願いの箱庭
一体いつから俺たちは万事屋になったんだ。
アリオスは栗毛の丸い頭を見ながら、ため息をついた。
とある惑星で泊まった宿のできごとだ。たまたまアンジェリークと部屋を出たタイミングが一緒だったアリオスは、思いつきで宿の食堂で一緒に朝食をとっていた。宿の女主人お手製のパンを味わって、アンジェリークを時々からかいながら次の目的地について話をしていた時のことだ。
「多分あの子じゃないかしら」と宿主に案内されて、一人の白髪の老人が急に訪ねてきたのだ。腰を曲げてゆっくりとした足取りで朝食の席にやってきた老人は、アンジェリークを見ていった。
「ここに頼みごとを聞いてくれる二人組がおるときいて来たんだが……」
アンジェリークはキョトンと目を丸くして、私たちのことかしら……?というようにアリオスをみた。アリオスは十中八九アンジェリークのことだと思った。
この惑星に到着してから旅の一行は宝玉の情報集めをしているが、アンジェリークは訪れる先々の住民たちから全く関係のない厄介ごとを頼まれてくることが多々あった。ある時は告白するため花を採ってきてほしいだの、ある時は子守りをしてほしい、手紙を届けて欲しいだの。どれも些細なものばかりだが、アリオスは何度もその厄介ごとに巻き込まれている。
面倒くさいと思うのだが「アリオス……」とあの瞳で下から見つめられると、どうも弱い。さっさと行くぞ、とアンジェリークを連れだって一緒に数々の依頼を解決していくうちに、どうやらこの村で二人の噂が周りに周ってしまったようだ。
「私たちのことかはわかりませんが、私でお力になれるなら」
「おい」
「だって、本当に困っているなら放っておけないわ」
お人好しもここまでくると呆れるぜ。
見ず知らずの人がいきなり訪ねてきてもアンジェリークは決して拒みはしないし、困っている人を放って置けない。これが女王の気質なのだとしたら、とんだ聖人君子だとアリオスは内心で悪態をついた。
老人は掛けていた鞄から小さな箱のような物をとり、アンジェリークへ差し出した。一辺十pほどの正方形の木箱のようだ。アンジェリークはそれを両掌で受け取り、目の高さで左右、上からと様々な角度でみた。
「まあ、とても素敵」
アンジェリークが嬉々とした声をあげたので、アリオスも居合わせている手前食事の手を止めて木箱を見た。蓋から箱全体に花や鳥の彫刻が施されている。その緻密さに、一目見ただけで上等な物であることがわかる。ごく普通の村人にしか見えない老人が所有するには似つかわしくなく思う。
「これは、ばあさんと若い頃に出掛けた市場で見つけたものでね。あまりにばあさんが気にいったので、奮発して買ったんだよ。でもね、買ったのはいいが、私じゃ一度も開けられた試しがないんだ。村一番の力自慢に頼んでも、うんともすんとも言わなくてねえ……傷つけるわけにもいかず仕方なしに長年飾っていたんだがね……」
次は開かずの箱を開けてくれってわけか。また馬鹿げた依頼が来たもんだ、とアリオスはうんざりと溜息を吐いて箱を見るのを辞め、パンを口に再び運んだ。アンジェリークは真摯に老人の言葉に耳を傾けて頷きながら、箱を見ている。クルクルと方向を変えてみたり、窓から入る光にあててみたり、額に小皺をつくって思案している様子は滑稽だ。なんだ、アブラカタブラと呪文でも唱えるつもりか?と揶揄ってやろうとすると、あっ!とアンジェリークが声をあげた。
「なんだよ、驚くだろ」
「見て、アリオス。ここよ!」
「どこだ?」
「ほらここ!鳥の目に赤い石が埋め込まれているわ」
世紀の大発見でもしたかのようにアンジェリークが目を輝かせていうので、アリオスは飲みかけの紅茶を置いて、彼女が指さした箇所をみた。偶然か、日の光が当たって、小さな石は主張するように輝いた。アリオスはその石をみた瞬間違和感を覚え、目を細めた。この小さな瞳の石から底知れないものが沸き上がってくる。アリオスがよく知る感覚だ。アリオスの身体に流れる力。
———これは、魔導石だ‼
「アンジェリーク、その箱を離せ‼」
「えっ⁉きゃ‼」
「チッ、アンジェリークッ‼」
咄嗟に伸ばした指が箱に触れると同時に、白い閃光が溢れ出した。瞬く間に視界を覆われ、眩しくて目を開けていられない。完全に閉じきる前に、アリオスの目は力無く倒れるアンジェリークの姿を捕らえた。次に浮遊感を感じ、どこかへ吸い込まれるような奇妙な感覚がする。
畜生!……間に合わなかったかっ‼魔導が発動しちまった!
