物心つく前から、私の力は常識の範囲を超えていた。乳幼児に与えられたおしゃぶりは2秒持たず、全て噛みちぎってしまっていた。それも、まだ歯も生えてない歯茎で。
つかまり立ちを始めてからは、もっと大変だったという。リモコンや鍵、ドアノブにテーブルの椅子、息をするように握り潰し、変形させ、再起不能にした。
そこまではまだ家族内での事件だったので、深刻に捉えていなかったが、社会に出てからは別だ。
小学校では鬼ごっこでのタッチ、体育、運動会、それらの接触イベントで力加減をコントロール出来ず、同級生を怪我させてしまうことが日常になってしまったのだ。ほんの軽く触ったつもりなのに、相手は転び、吹き飛び、時には病院送りになった。当然同級生には怯えられ、親御さんに恨まれ、氷の刃を突き刺されるような鋭い視線は今も夢に出てくるほど、私の心を凍てつけていた。
両親も、両家の親戚も至って平凡な家庭なのに私だけが怪力を持って生まれてしまった。こんな身体なので、まともな仕事はことごとく続かなかった。コピー機の紙詰まりを直そうとしてカバーを引きちぎり、パソコンのキーボードを強く叩いて粉砕し、お茶を出そうとして茶碗を握り潰した。
自主退職という名のクビを幾度も経験した末、飲み屋の黒服として働き始めたあたりから、両親とは絶縁に近い形で距離を取られている。
相変わらず暴力の恐怖心だけは人一倍あり、店外で半べそをかきながら悪酔いした客を追い払っているところを、今の職場――バビルの首領である、サリバン様にスカウトを受け、マフィアの構成員として雇われることになった。
「力加減ができない」という理由で社会から爪弾きにされ続けた私を、バビルという場所は初めて「その力を必要としてくれる場所」として受け入れてくれた。
マフィアの構成員なんて正直黒服よりも怖いけれど、私の力を手放しに褒めてくれたのはサリバン様だけだった。行先も決まっていない渡航をしていた私にとって、サリバン様は道標のような人。
なにかこの人のお役に立ちたい!その一心でバビルに忠誠を誓った。
――と、それがもう随分前のことだ。
バビルの家族として首領にお仕えし、1年が過ぎた頃、業務にも慣れてきて、貯金も溜まり始め、怖いくらいに順調だった。……と、いうのは少し盛っているかもしれない。なぜなら本日3枚目の皿を割り、カルエゴさんに叱られているところなので、正確にはまだまだ未熟者ではある。
「もうお前は食器に触るな、いくらあってもキリがない」
「……は、はい」
こってり絞られていると、廊下から軽快な足音が近づいてくる。今日は客人の予定は無いし、打ち上げやパーティーでもない。そうなると、こんなに楽しそうに踵を鳴らすのは1人しか思い当たらない。
「おはよ〜っ! ナマエ、探してたんだよ〜!」
「首領!おはようございます!」
上機嫌に扉を開けたのは、首領であるサリバン様だった。私を探していた、ということはなにか仕事の依頼だろうか。カルエゴさんのロング説教から解放されるのなら、そのお仕事喜んでお受けしたい気持ちだった。
「カルエゴ君ごめんね〜! ちょっとナマエ借りていくから」
がしっ、と両肩を掴まれてそのまま首領と共に屋敷の外へ出る。玄関先には既に車が控えており、促されるまま首領と共に後部座席へ乗り込んだ。どうやら今回の任務は首領と同伴らしい。……こうしてご一緒に行動するのはいつぶりだろうか。嬉しいな、なんて考えていると車は次第に険しい道へと進んで行き、スラムへ向かっていることが分かる。
「わしね、孫を迎えようと思うんだよ」
「…………ま、孫!?」
息子、娘、嫁、ではなく――孫。
ぽかんと口を開けたまま、まご、と首領の言葉を復唱した声は間抜けな煙のようだった。隠し子ならまあ、わかる。愛人も同様。しかし、全てをすっ飛ばした「孫」の存在に驚きを隠せない。
事情を聞くと、血縁関係は一切ない子供だという。そしてその少年は、数日前、首領が致命傷を負って帰還したあの日に、首領を助けてくれた存在なのだと語られた。そこでようやく、全ての点が繋がった。
あの日、首領と連絡が取れず、私は生きた心地がしなかった。もしものことがあったら――そう考えるたびに、悪い想像ばかりが頭を過り、思考を曇らせていた。
もし、その少年がいなかったら。
もしかしたら私は今、首領の隣に立っていられなかったのかもしれない。
それに気がついた途端、胸の奥からじわりと感謝の気持ちが湧き上がってきた。この恩を一生かけても、私もその子に返したいと思った。
――私にとっても、その子はもう大切な子だ!
