1,Appearance of a goat
その子供は、空から降ってきた。
「……あれ」
呆然として、見つめる。廊下に仰向けに転がった自分の上、馬乗りにまたがり見下ろす相手を。
何があれ、だ。こっちがアレだ。屋上で昼寝をしていたソコへ、青空から子犬がダイナミックにバンジージャンプしてきた直後みたいな衝撃を受け、雲雀は完全に沈黙していた。腹の上、じろじろと見下ろしてくる少年を見つめて。
「……ヴィー!」
真後ろ、綱吉の声が聞こえた。緊迫した声。ボンゴレアジトの廊下、宙から降ってきた子供にかけるにしては、ややパニックの度が過ぎている。警戒じゃなくて焦燥に近い声音だ。まるで、子供の方を心配しているような。
「大丈夫、ヴィー?!」
ような、じゃなかった。子供の心配しか、していなかった。
どういう事態だ。雲雀は目前の少年を眺め、途方に暮れる。普通、心配されるは自分じゃないのか。いや、別に綱吉に心配されたいワケでは微塵もないが。気持ち悪いし。
「何、あなた。意外にも、シタ?」
綱吉の声掛けをスルーして、少年が喋った。空から降ってきた少年が。
「……した?」
雲雀は口を開き、ゆっくり聞き返した。
どのシタだ。日本語には同音異義語があるって知らないのか。
「どの?シタはシタ、だろ」
知らないらしい。
少年が眉を寄せた。雲雀を見下ろす黒い瞳が、すうっと細くなる。
どこか底冷えのする瞳だった。真夜中の井戸みたいな、覗き込みたくない感じの。
「とりあえず、僕は他人に見下ろされる趣味は無いから降りてくれない?」
口を動かしつつ、ざっと相手を観察する。
歳は14、いや15か。背丈は低いし小柄だが、自分の上でマウントを取るその姿勢は見事なものだった。こっちの鳩尾に全体重をフルにかけているあたり、まったくの素人では無さそうだ。
目と同じ漆黒の髪、やけにダボついたパーカー、細い手足。貧民街の浮浪児というにはやや小綺麗で、どこぞの暗殺者と決めつけるには骨が目立つ。だがしかし、一般人だと雲雀は断言できなかった。
身にまとう雰囲気が、独特すぎる。
顔をしかめた。殺意、苛立ち、捨て鉢、気紛れ。どれとも、違う。
例えば、六道骸が女に身を転じたとしたら、多分、こういう雰囲気に近いだろう。もう少し違う言い方をすれば、魔女が現代に転生してきたような。
嫌だな。そう結論付ける。言葉にできないものは、大抵危険で厄介だ。人の判断力を鈍らせる。
「聞こえなかったかい?降りろ」
内心をおくびにも出さず、口を開いた。動きの無い相手へ、最終通達とばかりにそっけなく告げる。
「……見下ろす趣味はあるってこと?」
瞳孔が固まった気がした。数秒、ただ黙って相手を見つめる。
何言ってるんだコイツ。
「……見下ろされるよりは見下ろす方が好みだけど?」
真顔で返す。
「やっぱそうか」
真顔で頷かれた。は?
頭が痛くなってきた。自分の上に乗っかる少年が、何を思っているのか理解できない。
同じ人間だろうか。やっぱり魔女の手先とかじゃないのか。
「そうだと思ったんだ。あなた、絶対に上だって」
「……何、今の子は上とか下とか、方向を表す言葉で意思疎通するの?」
「何言ってるの?」
喋りだしたイルカを見るような目で見られた。こっちのセリフだ。
「……綱吉」
「あ、ハイ」
諦めて、声をかける相手を変える。後ろ、視界には入らないが突っ立っている気配は感じていた。こっちに聞いた方が早いだろう。
「通訳」
「ハイ」
綱吉の諦めたような返答が響いた。ボンゴレアジトの廊下、薄暗いそのど真ん中で。
「新しい部下です」
少しは話が通じるようになったと思っていたボスが、お笑いみたいな発言をした。
「部下」
繰り返しつつ、少年へと視線をスライドさせる。立ち上がった今、身長差は露骨なほどにハッキリだ。頭ひとつ分は小さい。
子どもだ。完璧に。
「綱吉」
「はい」
「君もジョークが上手くなったね」
綱吉が口元をねじるように微笑んだ。強張った笑みだ。
「嫌ですね、ヒバリさんには負けますよ」
不毛だ。ハッキリわかった。
「説明する気が無いなら、咬み殺してもいいよね?」
「わー、待って待って待ってください!」
カチャ、と愛用のトンファーをチラつかせる。途端に綱吉が慌てふためいた。
廊下を震わすような大声だ。煩い声量に、雲雀は眉間にしわを寄せる。
「うるさい。ムカつく。咬み殺す」
「いや、何ですかその五段活用みたいな、じゃなくてトンファーしまってください!お願いですから!」
「君にお願いされる義理は無いな」
「オレの尊厳とか人権とかは何処に?!」
カシャン。トンファーをかまえ、舌なめずりする。
まあいいや。久しぶりだし、たまにはこの男と一戦交えるのもいいだろう。
「咬み殺してあげる。久しぶりに」
「目的と手段がごっちゃになってるの、気が付いてます?!」
「自覚はあるよ」
「なおタチ悪ッ!!」
得体のしれない子供に数分、組み敷かれてやったのだ。これくらいしてもらっても、お釣りが出るレベルだろう。
ジリジリと綱吉が後ずさるのを追い詰めながら、雲雀はトンファーを握り直し、前へ踏み出しかけて――、
「売春婦」
見下ろした。
一瞬、思考が停止する。沸き上がる高揚も、全身を支配する戦闘意欲も、全て。
「夜鷹。遊女。夜蝶。売女。日本語は様々な言い方でごまかせて、美しいね」
目の前を塞ぐ少年は、まるで法律を読み上げるようにつらつらと言った。
雲雀がかまえるトンファーのほんの数ミリ先、身じろぎすれば容易に頬に傷が付く近さで。
「俺の仕事だよ。名前は、ヴィー。上でも下でも、複数人も特殊紛いもなんでもこなす」
滑らかな口ぶりの内に、肌を焼く毒のような言葉。
雲雀は見つめた。夜の湖のごとく、深い黒に沈んだ瞳を。
少年が微笑んだ。引き倒されたマリア像みたいな、どこかいびつな慈悲深い笑みで。
上下。ああそういうことかと、雲雀は納得した。どうりで通じないわけだ。
この少年は鼻から、「そういう意味で」言っていたのだから。