私の生活から一人の男が消えた。
たった一人。けれどそれは私にとって全てだった。
医者を辞めた彼は私から見て何か仕事をしている感じにはとれなかったが、どうして医者を辞めたのか、今は何をやっているか等といった話を何の気なしに聞ける程の仲ではなかった。
チョコラータ。電話番号。彼の家。
それが私の知っている事であり、私の人生全てだ。
普段は気を使って自分からはかけない電話も、今回ばかりは我慢が出来ずにかけてみた。一回かけてしまえば迷惑なんてものはもう気にならず、時間があればチョコラータの番号に何度もかけてしまう始末。それも2ヶ月後にはコールすら無くなって使われていない電話番号へとなった。家にも行った。合い鍵なんてものは持ってなく、窓から覗いた部屋は使われていない独特の冷たさが漂っていた。
私は絶望した。電話に出ないのは私との縁を切ったから。そうであれば怒り狂ってチョコラータの家にでも行って怒鳴りつけるなり泣き喚いて次の人を探すことも出来た。私が今一番嫌なのは何処かで事故にでも遭っている事だ。
チョコラータが姿を消してからは私はつまらないと観ていなかったニュースに無意識にチャンネルを合わせるようになった。パソコンでチョコラータの名前で検索を掛けたり、過去の事故やチョコラータの病院にチョコラータについて話を聞きに行ったりもした。
けれども病院側はチョコラータの名前を出すと誰もが眉を潜め口を閉ざした。「あなたも彼の被害者ですか」と訳の分からない事を言う人もいた。
頻繁にかけていた電話は2ヶ月後には留守録の再生ボタンを押すだけになった。手掛かりが何も出ず、心が折れる私にチョコラータは同じ要件を私に簡潔に伝える。それが私の心をより揺さぶった。
そんな私に安らぎの時間を与えてくれたのが麻薬だった。少し前まではもっと派手に出回ってたそれは今では随分と減退したが、ネットで少し調べればまだまだ気軽に手に入った。麻薬を摂取すればふわふわした好い気持ちになるし、チョコラータとの楽しい日々が頭の中をぐるぐる回る。いきづまった私には最高の瞬間であり歓びだった。
お金を持って目当てのものを受け取る。何だか不安な気持ちで一杯で、私は我慢できず暫く歩いた公園で体に注射器の針を打ち込んで家へと向かう。
足元が覚束ない。家はどこだったけ。
最近は記憶の中のチョコラータの輪郭も酷く曖昧でぼんやりしている。それが怖くて私は何度も何度もまたこうやっていけない事を繰り返す。
───名前 私だ。
再生ボタンを押し、目を瞑ってチョコラータを偲ぶ。そうすればチョコラータがすぐ側にいる感覚に陥れるからだ。
そうして次に私はこれから彼が言う言葉を反芻する。
今日のディナーは無しだ。
───今日のディナーは無しだ。
だから家にも寄らなくていい。
───だから家にも寄らなくていい。
ここで一件目が終わった。自動的に留守録は二件目へ入った。
チョコラータの出だしは決まっている。
───名前 私だ。
「一体何をしてる?早く来い。」
私の知らないチョコラータの言葉が聞こえて心臓が凍りついた。思わず目を開くとゆらゆらとチョコラータが見えた。
チョコラータの名前を叫んで、迷子が母親を見つけた時の様に私は目の前のチョコラータだけを見つめて走った。思考を放棄し、全てを投げ打った。
「なあんだ、そこに居たの。もっと早く来てよね。」
チョコラータは私の文句を受け止め、私を抱きしめ撫でてくれた。
「良お〜〜〜しよしよし!!ずっと私を探していたのか?偉いぞ名前!」
「ふっ……ふふふッ、あはははは!!好き!大好き!!!」
冬の運河は優しく私を包む。そうして明日を捨て、私は私の人生を取り戻すのだ。
この上なく幸せだ。それが愚かな答えだったのだとしても。
END
20180321