春駆け

今日は最悪だった。帰り道で禪院直哉に会うなんて悉く運が無い。絡んで来るならまだしもあんな事までしてくるなんて。本当にあの男だけは昔から大嫌いだ。
しかもあの男、容赦無く噛んでくれたようで、あの時彼から逃げるように離れて傷を触ってみれば案の定血が手に付着していた。東京に戻る間に応急手当ては済ませたのだが、私は治療の専門家ではないし反転術式も持っていないので暫く痕は残ってしまうだろう。打ち付けられた背中の痛みも合わさって酷く気分が悪い。
まさか不本意であれど意中でもない男に噛まれて出来た傷です、なんて硝子さんに言えるはずもなく高専には寄らず自宅に帰り鏡に向かって傷を確認した。応急処置で貼ったガーゼを取ればそこに染み込んだ血と首元に残った歯形が目に入った。
……確かに私は女だ。でも呪術師の強さに男も女も関係ない。現に特級術師には九十九さんという前例がいるし、私だって伊達に一級術師を名乗っていない。
真希ちゃんの話を聞く限りでもやはり禪院家はああいう価値観が蔓延っているのだろう。本当に碌な家じゃない。私も、私の生家も言えた事ではないけれど。

「……可哀想な人」

それは誰に向けて放った言葉なのか。自分の声は思いの外哀れみを含んでいた。

◇◇◇

「あっ」

いつも通り授業の一環で真希ちゃんと近接の稽古をしていたが、真希ちゃんの一撃で私の持っていた武器が弾き飛ばされてしまった。
正確には弾き飛ばされた、というより私がしっかりと武器を持って構えてなかったのが原因なので殆ど手からすっぽ抜けた、が近かった。昨日の出来事がずっと脳の片隅にあって目の前の事に集中出来ていなかった事がバレたのか真希ちゃんが不満を露わに武器を持ち直した。

「律、今集中してなかっただろ」
「ご、ごめん」
「これじゃどっちが教師かわかんねーな」
「面目ないです……」

そう言えば真希ちゃんが笑ったので、私も苦笑いしながら武器を拾った。今のは教える立場としても一級術師としてもちょっと情けなかった。
ズキ、と首筋の痕と背中が少し痛む。大した傷じゃないけど、もう正直に硝子さんに話して治してもらおうかなんて考えていると真希ちゃんが「丁度良いし休憩入れるか」と武器を下ろした。

「何かあったろ。話くらい聞いてやるよ」
「……ありがとう」

本当にどっちが教師で生徒かわかったもんじゃない。同じように稽古をしているパンダくんや狗巻くんとそれを眺める伏黒くんを尻目に彼らとは少し離れた位置に2人で腰掛ける。パンダと狗巻くんのは近接の練習というよりは遊んでいるように見えて微笑ましいが、あれでは何の稽古にもなっていない。キャッキャウフフしているようにしか見えない。ぼーっと彼らを眺めていると隣に座った真希ちゃんが切り出した。

「で、何があったんだよ」
「……昨日、実家に行ってたんだけど」
「おう」
「帰り道に直哉……くんに会って」
「察した」

そう言って真希ちゃんはげぇ、と不快感を露わにした。

「一発……いや、五発くらい殴ってくれば良かったじゃねぇか。いや、もっとか」
「うん……最初は我慢しようと思ったんだけど我慢できなくなって……」
「お、遂にやったか」
「いや、それが返り討ちに遭っちゃって」
「返り討ちぃ?」

はは、と苦笑いを浮かべて痛む首筋を手で抑えると真希ちゃんはこちらを見て驚愕すると一瞬で表情を歪めた。返り討ちに遭ったのは今でも腹立つし許せないけれど、まるで私の代わりに真希ちゃんが怒ってくれてるみたいで少し嬉しかった。

「……腐っても特別一級だしな、あいつ。どこやられた」
「背中は打ち付けられて……。あとは、このあたりに」
「首?何されたんだよ」
「それがえっと……こう……がぶっ、と」
「次会ったら有無言わさずぶっ殺す」

そう言って立ち上がった真希ちゃんはパシン、と武器を持ち直すと「あいつらに混ざってくる」と言い出した。突然の心境の変化に驚いてその姿を見上げると別の人影がこちらに近付いて来るのが視界の端に見えた。
あのツンツンとした黒髪のシルエットは間違いなく伏黒くんだ。パンダくんと狗巻くんは……まだ向こうで戯れている。

「何だよ恵。盗み聞きか?趣味悪ぃぞ」
「人聞きの悪い事言わないでください。パンダ先輩と狗巻先輩がずっとあの調子なんで言いに来ただけです。あと殺気がこっちまでだだ漏れですけど何かあったんですか」
「次もし会ったら確実に殺せるように今から準備すんだよ」
「はぁ……?呪霊でも出たんですか?」
「呪霊なんぞより胸糞も質も悪ぃ」

稽古に戻る、と言うと真希ちゃんは本当にパンダくんと狗巻くんの所に合流するようで歩を進めた。しかし途中で立ち止まってこちらを振り返ると私───ではなく伏黒くんを呼んだ。

