愛をなぞる指先は
ナマエがナイフで髪を切り裂いたと同時に、クラッカーが振り投げたプレッツェルが敵を射貫いた。ナマエの髪が舞い、遥か先のクラッカーはその様子を見据える。この一角だけ音が消えたように研ぎ澄まされた空間で、一歩一歩こちらに彼は悠然と近づき、その様子をナマエは唯々見つめるしかできない。クラッカーはナマエの横で息絶えた男から剣を引き抜いて、ナマエを刺すような視線で見下げた。その視線に身体は素直に震えだし、手からナイフが零れ落ちる。
—なんて情けない。
己を奮い立たせて彼を見れば、クラッカーは嘲るように笑って、ナマエの不揃いな髪を引っ張った。
『ずいぶんと、お似合いだな』
ギシギシと軋む髪に己の弱さをより実感する。クラッカーの瞳は全てを見透かすようで、恐ろしい。けれど今視線をそらせば二度と彼と共にいることはできないような気がして。必死に食い下がれば、クラッカーは気にくわないと言わんばかりにナマエを投げ捨てた。
『立て。弱いやつは、戦場(ここ)に立つ資格すらない』
そう言い捨てて、踵を返してクラッカーは歩き出す。足手纏いだと、ここで切り捨てられなかったのは彼の優しさなのだろうか。
強くなりたい。もっと、もっと。
ナマエは瞼を強く擦って立ち上がり、誇り高き背中を追いかけた。
「「ありえないわ」」
綺麗に揃った声に、クラッカーは嫌な汗をかいて押し黙った。呆れたと分かりやすく肩をすくめたのは、同じ日に同じ母親から生まれた三つ子の兄弟である。藤と菫の眼が、クラッカーを攻めるように見つめ、いたたまれなくなって思わずティーカップに手を伸ばした。
クラッカーが兄弟の一人であるカスタードにお茶会に招待されたのは、あの戦闘から一週間が経過したころだった。たまには兄弟水入らずでどうだ?と誘われて断る理由もなく招待を受けた。始めこそは諸島の様子や、兄弟の近況等、よくよくある話をしていたのだが、突然もう一人の兄弟であるエンゼルが思い出したかのように話題を変えた。
「そう言えば、あの子髪を切ったのね」
「私も見たぞ。せっかくの綺麗な髪だったのにもったいないな」
「何か心境の変化でもあったのかしら?」
「クラッカー、何かしらないのか?」
と尋ねられて、肩が僅かにピクリと反応する。その変化を幼いころから共に育ったカスタードたちが見逃す訳もなく、詰め寄られ事の仔細を話すこととなった。
あの時のことは鮮明に覚えている。
薄汚い男に髪を引っ張られて苦痛に顔を歪めた顔も。覚悟をして躊躇いなくナイフを振り上げた眼差しも。
ナマエは先日の戦闘で敵に髪を捕らえられ、逃れる為にその髪を自ら切り捨てた。
クラッカーが咄嗟に振り投げたプレッツェルは敵を射止めたにも関わらず、間に合わなかった。ひらひらと風に舞った髪が己の足元に漂着したとき、クラッカーは言葉にできない憤りを感じた。
—どうしておれを待たなかった?
そんな弱敵に何をしている
—なぜおれが側にいながら、こんなことになった?
いや、あいつは窮地を己の力で打破したのだ
矛盾する感情が鬩ぎあい、着地点を見失う。しかし、クラッカーを見つめる瞳は力強く、髪を切り捨てたことを微塵も悔やむ様子などなかった。
己の弱さを恥じ、奮い立たせ、この女は今戦士としてさらに先の境地へ進もうとしている。情けなどかけては、その意志を侮辱するようにすら思えた。
『ずいぶんと、お似合いだな』
クラッカーがその髪を引っ張れば、更にその瞳は光をました。
『立て。弱いやつは戦場(ここ)に立つ資格すらない』
突き放した言葉にも、臆せずに立ち上がりクラッカーの後を追いかけてきた。
そうだ。ここで立ち止まるな。追ってこい。お前はこのおれと共にあるのだろう。
「で、貴方それを彼女に伝えたの?」
「それに、髪を引っ張る必要があったのか?」
「っぐ…」
「「ありえないわ」」
そして冒頭の現在に至る。
三将星と呼ばれ、四皇ビッグ・マムの子どもたちの中でも抜きんでた強さをもつクラッカーでも、この兄弟に口で勝てたことはない。二人揃えば言い負かすことは生涯不可能とすら思える。
「クラッカー、貴方本当にこちら方向には疎いわね…」
「お前たちは、あいつに甘くないか」
「あんな健気で可愛い子が兄弟に嫁いだら、誰でも甘くなるだろうよ」
「お前たちにあいつの何がわかる。あいつは、そんなヤワな女ではない」
とやけになって言えば、
「ほんと可愛くないな」
「そういう問題ではないでしょ」
と畳みかけられ、いよいよクラッカーは口を真一文字に結んだ。
いやに疲れた。よくもまあ、次から次へと口が回るものだ。日が沈み始めるころ、ようやく二人から解放され屋敷へ戻ると、クラッカーを執事が出迎えた。いつもならば、そこにもう一人いるはずの彼女の姿がなくクラッカーは眉をひそめた。
「あいつは?」
「奥様でしたら、お出かけになられています」
「何処に」
「…間もなくお帰りになられるかと」
「おれは何処にいるのかと聞いているんだがな?」