◇
スラムに似合わない高級車を停め、首領は一目散に一人の少年の元へ足を向けた。その横をぴったり付くようにして、一緒に向かう。首領の長い足がスピードを早め、ひび割れた地面を上品に進んでいく。
「……!」
首領が足を止め、優しく微笑んだ先には目を丸くして驚く小さな男の子がいた。子供、だと聞いてはいたけれど本当に小さな子だ。4、5歳くらいに見える。
細い手足に、くたびれた洋服。何が何だかわからないという表情で首領と私たち護衛を交互に何度も見た。
「よし、行こうかイルマくん♡」
なんの説明もすることなく、首領はイルマ様――否、坊ちゃんを車へ乗るように促した。これ、誘拐にしか見えないけど大丈夫なのだろうか。スラムでひとり暮らしと聞いていたので、事情は察するが、坊ちゃんは明らかに怯えていた。それも無理ない。首領は、とてもお優しい方ではあるが、威厳のある風格をしている。周りの構成員達も――言葉を選ばずに表現するなら、ガラが悪い。どう見ても堅気の空気ではない。
坊ちゃんは後部座席の端で大人しくシートベルトを締め、唇を結んで遠のくスラムをジッと見つめていた。
「はじめまして、私はナマエと言います。 仲良くしていただけたら嬉しいです!」
唯一顔が怖くないのは私だけだと確信し、なるべく怖がらせないようにそっと坊ちゃんに声をかけた。本当だったら握手をしたいところだが、私の握力では坊ちゃんの小さなおてての骨を粉砕してしまう可能性があるので控えた。
「あ、ええと、イルマ……です」
坊ちゃんは両手を胸元で握りしめながら、おずおずと言葉を返してくれた。知らない大人に囲まれて恐ろしかっただろうに……!
心の柔らかいところがきゅうっと握られるような、初めての感情がわたしを包んだ。これは、愛おしいというものではないだろうか。
「お近付きのしるしに、どうぞ!」
胸ポケットから棒付きのキャンディを2本取り出して、坊ちゃんに差し出す。
「ソーダ味とストロベリー味、坊ちゃんはどちらがお好みですか?」
「……え、えと、どうしよう……ソーダ?うーん、ストロベリー?うーん」
味にちなんで彩られた包装紙を見るなり、ぱあっと坊ちゃんの瞳が輝いたのがわかった。これは子供の優柔不断なんかじゃない、坊ちゃんは心からどちらも食べたくて悩まれているのだ。
「どちらも苦手でないのならば、二本とも差し上げます!」
「え、ええっ!? ナマエさんは、どっちが好き、なの?」
「私? 私はどちらも好きですが、ソーダをよく口にしています」
「そしたら、僕はストロベリーにします!」
遠慮なんてなさらなくていいのに、と口にしようとして直ぐにやめた。これは、遠慮と言うより坊ちゃんの優しさであり、気遣いだと察したからだ。
「一緒に食べた方が美味しいから、その、」
「……! 確かに!いただきます!」
坊ちゃんの優しさに胸を打たれる。首領が孫に迎えたいと思ったのは、命を救われたからだけではない。このお方の、湧き水のように溢れる温もりに、きっと心を寄せたのだろう。
嬉しさが天井突破した私は、包装紙を破ろうとして飴玉ごともぎりとってしまった。仕方が無いので棒は諦め、口の中に飴玉を放り込んだ。坊ちゃんはそれを不思議そうな目で見た後、くすりと小さく笑った。――脳に爆弾が投げつけられたような衝撃だった。
――可愛い! 世界一可愛いかもしれない。
首領は私たちのやり取りを、柔らかな微笑みを向けて見つめていた。レンズの向こうで優しく細められた瞳が、本物の祖父のようだと思った。
少し警戒心が解かれたと安心したのもつかの間、バビルに到着すると坊ちゃんの警戒は更に強まる。
バビルの本拠は大豪邸であるが、テーマパークやデパートのような空気感とは程遠く、厳重なセキュリティに包囲された大きな屋敷。それは逆に考えると、逃げられない檻にも見えるだろう。
首領、やっぱり先に説明するべきでしたよ!と、視線でアピールすると何かを思い出したかのように、護衛の1人に耳打ちをした。首領は首領で、なにか考えがあるのだろうとほっと胸をなでおろしていると、現れたのは大きなフリルの着いたバギーだった。
固まる坊ちゃんをひょいっと抱えあげてバギーに乗せ、「バビル見学へ、レッツゴー!」と上機嫌に押し始めた。――多分、そういうことじゃない。ズレている。そりゃそうか、この人だって育児1日目なのだ。新米お母さんみたいなものだった。