そして、アリオスの意識は完全に白い光に飲まれたのである。
[newpage]
アリオスが目覚めると、そこは真っ白な世界だった。見渡す限り白一面で、何もない虚無と呼ぶには相応しい世界だ。傍らに眠るアンジェリークを見つけ、呼吸があること確認してアリオスはひとまず安堵した。どのような魔導が発動したのか詳細はわからないが、空間移動のたぐいのものであることに間違いなかった。アンジェリークと同じ場所に飛ばされたことは幸運なのか、魔導が意図して飛ばしたものなのかわからない。この空間自体に魔導が宿っていることは感じるが、悪意や攻撃的なものを一切感じないことが奇妙である。むしろ温かいとすら感じる。とはいえ、ここが安全だと断言もできず、アリオスは起き上がり虚無の空間を確かめることにした。食事中の咄嗟の出来事だったとはいえ愛剣を持ち合わせなかったのは心許ない。
アンジェリークの姿が確認できる範囲を歩く。浮遊感はもう感じず、地に足がしっかりと着いている。コツコツと自分の足音だけが聞こえる空間をしばらく歩くと、壁のようなものにつま先がぶつかった。手で触れてみると確かにそこには壁がある。壁に触れながら歩くと長方形の四角い空間であることがわかった。
アンジェリークがまだ目を覚ましていないことを確認して、魔導の力で宙に浮いてみる。手を伸ばすと、固いものに触れた。天井がある。
ここは部屋である。広さはおそらく宿泊していた部屋ぐらいか、とアリオスは考えを巡らせた。ベッドが二台ずつ対面して並ぶ四人部屋。食事するには狭い、談話用の机と椅子だけが置かれた質素な部屋である。男四人で過ごすには窮屈に感じて、アリオスはほとんど部屋にいたためしがない。
限られた範囲の空間に、アンジェリークと二人閉じ込められているという事実だけがわかる。壁を叩いたり、蹴ったりしても乾いた音がするだけで、破壊できそうな手応えは得られなかった。
——こんな何もねぇ所にいたら、頭がいかれちまいそうだ
突破口を探したいが、手掛かりがあまりにない。どうしたものかと、苛立ってアンジェリークの元へ戻ると、ようやく彼女が目を覚ましたようだった。
「ん……アリ……オス?」
「ようやくお目覚めかよ、お前よくこの状況で呑気に寝ていられるな」
「え?私そんなに長いこと眠っていたの?…まあ、ここは何処なの?真っ白だわ!」
「……今気づいたのかよ。相変わらずポヤポヤしているな、お前」
「そんな言い方しなくてもいいじゃない。ええと……確か私たちおじいさんから素敵な木箱を見せてもらっていたのよね……」
落ち着きなく目をキョロキョロと動かしているアンジェリークに、アリオスは今の状況を説明した。ただただ真っ白な何もない空間に自分たち二人が閉じ込められていること。今のところ脱出の手がかりはないということ。すっかり気落ちするのかと思ったが、アンジェリークは意外にも冷静に、むしろ不思議そうにアリオスの言葉をきいている。アリオスはその表情を怪訝に思い、話を中断した。
「お前俺の話理解できているのか?もっとピーピー騒ぐと思ったぜ」
「でもアリオス……あなた手がかりは何もないって言ったけど、そこに机があるじゃない」
アンジェリークが指差しながら発した言葉にアリオスは慌てて後ろを振り返った。
「マジかよ……」
アンジェリークの言葉通り、振り返るとそこには木製の机があった。深い茶の正方形の机が初めからそこに存在していたというようにある。二脚の椅子が添えられ、机の真ん中には白磁の花瓶が置かれ、淡い桃色の薔薇が一本いけられている。
「おい、本当に机なんてなかったんだぜ」
「何もアリオスが嘘をついているなんて思ってないわ」
アンジェリークが机の方へ行こうとするので、アリオスは咄嗟にその手を取った。
「勝手にいくな。罠かもしれないだろ。ちょっとは疑え」
「……うん、ごめん」
机が出現したことに理由があるはずだ。時間の経過か、何か条件を満たしたのか、それとも本当に罠かもしれない。
アリオスはアンジェリークに先だって歩き、机に近づいた。そして机の上に小さな白い紙が置かれているのを見つけた。アンジェリークはアリオスの背から顔を覗かせて紙をみた。
『お互いの名前を呼びあう』
柔らかい丸みを帯びた文字でそれとだけ書かれている。女の字のように思う。
「一体何なのかしら?」
「さあな」
念のため二人で机や椅子を調べてみたが、素人の手作りなのか、少し荒い作りであることぐらいしかわからなかった。
アンジェリークが薔薇に顔を寄せて、いい香りと喜んでいる。霞のない鮮やかな色で張りのある花弁は、摘みたてのようにも思う。しかし人の気配は微塵も感じない。今、ここから出る糸口となるのは、この紙切れだけのように思う。
魔導を極めているとはいえ、アリオス自身魔導の全てを知っているわけではない。魔導の力の底はしれず、魂を呼び戻す魔導があるほどだ。他人を別空間にとじこめる魔導があっても驚きはしない。魔導なら、必ず解除できる方法があるはずだ。
