金木犀の君へ
出会いは穏やかな秋だった。
その日は、春とは違うあたたかな陽射しを浴びながら、庭に植えている木を剪定していた。時折吹く、こもった熱を冷ましてくれる秋風にのってきた金木犀の香りを楽しんでいる時に彼はきた。
「おっ、あったあった」
垣根の向こうから声が聞こえてくる。
作業をとめて声の方向を見てみると、ほぼ白で構成された男性がうちの金木犀を見上げていたのが視認できた。その、ゆったりとたくわえられた鶴髪が風に揺れる様と、ゆっくりと細められる優しい眼差しに目を奪われてしまった。
彼は視線に気づいたのか、顔をこちらに向ける。その意志の強そうな眉が訝しそうに歪むことはなく、晩秋の夜闇を思わせる黒い瞳が真っ直ぐにこちらを見てきた。
ハッとして彼の元に小走りで駆け寄り声をかける。しかし気もそぞろだったので、それは内容のない普通の挨拶となってしまった。
「こんにちは」
「どうも、こんにちは。見事な金木犀ですね。ついこの匂いに吸い寄せられてしまいました」
そう言うなり彼はハッハッハと朗らかに笑う。
言葉通りなら彼も金木犀の匂いが好きなのだろう。初対面ではあるが同じものが好きなのだと思うと嬉しくてたまらなかった。
そうして次に口から出たのは、浮かれた心からでた老婆心だった。
「よければいくつか差し上げますよ」
「おお、それは有難い」
見目の良い枝を数本見繕って切り、包装紙に包んで渡すと彼の顔は更にほころんだ。
手に持たれた金木犀の小ぶりな花たちや、その香りさえも、色白な彼にとても似合っていたのをよく覚えている。
それから数日後くらいに文が届いた。差出人は彼で、内容は金木犀の礼と、また来年うちの金木犀を見たいというものだった。
この文字だけの文ですら、彼の人柄の良さが滲みでていて、思わず笑みがこぼれてしまった。
その時は軽い気持ちで『是非またいらしてください』と返信をしたのだった。
だが次の年、彼がくることはなかった。
見ていない間に来ていたのかも知れないが、礼の文を律儀にも送ってきた彼からなにもないというのは、少し違和感を覚えてしまった。
だから、見目の良い金木犀の一枝に、他愛もない内容の文を添えて彼に送った。
何日かすると、彼から文が届いた。
彼はこの秋、体調を崩してしまい外が出歩けなかったらしく、見に行けなかった謝罪と、うちの金木犀がまた見れて嬉しいという気持ちを綴ってくれていた。
彼の近況と、しなくていい謝罪に心が痛むが、色白な肌を思うと彼は病弱だったのかもしれない。
その文の返信には、彼の体調の回復を願っていることと、また来年も金木犀が咲いたら今回のように届けるということを書いた。
彼はそれに『楽しみに待っている』と返してくれた。
そして季節は巡り、庭も変化していく。
金木犀以外にもうちの庭には季節ごとの木や花があるが、それらを彼に送ることはやめていた。約束したのは金木犀だけだからだ。
秋にだけ。金木犀が咲いた時にだけ、言葉を交わす仲。それだけでよかった。
彼も、調子が良い秋にはうちへ直接きて、縁側でお茶を飲みながら話すこともあった。
だが、年を増すごとにその機会は段々と減っていった。
文を送るたびに『あげた枝で挿し木をしている可能性があるし、もういらないのでは』と脳裏をよぎるが、それを言ってしまうとこの関係がなくなってしまいそうな気がして話さないでいた。
そんな内心を知ってか、彼はいつも純粋に楽しんでくれていることを教えてくれる。
私はその度に安堵の息をつき、喜んだ。
そうやって秋が何巡かした頃、唐突にその時はやってきた。
「あなたが苗字さんですか?」
「ええ」
「こちら、あなた宛ての文です」
玄関先で見慣れない黒ずくめの人から声をかけられ、文を渡される。紙質からしてこれは彼のものだ。
時期といい、いつもと違う雰囲気を感じ、渡してきた人をみると沈痛な面持ちをしていたため、それを追求することができなかった。彼らは並んで一礼をするとそのまま去っていった。
胸騒ぎを感じながら家の中に戻り、手元の文をとりだす。
綴られている文字はたしかに彼のものだった。
『毎年、金木犀を送ってくれてありがとう。外に出られない秋でも季節を感じられてとても嬉しかったよ』
文を読みながら彼との記憶が思い起こされる。
いつもの穏やかな笑顔の彼。
縁側で優しい眼差しで庭を眺める彼。
金木犀の香りを感じる度に破顔していた彼。
どれも灯籠の火のようにあたたかく、愛しい思い出だった。
『この文が届いたということは私はもういないだろう』
ああ、やはりそうなのか。
書かれた事実が、冷静にも腑に落ちてしまう。本人は隠していたかもしれないが、顔色が最初に会った頃より徐々に悪くなっていたのだ。
最後に会えた時も、体があまり芳しくないことを感じさせる言動があったことを思いだす。
「いつ見てもここの金木犀は綺麗だ。来年もここで見られればいいんだが……」
「君と縁側に座ってする話、交わす文、とても楽しかったよ」
その時はこの言葉たちを直球に受けとめ、ただただ嬉しくて気恥ずかしかった。しかしこれは彼なりのサインだったのだろう。
それに気づいて、もっと彼になにかしてあげられたのではないかという後悔に唇を噛みしめる。
目が潤んできたのを感じながら、彼が綴った文字を再び読み進める。
『君に逢えてよかった』
その一文が目に入った瞬間、留めていた涙がこぼれる。
落ちる涙で濡れないよう文を胸に抱くと、紙に染み込んでいただろう季節外れの金木犀の香りがふわりとただよう。
好きなはずのその匂いが、今はとても憎く感じられた。匂いとともに彼との思い出が走馬灯のように頭の中を駆け巡っていく。
涙はすそで拭っても拭ってもとまらないでいた。
彼との出会いは秋の夜のように静かにはじまり、静かに終わった。
たしかに彼はここにいた事実を残して。
『願わくば、君が此方に来らんよう』
221013
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