唇に、灯を
やらかした
やっとの思いで這いずり辿り着いた大樹に、ナマエは背をあずけた。
呼吸をするのが苦しい。わずかに開いた口から小刻みに酸素をとりいれる。身体は氷柱で心臓を突かれるような悪寒に襲われて、徐々に体温が奪われていくのがわかる。
毒だ。そう気が付いた時には身体の自由は瞬く間に効かなくなっていた。
敵情視察と隊員と別れた結果がこの有様である。まさか敵の中に動物を操る高度な術を用いるものがいるとは露にも思わなかった。樹上に身を隠していたところ烏の群れに襲われた。烏たちは目を紅く光らせて鋭い鍵爪をナマエに突き立てた。クナイで応戦して蹴散らしたのだが、どうやら烏の爪に毒が仕込まれていたようだ。視界が霞み、平衡感覚を失って落下した。幸い昨日の雨でぬかるんだ壌土がクッションとなり命はとりとめたが、肋骨の何本かは逝ったようだった。
仲間たちは近くにいるに違いない。しかし身体が動かない今、声を発することもできず、助けを呼ぶ手段がない。いっそ止めを刺してくれたらいいものの。蚊の鳴くような息をしているナマエを絶命させることなど容易いはずなのに、敵は姿を現さない。完全に絶命するまで待つ慎重な気質のものなのか、それとも愉快犯なのか。感覚が鈍ってしまって、敵の気配を察することはできそうにない。泥まみれの身体から、濃い壌土の香りが鼻を掠めた。
最期にみる風景が、樹々が覆い茂る森というのは侘しいものだ。戦が続く時代で望むには高望みかもしれないが、できたら最後は床で迎えたかった。家族に、里の仲間に見守られて、武功の一つや二つあげたかった。晴天でもない、こんな淀んだ空の日に。雨が近いのか、森の匂いは一層濃くなっているようにも思う。
――お前は馬鹿か。いっそのこと忍をやめたらどうだ。
死に際で思い出すのがあの皮肉めいた幼馴染の顔なんて。今、やつがきたら間違いなくそう言われると力なく笑ってナマエはうなだれた。
向いていないとわかっていても、一族のためにと自分で選んだ道だ。少しは役に立てただろうか。いずれ党首になる幼馴染の鼻を一度ぐらいは明かしてやりたかった。よくやったと言わせてやりたかったのだ。
ナマエは目を閉じて、息をできる限り殺した。最低限の呼吸で、体力を温存しながら僅かな望みをつなぐ。ナマエにできる唯一の抵抗である。誰か、誰か、気づいて。凍える身体はそう願うことすら億劫になる。寒さに雪山で遭難したように眠気すら覚える。堪えろ。今意識を手放したら確実に死ぬ。
そう眉間に力をこめたとき、どす、と鈍い落下音が微かに聞こえたのだった。そして次の瞬間、目の前にただならぬ気配を感じ、ナマエの顎先は力強い手に捕らえられた。俯いていた顔を強制的に上げられ、かは、と擦り切れた呼吸が零れ身体は強張った。心臓を握られるような圧力を感じ、その人物が手練れであることを悟った。
「死んだか」
冷酷な声が落ちる。しかしその言葉にナマエの頬は僅かにあがった。間違うはずのない、憎たらしい幼馴染の声であったからだ。「忍をやめろ」よりも、最初に投げかけられた言葉の辛辣さに食いついてやりたいがその力はもう残っていない。しかし不思議とこの幼馴染を前にすると、負けん気が湧いてくる。
「…かってに、ころ、すな」
と、とぎれとぎれに反論する。力を振り絞り、片眼を開けて見た男――マダラの顔は無機質で酷く冷淡だった。ナマエの現状に動じるわけでもなく、嘲るわけでもない。これほど馴染の男の心の内が読めなかったことは今までなかった。
それになぜマダラがここにいるのかナマエにはわからなかった。マダラは別働隊で、隊長として違う部隊を率いていたはずだ。