「なあ、アンジェリーク。試しに俺の名前を呼んでみろよ」
「え?」
「ほら、この紙に書いてあるだろ。馬鹿げているかもしれないが、俺たちに今できることはこれしかないんじゃないか」
「……それも、そうよね……」
アンジェリークはコホンと軽く咳ばらいをして、かしこまってアリオスに向かい合った。
たかが名前を呼ぶだけで何緊張してんだ、と笑いそうになったが言うとまた怒るので堪えた。
「……いくわよ」
「ああ」
「……アリオス」
「アンジェリーク」
「……………」
「何も起こらないわね……」
しばらく待ってみたが、何も起こらず、アリオスは内心舌打ちをした。的が外れたのか、あの文字は端なるメモだというのか。
「アリオス見て!」
「ばか、急に叫ぶな。驚くだろ」
「いいから‼」
朝にもこんなやり取りをしたな、とアンジェリークが指さす方をみると、アリオスは目を見張った。薔薇の本数が二本へと変わっていたからだ。同じ桃色の薔薇が、確かに増えている。条件はやはりこの紙なのか、と手元の紙切れをみると、元書かれていた文字が滲んで消えていく。そして新たな文字が浮かび上がってきた。
『見つめ合う 三十秒』
紙をグシャリと握りつぶしたくなった。何だ、この条件は。壁を睨みつけたが、真っ白な空間があるだけで人の気配は依然にない。
「見てみろよ、次のお題がでてきたぜ」
紙を見せてやると、アンジェリークは顎に手をやって唇をツンと尖らせた。
「で、でも難しくはないわよね」
「やるのか」
「あたりまえよ、やるしかないわ!」
アンジェリークの言う通り、今はこの紙切れの要求に応えるしかこの空間に変化をもたらすことはできなさそうだった。ただ求められる内容がたわいのない事柄なのが引っかかる。俺がこの魔導で敵を封じ込めるならば、こんな要求は出さない。もっと残酷な条件をだす。やはり敵意はないということなのか……意図が全く読めないことがかえって不気味だ。どこからか二人のやりとりを高みの見物しているとしたら相当悪趣味な奴だ。気配を探ってみてもやはり感じるものはない。
「じゃあ、やるか」
「うん!」
二人はもう一度向かいあった。アンジェリークは険しい顔つきで、見つめるというよりも睨みつけるに近い。アリオスはそれがたまらなく愉快だ。真剣にやっているとはいえ、この表情で見られては、笑いを堪える自信がない。
「そんな顔だと眉間の皺がとれなくなるぞ。いいか?お題は『見つめる』なんだ。もっと気楽な顔しろよ」
「え?私そんな固い顔をしているかしら」
「ったく、無自覚かよ、クッ」
こつんと額に寄った皺を人差し指で小突くと、アンジェリークは何するの!と突かれたところに手をやった。怒った顔の方が彼女らしいと思うし、自然と表情が柔らかくなった。
「瞬きはしていいんだからな」
「わ、わかっているわ!」
「よし、じゃあ始めるぞ」
——一、二、三と心の中で秒数を数える。三十秒なんて楽勝だと思っていたが、『見つめ合う』という行為をするだけでは、何倍も時間が経つのが遅く感じられる。アンジェリークはやはり瞬きをするのを忘れているようで、アリオスから決して目を逸らさない!と大きな瞳を真っ直ぐに向けている。口元が綻びそうになるが、アリオスは徐々に口を真一文字に結んだ。
その瞳に見つめられれば見つめられるほど、居心地の悪さが込み上がってくる。吸い込まれるような、ブルーグリーンの瞳。———『彼女』と同じ色の瞳が、こちらを見ている。意識しないように徹していたが、やはり似ている。
あと、どれだけ時間が残っているのか、わからない。逸らしてしまいたい。そう思った時、白い手が伸びてアリオスの両頬を少し乱暴に挟んだ。
「アリオス、駄目よ!もう少しなんだから‼」
アリオスに顔を背けさせてたまるかと、アンジェリークに頬を挟まれて固定された。グッと互いの顔の距離が近づいて、アリオスは更にその瞳を間近で見た。
確かに彼女に似ている瞳だ。だがその瞳は彼女よりも光彩を放って強く輝いているように見えた。
「ま、まだかしら……」
アンジェリークの身体は小刻みに震えていることが頬に添えられた手から伝わってくる。顔を固定させるために、アンジェリークがつま先立ちをしていることに、アリオスはようやく気が付いた。身体を支えてやらねばと手を差しだしたとき、ポッポー、ポッポーといつの間に現れたのかわからない鳩時計が鳴いた。アンジェリークはもう無理!と言わんばかりにヘナヘナとその場にしゃがみこんだ。
お前どんな体制になっていたか分かっているのか、と小言を言ってやりたい。あれではまるで恋人通しの濃密な距離だと、アリオスはその後頭部を見下ろした。
だが無知か、考えなしか生真面目か、アンジェリークの大胆さに助けられたことは事実で、助かったぜ、とアリオスは手を伸ばした。
「アリオス見て!」
「ああ、どうやら達成したみたいだな」