首領は自室、金庫室、会議室と順にバビルの案内を丁寧にしていく。その間も坊ちゃんは目をぐるぐる回しながら、バギーに備えられていたクッションを不安そうに抱きしめていた。
首領はそれに気づいているのか。――いや、絶対に浮かれて気づいていない。
坊ちゃんの温度感とは反対に、自分を「おじいちゃんって呼んで♡」や「孫になってくれ!」と懇願していた。やり方は強引な気がするが、少なくともスラムよりは坊ちゃんの身を保証できるので、私としても頷いてもらいたい。そこまで考えて、私も大概首領と同じ思考をしているという事実に苦笑した。
そんな微笑ましくも恐ろしいやり取りを、私たちはよりにもよって【拷問室】の前で行っていた。
「――悪魔だ!」
タイミング悪く、拷問室から構成員が半狂乱で飛び出してきた。一体何をやらかしたのか、はたまたどんな荒くれ者を捕まえているのか、と首領の背後から恐る恐る中を覗いた。
「ぎえ!」
思わず間抜けな声が口から飛び出した。
中にいたのは、両腕を拘束されて額から血を流す子供だった。坊ちゃんよりは少し年上のようだが、見るからに怪我を負っていた。それなのに、自由が効く両足で構成員の首を絞めあげている。……これじゃ、どっちが拷問されてるのか分かったものじゃない。
「君、処罰がなってないね」
首領の目が、一瞬冷たく子供に向けられたのが分かり、ぞわりと鳥肌が立つ。
手負いの獣が保身のために牙を向いているこの状況に、違和感を抱いた。
「あの、この子かなり怪我をしてますが、拷問するほどってなにをしたんですか?」
これ以上刺激しなくてもいいのではないか、と思った。
子供が血を流すのは何回見ても嫌な光景であり、幼少期に痛めつけてしまった子供へのトラウマを逆撫でされるような気持ちになる。坊ちゃんに母性本能をくすぐられたからなのか、余計にその気持ちが強くなった。
「いや、それが――」
語られた事実は、蓋を開けてみると恐ろしい半分情けなさ半分の話だった。任務でスラムへ向かった構成員30人が、この子供――オペラ一人にこてんぱんに叩きのめされたという。オペラはスラムでは有名なチンピラだったらしく、ここへ連れてこられたようだ。
ジャラリ、とオペラを拘束した鎖の音が冷たく響くたび私の心も冷えていく気がした。それは坊ちゃんも同じようで、いつの間にかバギーから降りた坊ちゃんは、拷問室の中で膝を付き、額まで地面に降ろしはじめた。
「ぼ、坊ちゃ――」
「……て、手を、下にしてください……」
頭を下げたまま、坊ちゃんは蚊の鳴くような細い声で、オペラの拘束具を外すように懇願した。怖い大人達に囲まれた中、自分の身も案じているであろう状況で会ったばかりの他人を気遣うその勇気に、私は心を震わせた。首領や構成員達も驚いているようだった。
首領は一拍ほど間を置いて「イルマくん……分かったから」と、子供を寝かしつけるような静かな声が落とされた。
その落ち着いた声に、坊ちゃんが安堵した表情で顔を上げる。
首領は話のわかる人だし、無駄な血を好む人ではない。きっと、オペラは命まで奪われることはないだろう。
私も同じように安堵していると――
「わしは知らなかったよ。君がそんっっっなに、手下が欲しいなんて!」
――私は本日二回目の、そうじゃない!を心の中で叫んだ。
手下にしてください、と聞き間違えていることに、首領は気づいていなかった。時々彼はこのように、とんでもない聞き間違いをすることがある。そんな所もおちゃめで素敵なのだけれど、今回ばかりは突っ込まずにはいられない。
「首領、違います!坊ちゃんは――」
「その子も今日から家族だ!」
訂正しようとしたが、結果的にオペラの拘束は解かれ、バビルの仲間として迎え入れる体制になるようだった。なるほど、バビル加入がオペラの本意ではないとしても、少なくとも福利厚生はスラムにいた時よりは待遇がいいので、これはこれでいいのかもしれない。……年頃の子にしては細く、骨っぽい身体。急所を一番に狙う殺しのスキルの高さが、年不相応だ。せめて美味しいご飯だけでもおなかいっぱい食べて欲しい。
ああこれで、一件落着。――しなかった。
「へ?」
オペラはつるし上げられていた鎖が解かれると、手錠を付けたまま坊ちゃんを器用に腕の中に閉じ込め、そのまま逃走した。手負いで人質を抱えたまま、猛スピードで屋敷を駆け抜けていく。
「ぼ、坊ちゃん――!」
私のマイエンジェルが!