―――どうして、ここにいるの。
と問いかけたいが、もうナマエにはその余裕はない。せめてもと視線で訴えるが、ガクガクと震える身体は気を抜けば一瞬で息絶えそうだ。マダラはナマエの顔を見据えると、忍着の袂から小さな小瓶をとりだした。深い紺色の瓶だ。目を凝らすと中で液体が揺れている。
「舌を噛むなよ」
そう一言だけ言って、マダラは栓を抜きとり、それを己の口に一息で飲みこんだ。そして顎を掴んだ手はそのままに、もう片方の手をナマエの後頭部に回すと力任せに引き寄せ、震える唇を塞いだのだ。
「……っ、んん…ふ」
マダラに口付けられていると気が付くまで、数瞬の時間がかかった。マダラの口から苦みのある液体が流れ込んでくる。苦しくて思わず口を結びそうになるが、マダラはナマエの頭をより強く押さえつけ、痛いぐらいに唇がぶつかり合う。暴れる舌をマダラの舌が押さえつけた。まるで一滴たりとも吐き出させてたまるかという荒々しい口付けだ。嚥下した喉が熱を上げていく。
「や、…んん…っ」
胸を強く押し返してやれないのが悔しい。身を捩って、激しく首を振って逃げ出したいがそれもできない。平時ならば平手打ち一発では収まらない出来事だ。ナマエにとって初めての口付けであった。
ナマエが全ての液体の飲み終えると、湿った音を立てて唇は漸く離れた。ナマエはマダラの胸にしなだれて、深く呼吸を繰り返す。呼吸を繰り返すたびに、氷のように冷たかった心臓に炎が灯ったように血流が流れ込むのを感じる。背中にマダラの手が添えられて、無骨な手が、慣れない手つきで背中を数回なでた。震えが徐々に引いていく。
視界も徐々に鮮明になり、マダラの身体越しに、地面に伏した男の姿が見えた。男の周りには烏の羽が散らばっている。操術を用いナマエを襲った術者が息絶えていたのだ。鈍い音は男がマダラに絶命させられたものだったのだ。
マダラに助けられたのだとナマエは認めざるを得なかった。痛む唇から注がれたのは、おそらく一族に伝わる解毒薬だ。
見返してやりたかった男に、情けない姿を見られた羞恥心もある。しかし命が助かったことに、安堵もあった。まだマダラの背を追えることが嬉しかった。
マダラは次期党首として先へ背丈も力も、羨望も資質も携えてどんどん高みへと昇ってしまう。近頃は口を聞くことすら少なくなって、最後に幼稚な口喧嘩をしたのは思い出せないぐらい前のことだ。
身体はまだ動かせない。けれど、せめて一言だけなら、とナマエはマダラの袖を掴んで、顔を上げた。しかし見上げたマダラの瞳は紅蓮に染まり、視線に射抜かれたナマエは「ありが…」と言いかけながら意識を手放した。
――お礼ぐらい言わせてくれたらいいのに
ぐったりと倒れこんだナマエの身体をマダラは抱きかかえて立ち上がった。おそらく骨の何本かは折れている。迅速に、けれど慎重に医者の元まで届けなければ。
――ナマエの姿が見当たらない
とナマエの属する隊の長から一報が入った時マダラの身体は思考よりも先に動いていた。イズナに目配せで隊の指揮を委ねて、身体はナマエの元へと急いでいた。犠牲のない戦などない。うちはとして、戦いにでる道を選んだのはナマエである。だが贔屓だと罵られても、この衝動は止められない。――生きろ、生きていてくれ。そう願わずにはいられなかった。
「俺のいないところで、勝手にくたばってんじゃねぇよ」
眠る幼馴染にかけた言葉の声色は、一族を率いる次期党首の威厳を微塵も感じられない。そこに含まれるのは、安堵のみである。
規則正しい呼吸をして眠るナマエの身体を抱きあげるマダラの手に力がこもった。そして颯爽とその姿は、里を目指して深緑の中へ消えたのである。