花瓶の薔薇は三本に増えた。そして驚くことに、鳩時計を中心に壁の色が鶯色に波打つように広がって変わっていく。真っ白だった空間が鮮明に浮かび上がってくる。天井には暖かな橙色の光を灯す照明があらわれた。アリオスが想像したように宿部屋のような広さだ。まだ机と、鳩時計、照明しかない異質な空間だが、ここには人の営みを確かに感じる。
ただし、床はまだ真っ白で、窓や扉のような別空間へ行けるようなものは見当たらない。
白い紙に文字が浮かび上がってくる。
『お互いの好きなところを話す』
紙に浮かび上がる要求を達成するごとに部屋の調度が増えることは間違いないようだ。この要求に応え続けることが、この空間から脱出する手段だと確信めいてくる。問題なのは、いくつこの要求が続くのかということだ。
香しい匂いがして机に目をやると、紅茶とクッキーが机に置かれている。紅茶からは湯気があがって、今まさに淹れられたようだった。もちろん人の気配はない。つくづく奇妙である。
(座って話せということか)
アリオスは先だって椅子に座ると、アンジェリークに同じ様に座るように顎で促した。
「いい香りね」
「間違っても食べるなよ」
「どうして?」
「お前な、罠かもしれないだろう」
「……でもね、アリオス。私最初からこの場所に悪い気は何も感じないの。むしろとっても暖かくて落ち着きさえするわ」
女王として感じるものがあるのか、アンジェリークも同じように敵意を感じていないようだ。だからといって得体のしれないところから現れた食べ物に手を付けようというのは、どうかと思う。
「甘いところ」
「え?」
「お前の好きなところだよ。すぐに馬鹿みたい信じて、考えが救いようなく甘いところだよ」
「それが私の好きなところなの?まったく褒められている気がしないわ」
「クッ、そうか?俺からしちゃ誉め言葉だぜ。俺のことだってそうだろ?まだ旅して数ヵ月だっていうのに、すっかり信じ切っている」
「だってアリオスは悪い人では絶対にないもの。火事の中私を助けてくれた、命の恩人よ」
「その思考がつくづく甘いんだよ。……お前俺が火をつけた犯人だと疑ったことはないのか?」
「え⁉そんなことあるわけないじゃない」
アンジェリークが声を荒げ気味に立ち上がっていうので、アリオスは少し気圧された。アンジェリークは言葉を続ける。
「旅をして私なりにあなたを見てきた!あなたはそりゃ口はちょっと悪いけれど、いつも周りをよく見てくれて。困っている人を放っておけない優しい人よ!私とっても頼りにしているの!」
「………お前よくそんな恥ずかしい言葉立て続けにいえるな」
「だって本当にそう思っているから!」
「……そうかよ」
「そうよ!」
アリオスは身体がむず痒くなる。媚びを売るために薄っぺらい言葉を重ねられたことはあるが、そんな言葉は響いたことがない。けれどアンジェリークの言葉は不思議と真っ直ぐに心に沁みわたって火照りを感じる。
アリオスは無意識にティーカップを口元に寄せた。しかしアンジェリークに食べるなと言った手前あまりに格好が悪いので、我に返ってすぐさま置いた。アンジェリークは気にする素振りも見せず、本当よ、と念を押すように頷いている。
「ったく、鼻息が荒いぜ。いいから落ち着いて座れよ」
「もう、またそんな言い方して!」
「……まあ、その素直さはお前の美点かもしれねぇな。正直可愛いと思うこともある」
「え?」
「今のなし、何でもねぇよ。忘れろ」
再度促されてアンジェリークはまだ何か言いたげな表情で席についた。椅子に腰かけると同時に真っ白だった床の色が変わっていく。年季の入った木目のフローリングがみるみると現れて、部屋の真ん中には落ち着いた紅色の絨毯がひかれた。
『お互いの好きなところを話す』
いつもの些細な口喧嘩のようなってしまったが、無事にこのお題は達成と見なされたようである。
花瓶の薔薇は四本になった。小ぶりな花瓶では、そろそろ余地はなさそうだ。この増える薔薇の本数に意味はあるのだろうか。終わりは案外近いのかもしれないと、アリオスは紙をみた。新たな文字が浮かび上がってくる。
『手をつなぐ』
少し拍子抜けした内容だ。ここまで三つの要求に応えてきたが、求められる内容の度合いが徐々に上がっているようにアリオスは感じていた。意図的にアンジェリークと手を繋いだことなどないが、旅の中でモンスターから助ける際に腕をひいたり、ましてや火の中で抱き上げたこともある。子どもの遠足のような幼稚な要求はここにきてあまりに簡単に思える。
「さっさとやっちまうか」
「ええ」
先に差し出されたアンジェリークの手をアリオスはとった。アリオスが握るとほとんど見えなくなるほどに小さい。この手に宇宙を統べる力があるというのが信じられないほどに華奢だ。しかし共に旅をしてきた今は、その心の芯の強さも嫌になるほどに知っている。手のひらから伝わってくる温かさを心地よく求めてしまいたくなる時さえある。