睨みを効かせれば、この屋敷の主であるクラッカーに逆らえる者などいるはずもない。
執事はやれやれと首を振って「誘惑の森にいらっしゃるかと…」とここにはいないナマエに向けて申し訳なさそうにいった。
小さな子どもではない。放っておけばよいものの、クラッカーの足は自ずと森へ向かう。
カスタードたちがナマエの名前を何度も呼ぶものだから、すっかりクラッカーの頭の中は知らず知らずにうちに、彼女のことで埋め尽くされてしまっている。
『あれ〜?クラッカー様だ』
『どうしてここにいるの?』
とのんびりした森のホーミーズ達に
「あいつはどこだ!?」
激しい剣幕で問いただせば、彼らは慄いて我先にと道を作る。その道を辿れば、容易にその姿が見え、クラッカーは思わず息をのんだ。
『もう止めようよ。クラッカー様に怒られるよ』
「お願い。あと、一回だけ」
『そろそろ帰らないと、クラッカー様帰ってくるんじゃないの?』
「今日はカスタードさんたちとお茶会だから…ちょっと遅くなるんじゃないかな」
『じゃあこれが本当に最後だからね』
彼女の手にはあの日、髪を切り裂いたナイフが握られていて。その身体には生傷がいくつも見える。彼女はナイフを構えると、木々のホーミーズ達へ向かって走りだし、襲い掛かってくる枝にその刃を振り落とした。まだまだクラッカーからすれば荒く無駄な動きばかりである。兄弟たちが賞賛した美しい髪はもう靡かない。しかし目は反らせなかった。
『ああっ!クラッカー様だ!』
鍛錬を側で見ていた花たちが突然叫び、木々たちは一斉にクラッカーを見た。今まさに彼女を捕らえた根っ子はピタリと動きをとめ、締め付けられたナマエは、ううっと苦しそうに唸る。
『クラッカー様、これは、その、違うんです』
「わかっている」
夫であるクラッカーの登場に、その妻を傷つけたとあって命の危機を感じたホーミーズたちはシュルシュルと急ぎ早に根を解いて、一目散に退散してしまった。取り残されたナマエは、どうしてここに、と驚愕した面持ちでクラッカーを見て立ち尽くしている。
「ここが戦場だとして、今、お前は死んだな」
「…はい」
「あれしきの攻撃をよけきれずにどうする」
「そうですね。本当に弱いですね、私」
戦闘の後、気がやや沈んでいることには気づいていた。しかし翌日にはいつもと変わらない面持ちで使用人たちと接していたので、まさかこんな場所で鍛錬をしているとは思いもしなかった。執事たちにまで、おれに秘密にするよう頼んで。
お前が先に進もうと、力を求めるというならいくらでも手を貸そうというのに。稽古をつけてやろうかとプレッツェルに手を伸ばすと、「あの、」とナマエが口を開いた。
視線を彼女へ向けるとクラッカーの呼吸は一瞬止まった。比喩でもなく、確実に。
彼女の顔には大粒の涙が次から次へと溢れ出る。必死に拭おうと瞼を擦るが、止まらない。
「わたしは、クラッカーさんの、側にいてもいいのでしょうか」
震える声で絞り出すように彼女は言う。あの戦いの最中でさえ涙を見せなかったお前が、何故今泣くのだ。あの時のお前は、おれの厳しい言葉にも立ち上がったではないか。
離れていく。今数メートル先にいるはずの彼女が、遙か彼方に離れていく感覚がする。何処へ行こうというのだ。クラッカーは咄嗟に走り出し、赤子をあやすように、その身体を抱き上げた。
弱さを見せるな、泣くな、と不器用なこの男は呼吸と一緒に言葉が出てしまいそうになる。だが今、伝えるのはそんな言葉ではない気がして。
"貴方、それをちゃんと伝えたの?"
エンゼルの言葉が蘇る。おれが今こいつにかける言葉は…
「当たり前だ!お前はおれと共にあるのだろう!おれはお前を置いて行ったりはしない!だから貴様も何度でもおれを追ってこい!」
がむしゃらともいえる勢いで口早に言えば、ナマエの瞳がぐにゃりと再び揺れ、口をわなわなと振るわせる。
何故、また泣くのだ。何故、泣き止まない。この言葉ではないのか。これでは本当の赤子のようではないか。ええい、もうおれにはわからん!
やけくそに、その身体を腕に乗せて抱き直せば、彼女は肩に額を押しつけて泣き続ける。
この時初めてクラッカーは彼女の短く切りそろえられた髪を間近で見た。しばらく美しく風に靡く姿をみることはないだろう。けれど、覚悟をして切り裂いた髪は酷く美しく、彼女に似合っているように思う。
三将星と呼ばれる誇り高き男。人に屈せず、己の強さを疑わない男。その男には幾分不似合いな臆病な指先が、腫れ物に触れるように、その髪に触れた。
おれには涙を止める術などわからないのだ。
これ以上泣いてくれるな。
恐る恐るその手は頭の輪郭をなぞるようにゆっくりと動きだす。ぎごちなく、けれど丁寧に、慈しむように。
この森へ足を運んだ理由が、"会いたい"なんて甘美な想いであることに、この男は気づきもしない。彼女の涙が止まらない理由を知るのはまだ少し先になりそうだと。この日誘惑の森のホーミーズたちの噂話は尽きる事はなかった。