イノセントワールド
片肘をついてハンドルを握りながら走り抜ける。雨が振り出しそうな淀んだ空と湿気がわずらわしく、神々廻を髪をかきあげた。湿度の高さは天候のせいだけではないと神々廻は思った。さきほどから助手席でズビズビと鼻をすすってナマエが大粒の涙を流しているからだ。ティッシュやハンカチを持ちあわせておらず、シャツの裾で瞼を抑えているが、そろそろ雑巾絞りをすればコップ一杯ぶんぐらいは涙がしぼれそうである。
『豹が死んだ』
車を走らせて、5つめの信号で神々廻は前をむいたままナマエに告げた。饒舌にあの店のラーメンが美味しかったのだと機嫌よく話していたナマエは、ぴたりと黙り込んだ。本部から豹の訃報が入った時、ナマエは不在だったので初めてその事実を知ったのだった。
『ナマエには俺から言うわ』
と殺連の従業員たちに口止めしたのは神々廻であった。ナマエとは殺連に所属してからの仲であり、ある程度のこと知っているつもりだ。親しかった仲間の死を知って、ナマエがこういう状況になるであろうことは神々廻には予想できていた。そして予想通り、豹の死を告げてからグズグズとか弱い声が聞こえてきて、神々廻は(やっぱりな)とため息を一つ落として窓の外に視線をやった。
つい先日、豹を死なせてすまないと謝ってきた少年に、あやまるな、人を殺しておいて、仲間の死だけを悼むのは都合が良すぎるだろうと諭したところである。ナマエがあの場所にいなくてよかったと神々廻は心底思った。余りに格好がつかないからだ。
人の死にいちいち涙していてはキリがない職業であるし、自分とて仕事で数々の命を奪っておきながらもナマエは仲間が死ぬと泣く。相手からしたらなんて勝手な女なのだろう。
「お前殺し屋向いてへんで」
「うううう、ひょう…」
「全く聞いてへんやん…ってそれ俺の上着ちゃうんかい」
「ひょううううう…」
「おい、きけや、阿呆、鼻かむな」
「うううう」
知らない間に新調した上着をティッシュ代わりにされていて軽く殺意が芽生えたが、後でナマエにクリーニング代を請求することにして堪えた。このまま泣き続けられるのもわずらわしくて、神々廻は車を路肩に停車させた。缶コーヒーを少し口に含んでナマエを見ると、上着をぎゅっと抱いて縮こまっている。
殺し屋は響きこそ物騒だが、見た目は一般人と遜色のない者も多い。南雲も黙っていれば上背の優男であるし、大佛もゴシック趣味の華奢な女である。ナマエは二人に比べれば印象に残るような特徴もない、よくも悪くも普通の女だ。殺戮趣味もない。足を洗えばすぐにでも何事もなく普通の生活に馴染むはずである。まだナマエなら引き返すことができるかもしれない。ナマエが本当にそう望むなら、神々廻はある程度手を貸してやろうとも思うのだ。
殺し屋である限り、これからも仲間の死は避けられない。少年から聞いた豹の最期よりも、あっけなく、一瞬で無様に残酷に死ぬかもしれない。そのたびにナマエはまたメソメソと肩を震わせて涙を流すのだろうか。本当に勝手だと思う。
弱いから死ぬ。豹が負けた理由は至極シンプルだ。豹も自分が死んで、ナマエが馬鹿ほど泣いているとは思っていないだろう。
しかしまともな人生が保証されていないこの稼業で死んだ後に涙を流してくれる女がいて、少しは豹もあの世で笑っているのではないかとも少しだけ思う。
「お前、」
――俺が死んだらどないすんねん
そう口走りそうになって、神々廻はもう一度コーヒーを口に含んだ。
何を聞こうとしとんねん。阿呆らしい。
ナマエが仮に「泣く」と答えても神々廻は変わらない。俺は死なん、とマンガのヒーローのように約束できるわけでもないし、その気は毛頭ない。強ければ勝つ、弱ければ負けるそれは摂理である。
神々廻は馬鹿なことを一瞬でも考えた自分に嫌気がさして、もう仕舞いやとばかりに多めに買っておいたコーヒー缶をナマエの泣きっ面に近づける。ブラックが飲めないナマエの為に、砂糖入りである。
「ええ加減、泣き止み」
こめかみに軽く缶をあてると、ナマエがようやく下がりっぱなしだった顔をあげた。誰がみても大泣きしたとわかる、みごとな腫れ瞼だ。少しからかってやろうかと、神々廻が顔を覗き込むと、
「豹を殺した女、ぜったい殺す…」
と殺気だった声でナマエが呟いたので、神々廻は「こわっ」と伸ばした手をひっこめたのだった。
前言撤回。この女は殺し屋以外無理だ。