「何も起こらないわ……」
不思議そうに繋がれた手を見つめて、アンジェリークは空いたもう片方の手を重ねた。両手に包まれて、より温かさが伝わってくる。しかし薔薇は増えず、文字も消えない。
書かれた内容には間違いなく応えられているはずだ。これが最後の要求だったのたかと部屋を見まわしたが、変化は見られず、脱出できるような扉や窓もない。
するとどこからともなく、華やかで軽快なメロディが流れてくる。オーケストラが奏でているもののようだ。時折ジジッと雑音まざっているが不思議と不快ではない。
「アリオス、あそこ!」
「あ、おい!引っ張るな!」
アンジェリークが手を引いた方をみると、小棚に置かれたレコードがキュルキュルと回っている。鈍色にくすんだ、年季の入ったものだ。もうこの部屋に何が現れようと、驚きはせずアリオスは冷静にその意味を考えた。三拍子のワルツのメロディはアリオスとアンジェリークを包むように延々と繰り返される。それは二人を急かすようにも祝福するようにも聞こえる。
「踊れってことか」
「え?きゃっ、ちょっと、アリオスッ!」
アリオスは繋いだ手を引き寄せ、ぶつかってきたアンジェリークの腰に手を添えた。二人の腹が隙間なくくっついて、一体何事かとアンジェリークは慌てふためいている。
「アンジェリーク、ダンスの経験は?」
「ほとんどないわ……」
「全く踊れないってわけじゃないんだな。十分だ。足は踏むなよ」
「えっ、ちょ、ちょっと‼」
アリオスは有無も言わさず、アンジェリークの手をとってリズムに合わせてステップを踏み始めた。アンジェリークはキャっと時折小さく悲鳴を上げながら、引きずられるように、がむしゃらに足を動かしている。アリオスの背中に添えられた手には、振り落とされてはたまらない、と力が込められている。優雅さの欠片もない足取りと、アンジェリークの若干涙ぐんで見上げる表情に猜疑心が疼きそうになる。
「もっと早く回ってみるか?」
「む、無理よ!やめて!もう一杯一杯だわ!」
「クッ、そう言われると余計にしたくなる」
「もう、アリオス‼」
リスのように膨らませた頬に、アリオスはクルクルと周りながら声を上げて笑った。腹の底から笑ったのは久しぶりだ。アンジェリークはますます頬を膨らませている。
舞踏会に良い記憶など一切ないが、王族の教養の一つとして教えられたことが思わぬ形で役にたった。いやいや踊った女たちに良い顔をされたことなどなく気分はいつも最悪だった。ダンスを楽しいだなんて感じたことなどないが、たどたどしくもアリオスのステップに必死についてこようとするアンジェリークを見るのは気分がよかった。
音楽が続くままに、身体を揺らしていくうちにアンジェリークも少しずつステップに慣れてきたようだ。少しずつ笑顔を見せ始め、アリオスもつられるように頬をゆるませた。
「……アリオスはとても踊るのが上手いのね」
「まあな。旅の途中で助けた貴族に教わったことがあるんだよ」
「そうなの?旅って色々な出会いがあるのね」
適当に口からでた嘘でもアンジェリークを信じさせるには十分だった。疑うことを知らない真っ白な心は、残酷で憎くて、同時に眩しくもある。
もし、俺の正体を知ったらお前はどんな顔をするんだろうな。それでもなお、その濁りのない目で俺を見るのだろうか。深入りしすぎていると思う。
『彼女』の器にするために、杖の能力を知るために同行している旅だが、もうそれだけの理由では収まらないものをアンジェリークに抱きつつある。情を抱いてはいけない。間もなく別れの時は近い。
ひとしきり踊り、アンジェリークの額に汗が滲んだころ、満足したとでもいうようにメロディは繰り返されることなく止んだ。アンジェリークは肩で息をしている。労いのためにアリオスは、ましになったな、とその肩を叩き椅子へ座らせてやった。アンジェリークは疲れた…、と机に突っ伏した。
花瓶の薔薇は五本になった。もう他の薔薇が花瓶に入る余地はないように思う。
これが最後の要求だったのかと紙を凝視すると、文字が消え、数秒が経過した。
ようやく終わったのか、とアリオスは息をついた。しかしその矢先、あざ笑うように浮かび上がった文字にアリオスは唇を噛んだ。紙を粉々に破り割いてやりたい衝動にかられる。
「何て書いてあったの?」
「……」
「……アリオス?」
アリオスは頬杖をついて、そっぽを向きながらアンジェリークに紙をさしだした。アンジェリークは今までの要求の中で一番目を点にしている。驚くというよりは、紙に書かれている内容をうまく理解できない、飲み込めないといった表情だ。
『一緒に眠る』
たった五文字の文字が憎たらしい。何てことを求めやがると業腹だ。
