悲しみは誰にでも訪れる。
ゆっくりと降り積もる雪のように、天から降り注ぐ雨のように。
それでも悲しみが糧となるのはその先に未来があると確信しているからだ。

ならば、私は。

未来がないと、もう残された時間は限り少ないと知ってしまった私の悲しみは、糧となるのだろうか。

私が周りに与える悲しみは、糧となりみんなを助けてくれるのだろうか。






命の桜






親父の部屋で過ごすようになって早2ヶ月。
その間私が顔を合わせ、会話をするのは親父とサッチ、それから船医のリックや数人のナースたち。口の堅い信頼の厚い数人だけになった。

もう誤魔化せないところまで来てしまったのだ。
外見も髪はボロボロだし、頬もこけてきた。手足は肉が減ってきたし、上手く体も動かせない。


「サクラ、大丈夫か?」

「……サッチ」

「今日は顔色が良いみたいだな」

「そうかな?」


最近はもう鏡も見ていない。
昔と違う自分を見たくなくて、今を認めたくなくて。
死への覚悟は決めたはずなのに、刻一刻と迫る死の影に怯えて。


「サッチ、今日のご飯は?」

「今日はサクラの好きなオムライスだぜ」

「ほんとに?サッチのオムライス大好きなの」

「おいおい、好きなのはオムライスだけかよ?」

「ふふ、勿論サッチのことも好きだよ」


ふてくされるように唇をすぼめたサッチにそう返事をすると一瞬呆けた顔をしたあと私が言った言葉を理解して顔を赤くした。


「サッチ、顔赤いよ」

「ったく……からかいやがって。覚えとけよ」

「こんな時くらいしかやり返せないから。……ゲホゲホ、ゲホッ」

「サクラっ!」


咳き込んだ私の背中を撫でて、サイドテーブルが置いてあったグラスを手渡してくれる。
ヒューヒューと鳴る呼吸をなんとか整えつつ、水を飲む。


「大丈夫か……?」

「うん……、少しだけ胸が痛いけど大丈夫」

「横になっとけ、あんま無理するとまたリックにどやされるぞ」

「ふふふ、リックは怖いから気を付けないと……」


心配そうなサッチ。
そんな表情をどうにか変えたくて冗談めかして答えれば、僅かだがサッチの顔には安堵の色が浮かんだ。


「サッチ」

「どうした?」

「いつもありがとう」

「ばぁか、気にすんな」


サッチは大きな手でくしゃくしゃと私の頭を撫で回す。

見て呉れが変わっても、態度を変えなかったサッチ。
私に負担をかけないようにマルコや他のクルーの話をせずに、親父様やナースの姉さん達の話をしてくれていた。
マルコや他のクルー達に白い目で見られたり、陰でコソコソと言われているはずなのに。
そんな素振りを見せずに私を気遣ってくれる。

そんなサッチに私は何も返せない。
体力も落ちてきた私はサッチと体を重ねることも出来ない。ベッドから出ることも難しくなりつつある上に、ここのところは視力も落ちてきた。

こんなにも愛されているのに私はサッチに言葉しか返せない。それもきっとサッチは私が本気で言ってるとは思ってないのだろう。


「惜しいがそろそろ仕込みの時間だ。終わったらまた顔を出すよ」

「うん。頑張ってね、サッチ」


ヒラヒラと手を振って出て行くサッチを見送る。
静けさが戻ってきた部屋で、小さく呟く。


「サッチ……ごめん、ごめんなさ……」


私のために僅かな休憩時間も費やして療養食を作って、好物のデザートやドリンクを持って私を笑顔にしてくれる。

私は貴方に何かを残せる?
私は貴方を笑顔に出来るのかな?

辛くて辛くて、悲しかったあの時、私の心を救ってくれた貴方に、私は何も返せてない。
残り少ない時間で出来ることはあるのだろうか。

軽薄に見えて、とても繊細で不器用な貴方の愛を、私は貰ってばかりで。

親父様への恩も返せないまま、貴方への想いも届けられないまま。
この身は朽ちていく。


もどかしくてたまらない。
平のクルーでしかなかった私に価値のある宝なんて持ってるはずもなく。
マルコを捨ててサッチを受け入れた私が告げる言葉が、本当の意味を持って、本気の想いが届くはずがない。


「ふ、っく……、ぅぐッ……!」


こみ上げる熱い液体が喉を逆流して手のひらを汚した。
あぁ、またジェシカ達に迷惑をかけてしまう。
血の汚れは落ちにくいのに。


「サッ、チ……親父様……」


そっと目を閉じて、二人を思い浮かべる。

涙がポタリとひとしずく、零れ落ちた。