「恵、暇なら律を硝子サンの所に連れて行ってくれ。放っとくと多分何だかんだ理由付けて行かねぇから」
「え、ちょ、真希ちゃん」
「……!、わかりました。律さん、行きましょう」
「んじゃ、後の事は頼む」

真希ちゃんは向き直ってひらひらと手を振るとパンダくん達の所へ行ってしまった。動揺する私とは裏腹に伏黒くんは少し焦った様子で私の手を掴むと半ば強制的に立たせようと引っ張った。
されるがまま立ち上がると伏黒くんはそのまま私の手を引いて硝子さんの所へ向かう。思いの外その力が強く背中も怒ってるように見えて大丈夫だよ、と否定の言葉を言いかけた口を噤んだ。

「いつからですか」
「えっ……な、何が?」
「怪我に決まってるでしょ。いつから。あと何で放置してたんですか」
「昨日からだけど……そんな大した傷でもないから、自分でどうにかなるかと思って」
「どこを怪我したんですか」
「……背中を、少し」

矢継ぎ早に飛んでくる質問にしどろもどろになりながらも答えていくが、伏黒くんの纏う雰囲気が怖くて口が上手く回らない。首筋の噛み跡は言ったら軽蔑されてしまうんじゃないか、って訳のわからない恐怖が湧いてきて言えなかった。私は悪くないはず、なのに。

「……また、俺に言えない事ですか」

私の手を握っている彼の手に力が込められる。私が力を抜いても、握り返さなくても彼は手を離してはくれなかった。
伏黒くんは私に一瞥もくれず歩みを進めながら尋ねてくる。

「真希さんには話せて俺には言えないんですか」
「……ごめん、そういうのじゃ」
「俺じゃ律さんの力にはなれませんか」
「そんな事ない」
「俺は頼りになりませんか」
「頼りにしてる」
「俺の事は、信用できませんか」
「信用してるよ。そんなの当たり前、」
「なら何で!!」

伏黒くんが歩みを止めた。張り詰めた空気を感じて同時に私の足も止まる。
ギチ、と音がしそうな程強い力で手を握られている。今すぐ離して欲しいくらい痛かったけれど、何故だか心の方がもっと痛かった。でもここで「痛い」と声を上げたら、私から手を解いたら何かが終わる気がした。
もう骨が折れてしまってもいい。それでも良いから私の話を聞いてほしい、と少しばかりの想いを込めて握り返せば息を呑む音が聞こえた。
私の手を握る手から力が抜けていく。今すぐにでも解けそうな均衡で私は彼の手を繋ぎ留めた。

「……ごめん。今すぐ話す事が出来なくて」
「……いえ。俺も怒鳴ってしまってすみません」
「いつか私の事も、それ以外の事も全部話せるようにするから。だから、待っててほしい」

私は臆病だ。卑怯だ。伏黒くんが気を利かせて私の事を深く聞いてこない事を知っていて、彼にはそんな事を言うのだから。
ごめんなさい。自分から手を握り返しておいて待っててほしいなんて。我儘を言ってごめんなさい。狡くてごめんなさい。でもこれ以上皆を、伏黒くんを私の個人的な事情に巻き込むのは違う気がするから。
一貫性の無い私の言葉と行動は本当に我儘で自分勝手で、それでいて待っててくれなんて都合の良すぎる話だと思う。何も話してくれない相手を信用し続けるなんて普通は出来ない。
今この場でこれ以上私から言う言葉はもう無い。ここで彼に見限られても構わない。そんな覚悟に似た自暴自棄の気持ちで伏黒くんの言葉を待っていると、幾分か落ち着いた声で「……わかりました」と聞こえた。
伏黒くんが振り返って私を見下ろす。その表情に先程までの剣呑な雰囲気は無く、ただ穏やかに、ただ落ち着いていた。

「待ちます」
「……え?」
「律さんを信じて待ち続けます。だから律さんも俺を信じて約束を守ってください。必ず」

言い方は至って穏やかで優しいのに、他所を見る事は許さないとでも言うかのように視線が真っ直ぐ私を射抜く。この場所だけ時間が止まったかのように静寂が包み込む。私は、その黒を受け止めて頷いた。

「……わかった。全部、話す。でもきっと時間は……かかると思う」
「構いません。律さんがきちんと自分の言葉で伝えてくれるなら」
「……うん。……約束、だね」

約束、なんてこの歳になってするなんて思わなかったな。まるで青春みたいだ、なんて思ったら何か可笑しくって思わず小さく笑いが零れてしまった。
すると伏黒くんはまた私に背を向けるとぐいぐいと手を引っ張って早足で歩き出した。驚きながらも小走りで彼に着いていく。

「えっ……ちょ、ちょっと速いよ、伏黒く、」
「傷が悪化したらどうするんですか。家入さんの所に急ぎますよ」

なんて言う彼の耳が少し赤くなっている事に気付いて、伏黒くんも実は調子が悪かったんじゃ……と心配になったが、硝子さんに診てもらえばすぐに治るだろう。あ、でも2人同時に診てもらったら首の痕バレちゃうかな、と少し焦りを感じたがその時は正直に話そう。約束をしたのだから。
心がいつもより軽い。そして握られた手が温かい。まだ暫くこうしていたいな、という我儘にはすぐ蓋をした。

eclipsissimo