アリオスが視線を逸らした先に、ベッドが音もなく現れた。壁際の、顔を斜めに上げれば鳩時計が確認できる位置取りだ。シングルサイズではないが、二人で眠るには少し狭そうに見えるベッドだ。こちらも作りは少々荒く見える。手編みの色鮮やかなベッドカバーがひかれ、枕が二つ慎ましやかに添えられている。つまりは、このベッドに二人で並んで寝ろということなのだろう。
「お前、男と眠った経験は?」
「……お父さんとしか、ないわ」
「は、お父さんね」
予想通りの返答だ。
この紙の文字通り素直に受け取れば、このベッドで二人眠れば達成できる。しかし先ほどの『手をつなぐ』のように更に要求を求められる可能性がある。
二人でベッドに並んで、その後に求められること。男女ならば想像に達することは一つだ。勘ぐりすぎなのか。
アンジェリークがそこまで想像が行き届いているようにはとても思えない。おそらく彼女の頭の中にはピクニックで昼寝するぐらいにしか考えていないはずだ。
一層のことアンジェリークの意識を失わせて、ありったけの魔導をこの空間にぶつけてみるのはどうだ。だが、元の場所へ戻れるという確証はない。この空間を抜けた先が、元いた宿とは限らない。別の次元、異空間である可能性も否定できず下手に力を使えない。
「やってらんねぇな。もうやめようぜ、こんな茶番」
「でも……この部屋から出る手がかりは他にないわ」
「これが最後ともわからないんだぜ?仮にこれをクリアしたとして、これ以上の要求をされたらどうするんだ」
「それは……」
アンジェリークは言葉に詰まって、目を伏せた。
時計の針は昼なのか、夜なのかは分からないが、間もなく十二時を迎えようとしている。この空間に来てからどれくらいの時間が過ぎているのだろう。二時間ほどだろうか、時間の感覚が上手くつかめない。
出現した部屋は窮屈だが、二人暮らしの部屋のように思う。質素で決して華やかとは言えないが、慎ましく手作りのものに囲まれた心地よい空間だ。
こんな生活に憧れたことがかつてあった。『彼女』さえいてくれればよかった。小さな二人用の机で、二人談笑しながら紅茶を飲んで、彼女のお手製のクッキーを食べて。
煌びやかな見かけだけの生活を捨てることに何の迷いもなかった。たとえ短い時間だとしても、一緒にいたかった。この空間に来てからやたらと物思いにふけってしまう、と嫌気がさした時、アンジェリークが口を開いた。
「やりましょう」
「は」
「この先の事は、その時考えればいいわ。とにかく、今は目の前のことに応えましょう。それに……私これが最後のお願いのように感じるの……信じてくれないかもしれないけれど……」
不安そうにポツリポツリと言いながら……けれど、アンジェリークは真っすぐにアリオスを見据えた。力強い瞳をしている。もう覚悟はしたと語る瞳に、アリオスは頷くしかなかった。
「分かった」
「え!」
「何驚いてるんだ。お前が言ったんだろう」
「それはそうだけど……いいの?」
「心配すんな。お前みたいなチンチクリンに手は出さねぇよ。俺の好みはもっとスタイル抜群の美人だ」
「悪かったわね!美人じゃなくて」
「ククッ!あー、そんな怒るな怒るな。お前も後二、三年したら化けるかもな」
「もう!」
紙をもってスタスタとベッドへ向かうアリオスをアンジェリークも慌てて追った。
アリオスはベッドへ着くと鎧を脱ぎ始めた。
「ぬ、脱ぐの?」
「寝るのにこんな重い物つけてられるかよ」
「……それも、そうよね」
「何も素っ裸になれってわけじゃねぇんだ」
「!」
「はは、顔が赤いぜ。これだからお子様は」
「脱ぐわよ、脱げばいいんでしょう!」
売り言葉に買い言葉で、頬を赤らめながらアンジェリークも服に手を伸ばしたが、髪飾りをはずしブーツを脱ぐにとどまった。薄着になったアリオスが先にベッドへ上った。その姿を見て、アンジェリークが固唾をのむ音がきこえた。
少なくとも父親と眠ることと同じ、とは思っていないようだ。今ならまだ止めることだってできる。文字通り、たかが眠るだけでも、異性に免疫のない十七の小娘には刺激が強すぎるのかもしれない。
しばらく惚けたようにアリオスをみて、何かを払拭するようにアンジェリークは首をふった。頬を両手でパンッ!と叩くと意を決したようにベッドへ上った。ギシギシと二人の重みでベッドがきしんだ。
「何してるんだ」
「えっと、どうすればいいのかなと思って」
ベッドに上がりこそしたものの、アンジェリークはマットレスの淵に座っている。
「座って眠る気か?ほらもっとこっちに来て寝転ばねえと、お前の寝相じゃ落ちるぞ」
「どうしてアリオスが私の寝相の悪さを知っているの⁉」
「クッ、本当に悪いのかよ」
手招きされて、おずおずとやってきたアンジェリークはゆっくりと身体を横にした。
やはりこのベッドは二人で眠るには狭く感じる。仰向けで寝転ぶと肩がぶつかりそうで、心許ない。
「眠れそうにないわ」
「……いいから、目を瞑れよ」
「でも……」
アンジェリークは身じろいで、アリオスに背を向けた。小さな背中が僅かに震えているように見えた。首筋から見える素肌はやはり目視できるほどに朱に染まっている。
