笑った。

「まずは、俺とデートしてよ」