女神の祝福
誕生日。毎年母親がバースデーケーキを用意している日。母親には感謝している。しかし氷渡貴文にとって、それ以外特別な思い出はない日だった。今朝もショートケーキでいいかと確認をされた。氷渡が幼いころから好んで食べている店のものだ。1年に一度しか食べられない特別なご褒美。いつもなら心がおどるのに、氷渡は「それでいい」と答えかけた口をつぐんだ。
「母さん、今日はケーキいいよ」
「え?」
驚いた母親が訝しげに氷渡を見た。大人になろうと色々背伸びをしている息子だが、内心毎年楽しみにしていることをわかっているからだ。
「今日、俺友達と放課後用があるから…」
「えっ?えー!?貴文お友達に誕生日お祝いしてもらうの??」
「は、はぁ!?そ、そんなんじゃねーよ!!練習で遅くなるだけだって!!とにかく、ケーキはいらねぇから!い、いってきますっっ!」
練習が遅くなるなんてケーキを用意しない理由になりはしないのに。ダサい言い訳しちまったとチェロを担いで家を飛び出した。母親はほくそ笑んでいるに違いない。
いつもと変わらない誕生日がくる。けれど、今年は違う。今年は彼女が、小日向かなでがいる。
放課後に会う約束なんてしていないけれど、期待してしまう。夏に現れた女神。目も眩む輝きで優しく照らしてくれる人。彼女から祝福を受けられたのなら。
いつもと同じ通学路なのに、足取りは心なしか軽く感じる。イヤフォンから流れてくる音楽も耳を通りすぎるだけで集中できやしない。
小日向に会ったらどういう顔をすればいい。いつも通りポーカーフェイスを装って、「よぉ」と短く挨拶をすればいいだけだ。
いや、そもそも小日向は俺の誕生日を知っているのだろうか。あの夏を通じて、少なからず小日向も俺のことを思ってくれている…それが俺の都合の良い妄想だったら恥ずかしすぎる…
駅の改札をぬけたところで、不意にそんな考えが浮かんで急に足取りが重くなった。歩道橋の向こうには天音学園が見えている。天音までの人通りの少なさに、氷渡は朝練の時間に登校していることに気がついた。
小日向の登校時間はいつもホームルームぎりぎりだ。あいつがこんな時間に登校するはずがない。いつも通り練習室にいって、納得のいっていない箇所を念入りに弾きこもうと思考をチェロへと切り替えようとする。
「…どくーーん!!」
小日向のことばかり考えていたから、ついに幻聴まで聞こえてきた。馬鹿だなぁ俺。妄想もここまでくると笑えないぜ。
「氷渡くーーんっ!!氷渡くんってばーー!」
ところが名前を呼ぶ声は軽快な足音と共に徐々に近づいてくるようで、甘く透き通る声が氷渡の耳朶を心地よく撫でた。まさか、こんな都合よく…とおもむろに下げていた顔をあげると、小日向が歩道橋の階段を足早にかけてくる。氷渡の名前を何度も呼んで、手を大きく振りながら。
「ほ、本物の女神…っ?」
彼女の手にはヴァイオリンケースといつもより大きめの鞄が携えられている。いつもならそこには小日向お手製の弁当が入ったランチバッグが握られているはずだ。
頬を紅潮させて、俺に会えたのが嬉しいっていうようにキラキラと眩しい笑顔をうかべて…。その中に、もしも、もしも俺へのプレゼントが入っているのなら、と氷渡は期待せずにはいられなくなった。カッと頬が熱くなるのを感じる。息を切らせて走ってくる小日向よりも、ずっとずっと赤いに決まっている。
「会えてよかった。今日も朝練かと思って、早く登校して正解だったよ!」
「…よお。珍しいな。お前がこんな時間に登校するなんて」
小日向に悟られないように、帽子を深く被って顔を背けた。心臓はうるさいぐらいに鳴って、まともに顔をみれやしない。
「だって今日は氷渡くんにとって特別な日だから」
ゲームならば勝利の確定演出が出ているに違いない言葉に、氷渡の心臓はさらに速度をあげて脈打った。小日向は額に汗を滲ませて、駆け足で早くなった呼吸を落ち着かせるように、深呼吸する。そして氷渡に向けて、両手でヴァイオリンケースと鞄をズイっと差し出した。
「氷渡くん、お誕生日おめでとう!バースデーケーキ作って来たので、放課後一緒に食べませんか!」
一息に言い切った言葉は真っ直ぐに氷渡へと届いた。言葉に表せない喜びが込み上げてきて口元が緩み、「よしっ!」と思わず小さく声に出て慌てて口元を抑えた。ポーカーフェイスなんてとてもじゃないが装えない。
小日向は氷渡の態度を「No」と解釈したのか、本当は日付が変わった瞬間に連絡したかったけど、驚かせたかったのだと言い訳を始める。嬉しすぎてもうどうにかなってしまいそうだ。
俺の顔色見えてんのか?小日向が鈍くて助かったと心底今日は思えた。だがこのままでは、小日向は勝手に勘違いを拗らせてしまいそうだ。
氷渡は己を奮い立たせて喜びを抑えこみ、小日向の手から鞄だけを受け取った。ずりし、と感じる重みが愛おしく感じる。
「…放課後じゃなくて、今からでもいいんじゃないか?」
「え?」
「だから、そのお前が作ってくれたバースデーケーキを食べるの…」
「氷渡くん食べてくれるの?」
「あ、当たりまえだろ!お前がせっかく俺のために、作ってくれたのにっ!!いっ、いいからいくぞ!この時間ならまだ教室誰もいないだろっ…!」
「それもそっか〜!そうだよね!」
小日向は心底嬉しそうに笑いながら氷渡の隣を歩く。氷渡なりに勇気を出した言葉も小日向にはかわされてしまったが、今はそんなことどうでもよく思えた。
小日向が自分を思って作ってくれたケーキは、お気に入り店のショートケーキよりもずっとずっと甘い味がするに違いない。存分に味わって幸福に満たされたその時は、カッコつけずに恥ずかしがらずに、彼女へ「ありがとう」を素直に伝えようと、氷渡は誓ったのである。
天音学園までの歩道橋が、いつもより短く輝いて見えた、誕生日の始まりであった。