(強がりやがって)
アンジェリークが眠りにつくまで、気が付かない振りをすればいい。わかっている。
けれどアリオスの手は、その震える身体を引きよせた。驚いたアンジェリークが振り返ろうとするが、それを遮るようにアリオスは言葉を続けた。
「……アリオス?」
「まあ、聞けよ。眠れないお子さまに、俺が旅の途中で聞いた話をしてやる」
アンジェリークの心臓の音が引き寄せた手から伝わってくる。顎に触れる髪から匂う香りに、眩みそうになるのを堪えてアリオスは話す。
「あるところに、じいさんとばあさんが二人で住んでいたそうだ。ある日、じいさんは山へ薪を集めに、ばあさんは川へ洗濯にいったらしい。そうしたら川から桃が流れて来たんだと」
「桃?どうして桃が流れて来るの?」
「そんなこと、俺が知る訳ないだろ。細かいことは気にすんな、ガキ向けの話だ。確か、桃が流れてくる音っていうのが、変だったんだ。……どんぶらこっこだったか……」
「どんぶらこっこ⁇おかしな音ね。どうしてそんな音がするのかしら」
「いちいち食いつくな。最後まで黙って聞いてろ」
布団をアンジェリークの顔元までかけてやると、アンジェリークは「……うん」と頷いてそれ以上口を挟むことはなかった。背を向けていても肩の動きで驚いたり、不思議がっていることが伝わってくる。
「……それで犬、猿、鳥を仲間にして船に乗って鬼を倒しに行くんだが……」
いよいよこれから物語の佳境というところで、寝息が聞こえてきてアリオスは話すことを止めた。時計の針は二十分ほど進んでいる。
「寝つきのいい奴……ったくちょっとは警戒しろっての」
恥ずかしがっていたことが嘘のように、物語に集中したのかすっかりアリオスの腕の中で眠っている。顔を覗き込むと、気の抜ける幸せそうな寝顔の睫が揺れた。
手元の紙をみると、文字に変化はない。『一緒』に寝ることはまだ出来ていないだろ、と文字が言うようで、アリオスは舌打ちをした。
「仕方ねぇ……俺も寝るか」
ひと伸びして、アンジェリークに背を向けてアリオスは目を閉じた。背中がぴたりと触れ合って、どこか気恥しく……けれど一度触れた温もりが忘れられず、恋しい。アリオスはアンジェリークに背を向けるのをやめて、もう一度その身体を後ろから抱くように手をまわした。
近い未来に刃を向ける相手にこんな風に触れるなんてどうかしている。誰かを愛することなんて未来永劫にない。けれど腕の中の存在に苛立ちながらも安らぎを感じてしまう。触れたいと思ってしまう。
この隔たれた場所でなら、全て夢であったと忘れてしまえるだろうか。
アリオスは心地よい微睡に飲まれ意識を手放した。
ポッポー ポッポー
鳩時計の音でアリオスは目を覚ました。いつになく冴えて、清々しい気分である。密室に閉じ込められていることも霞みそうな心地よい眠りであった。
俺としたことが、危機意識がいかれちまった……と自嘲せずにはいられない。アンジェリークは変わらない位置でまだ眠り続けている。触れる身体が温かく、こうしているともう一度眠りに誘われてしまいそうだ。
どれほど時間が経過したのだろうと、アリオスは壁の鳩時計に目をやった。そして驚愕した。七時間もの時間が経過していたからだ。
アリオスは幼いころから度々命を狙われたため、長時間の睡眠をとれなくなった厄介な体質だ。最愛の『彼女』の傍でもこれほど長く眠ったことはなかった。アンジェリークの存在が、特別なものになっていることを感じずにはいられない。
そしてさらにアリオスを驚かせたのは、部屋に窓と扉が出現していたことだった。
ベッドが沿う壁に、日の光がたっぷり入る大きな窓がある。アリオスはアンジェリークを起こさないように上半身を起こしてカーテンを開けて窓の外をみた。
淡い桃色の薔薇が群をなして、みずみずしく咲き誇った小さな庭が広がっている。よく手入れの行き届いた庭に、まるで雨あがりのような輝く光が降り注いでいる。しかし上を見上げても空と呼べるような景色はなく、まして太陽などない。どこから日が差しているのかまるで分からない。
扉はレコードが置かれた小棚の横に現れた。扉から強い魔導の気を感じ、アリオスは扉をあければこの空間から抜け出せることを確信した。
起きろ、とアンジェリークの肩を揺らしてみたが反応はない。仲間たちには気取られないように気丈にいつも振る舞ってはいるが、休む間もなく旅を続けて、アンジェリークにも相当な疲れが溜まっているようだった。触れる肩はあまりに小さい。ここに掛かる使命の重みは理解できる。
アリオスは日が差し込む窓のカーテンを閉じ、もう一度ベッドに身体を沈めた。そして何事もなかったかのように目を瞑った。
長い旅の、ほんの数時間だ。アンジェリークが眠りから覚めるまで。それぐらいなら誰にも責められやしないだろうと言い聞かせながら。