いても立っても居られず、気がつけば床を蹴り上げてオペラと坊ちゃんを追いかけていた。幸い、走るのはそんなに遅くない。バビルの中で足の速さだけは上位に入る。
パンプスも上着も脱ぎ捨て、全力で2人を追う。その後ろを複数人の構成員たちも同じように追った。
「邪魔」
途中、オペラは坊ちゃんを廊下に置き去りにして、単独の逃亡へと形を変えた。しかし、坊ちゃんの華麗な回避スキルによって、後ろを走ってきた構成員達の逞しい肉体はぶつかり合い、長い足は絡み合い、人間のドミノが出来上がっていた。ちなみに私はそのむさ苦しいドミノの下敷きになっており、一刻も早く坊ちゃんを保護しなくては!という気持ちから、上に乗っかっていた構成員を全員吹き飛ばしてしまった。ごめんなさい、後で始末書50枚かきます! カルエゴさん!
坊ちゃんはオペラの後を追い、ようやく二人に追いついた頃にはオペラの足元には構成員達が返り討ちにあっていた。オペラに酷く警戒されている、これを解けないことには堂々巡りだろう。
確か、子供と心を通わすにはまず同じ目線に立つこと!
しかし相手は私よりも一枚も二枚も上手なチンピラキッズ。怖くないと言えば嘘になる。
「お、おおお、おお、おおお、おちついて、ください」
教育番組のお姉さんのように優しく声をかけるはずだったのに、声は震え、膝を折って背面を合わせるはずだった体勢は、低くしすぎてほふく前進になっていた。
「お前が落ち着け」
「ナマエさん!」
「……めんどくさいことしたら、殺すからな」
「待ってーーー!」
オペラは再び坊ちゃんを抱え上げ、そのまま逃走を図ろうとした。間一髪の所で、私の伸ばした手がオペラの足首を掴む。
「ッ!」
細く、冷たい足だった。それはもう、力を入れたら粉砕してしまいそうな危うさがあった。――やばい!力加減!
「ご、ごめ――ッ、あ!」
咄嗟に指の力を緩めると、即座にオペラの蹴りが顔面に一発飛んだ。視界が一瞬ブラックアウトし、背中に強い衝撃を受け、意識が引き戻された。ズルズルと壁をつたいながら、床に仰向けで落ちる。蹴りを顔面に思い切り喰らったのは、いつぶりだろう。懐かしい、確か黒服の時以来だ。
「……待って!」
もう一度伸ばした手は宙をかき、オペラに届くことはなかった。遠ざかる背中を追いかけようと、起き上がろうとした肩を大きな手のひらに阻止された。
「ナマエ、もう追いかけなくていいよ」
阻止の正体は、首領だった。
焦る私とは反対に、「ナマエには別にお仕事があるから! 極秘任務だよ〜!」といたずらっ子な笑みを浮かべていた。
……もしかして、死ぬ気で追いかける必要は、なかったのでは……?
◇
極秘任務だと告げられ、ハラハラしながら首領と共に向かったのはパーティーなどに使う大広間だった。
「へ?」
「はい、ナマエもこれ装着〜!」
ニコニコの首領に被せられたのは、パーティー帽子だった。ボーダー柄に、角が生えてるように見えるパーツの飾りがあしらわれており、とても可愛らしい。……なにこれ?