眠りに落ちていくアリオスの枕元からヒラヒラと紙が一枚落ちた。『一緒に寝る』とたった五文字が書かれた小さな紙。紙はまるで意識をもつように、風もない部屋を飛んでいく。そして二人用の小さな机の上に着地すると、色褪せた写真へと姿を変えた。
花嫁花婿姿の若い男女が写っている。女は男の腰に抱き付いて幸せが零れ落ちそうなほどの笑顔だが、男はひどく緊張した面持ちでその肩を抱いていた。写真の裏側には丸みのある柔らかな字でこう書かれていた。
あなたとしたい五つのこと
一 わたしの名前を呼んで。私も、あなたの名前を呼ぶわ。沢山の愛をこめて。
二 あなたと見つめあう。あなたの瞳が大好きよ。
三 あなたの好きなところを沢山お話するわ。手作りのクッキーと大好きなお茶を添えて。はずかしいけれど、最後まで聞いてちょうだいね。
四 あなたと手をつなぐの。ワルツを一緒に踊りましょう。足を踏まないように気を付けてね。
五 あなたの腕に抱かれて眠りたい。朝まで共に過ごしたい。たったこれだけ。私があなたに望むのは、たったこれだけよ。あなたと過ごしたあの部屋で、最期を迎えたい。
そして満足したというように、跡形もなく写真は消えた。
扉が自ずから開き、白い光が溢れ出た。眠るアリオスとアンジェリークをやわらかな光が包み、二人の寝顔を慈しむように照らす。そしてひとたび強く輝きを増して、二人の姿は消えたのだった。
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「おーい、お二人さん起きてるんかー⁉」
その声にアリオスとアンジェリークは同時に目を覚ました。椅子に座ってアリオスは頬杖をついていた顔を、アンジェリークは突っ伏していた顔をあげた。二人数秒見つめ合って意識もままならないまま横をみると、ターコイズブルーの髪を揺らしたチャーリーが訝し気に二人を見ていた。
「なんや朝ご飯でも食べようおもて食堂来てみたら、二人で固まっとんのやもん。焦ったわ〜。ここだけ時間止まってんのかと思ったわ」
「……チャーリー、今は何日の何時だ」
「なんやアリオスぼけたんかいな!今日は……」
チャーリーが告げる言葉に二人で目を見張った。
二人で朝食をとっていた時から時間が経過していない。周りを見渡すが、宿を訪れた老人の姿も木箱もない。あるのは食べかけのパンと、飲みかけ紅茶だけだ。カップに触れるとまだ温かい。
「なんや〜。二人でキョロキョロして。お化けでも見たんか?」
「……ばか、そんなんじゃねぇよ。それより、ここのパン美味いぜ。お前も食ったらどうだ?」
「おっ!それがここのおばちゃんお手製のパンですかいな?ええ匂いやな。どれ、俺もいただいてきましょ!」
チャーリーが意気揚々と場を離れていき、アンジェリークはようやく深々と息を吐き出した。
「夢だったのかしら……」
「見つめ合って、ダンスを踊って、一緒に眠る夢か」
「……‼やっぱりアリオスも覚えているのね。一体何だったのかしら」
空間の出来事を思い出したのか、アンジェリークは面映ゆそうにしている。
あれは間違いなく魔導の力が作用して起こった。ただ魔導を極めたアリオスにとっても不可思議な出来事で、どのような力が作用して、密室空間へ引きずりこまれたのかは脱出した今もわからない。
「まぁいいじゃねえか。こうやって無事に帰ってこられたんだ。さあ、食事の続きをしよう」
「ええ……」
「まだ何か気になるのか」
「うん。……何のために、私たちにあんなことをお願いしたのか気になって」
「さあな。案外単なる遊びだったりしてな」
「ええ⁉そんなことないと思うわ。何かもっと、意味があるような。……そんな気がするのよ」
「意味ねえ……」
夢だったら一層よかったのに。交わした言葉も、交えた視線の誠実さも、触れた温もりも嫌というほどに鮮明に覚えている。
やはり深く関わりすぎている。離れなければいけない。
心ではわかっているのに、目の前でパンを頬張りながら考えているアンジェリークをみると冷めきった心に灯が宿るのだ。
アリオスは窓に視線をやりながら、ティーカップを口元へ運んだ。ほのかに薔薇の香りが漂ったが、それもきっと、この思いも錯覚だと思うことにした。
アンジェリークの旅の一行が宿を後にして、女主人は食堂の片づけに勤しんでいた。今朝もお手製パンは大好評で売り切れ。鼻歌を歌いながら机を拭くぐらいに気分がいい。
「おや、なんだろう」
窓横の机の片づけに取り掛かった女主人は、皿の下に小さな紙を見つけた。女が書いたような柔らかい丸みがかった文字をみて、彼女は口角をニマっとあげた。
「なんだ!嬉しいこといってくれるね。恥ずかしがらず直接言ってくれたいいのにさ。さあ、明日のパンも張り切って焼こうかね‼」
エプロンのポケットに大切にしまわれた紙にはこう書いてあった。
たった五文字 ————ありがとう
謎めいた空間に閉じ込められた二人は、知る由もない。