「あ、あの〜。首領?」
「ナマエには色々事後報告になっちゃってごめんね。装飾、ケーキどう?」
どうやら、極秘任務とは坊ちゃんとオペラの歓迎会らしい。テーブルの上にはご馳走が並び、真ん中には背の高いケーキがドンと鎮座している。可愛らしい装飾としてバルーンがぷかぷか浮かんでいた。
歓迎会については、私だってもちろん大賛成だ。だけど、それなら先に教えてください、首領……!
「2人とも喜んでくれるかなあ〜」なんて、鼻歌を歌いながら自らの手で準備を進める首領を見ていると、小言を言う気にもならず、私は余っている風船を移動させようと掴み、そのまま割ってしまった。
だけど、その失態には誰も気が付かなかった。
ドンッ!と、鼓膜が破れそうな大きな爆音と共に、広間と隣室の壁が爆発によってぶち抜かれたからだ。
扉よりも大きな穴の中からは、呆然と立ち尽くすオペラと坊ちゃんの姿が見えた。
「ぼ、坊ちゃん!オペラ!」
弾かれるように駆け出して、2人に大きな怪我がないか目視する。舐めるように見つめ倒す。本当は触って確認したいところだけど、余計な怪我を負わせる可能性があったからだ。……2人は無傷、とは言い難い状態であるが爆発によっての怪我はなく、ようやく安堵した。
首領は「とっておきのサプライズが〜〜〜!」と喚きながらも、2人の無事を確かめるように彼らを抱き寄せた。
バビルでは、新しく家族を迎えた時必ず何かしらの形で歓迎をしてくれる。私の時もそうだった。あの時は、「美味しいワインを飲んだことがない」とぼやいていた私の言葉を覚えてくれていた首領がワインパーティーを開いてくれたっけ。
坊ちゃんはやっと肩の力が抜けたようだったけれど、オペラの表情は暗いままだ。固く構えられた警戒の壁はそう簡単に崩れそうにない。
オペラは坊ちゃんの護衛になる、という形で起こした騒動にピリオドを打つことになった。
最初は納得せず、嫌がっていたが、首領と“お話”の末、スラム生活よりは幾分かマシ、とオペラは判断して、坊ちゃんの護衛を承諾した。
マフィアは落とし前や誠意に厳しい。オペラが承諾してくれて、本当に良かった……!
まだ遠慮がちな坊ちゃんをオペラは席に座らせて、二人で並んで腰を下ろした。不満そうなオペラに、不安そうな坊ちゃんだったけれど、ご馳走を前にすると、目を輝かせて、年相応の幼い子供の表情を見せた。
無我夢中に食事へ手を伸ばす姿を見て、鼻の奥がツンと痛んだ。これは同情ではない、初めて彼らの等身大の姿を見ることができた喜びからだった。
「うっ! 私こういうのダメ」
天井を仰ぎながら涙をこらえていると、上背の大きな首領がにゅっと視界に入り込んでくる。
「ふふっ、ナマエは今日から“先輩”だからね」
「!」
「ナマエは護衛の先輩として、オペラに色々教えてあげてね〜っ!」
「は、はい!」
せんぱい、センパイ、ナマエ先輩……!
先輩という言葉に心が弾み、私の心は完全に浮かれていた。空気がパンパンに詰められた風船のように、飛んでいきそうだった。
バビルに属して1年弱の私は、オペラが初めての後輩なのだ。
口いっぱいに食事を詰め込んでむせているオペラの元へ歩み寄り、そっと水の入ったグラスを差し出した。オペラはそれを無言でひったくると、一気に飲み干す。いい飲みっぷりだ。
「私ナマエ。よろしくね、オペラ!」
「……」
「さっき、足を力いっぱい掴んじゃってごめん!後で骨見てもらおうね」
今度こそ膝を着き、オペラの足首を覗き込む。白い肌に薄らと痣が浮かんでおり、冷や汗が背筋を伝う。
「こ、これ大丈夫!?骨無事!?」
「別に、痣なんか身体中どこでもある」
「じゃあ身体中見てもらおうね! いっぱい食べたら医務室!」
オペラはフォローのつもりもなければ、事実をそのまま口にしただけなんだろう。でもそれが、痛みや怪我が当たり前なことが苦しくて、チクチクと胸を刺した。
坊ちゃんも、オペラも、早くここが2人にとって居心地のよい場所になるといいな。私と同じように。そう思った。