セイレーンの喘ぎに
スカラ座パルコ2階の最前席。そこへ座ると後ろのイタリア人は開演前の暇潰しとして日本人の私をネタにしだした。
「ジャップが私達より良い席に座ってるわ」
「観光かな」
悪意のない一時の会話を尻目に私は次第に騒がしくなる舞台へ目をやる。見るのにやや窮屈に感じるが十分楽しめそうだと、また座り直して姿勢を正す。
正直に言うと初めてのオペラ鑑賞に、私は多少なりとも緊張していた。
程なくしてオーケストラと役者が揃うと客席は暗転し、前振りも無しに劇が始まる。演目は椿姫だ。
豪華なセット、華美な衣装とそれに見合う役者。その中でも主役のジゼラは一段と華々しかった。
30代後半である筈の彼女には老いや疲れなんてものは似つかわしくない程、少女の様な明るさと美しさがあった。役柄の娼婦なんて似合わないが、暗さが見えないからこそ華やかさだけが際立って、女を振りまく彼女に私は心を奪われた。彼女目当てのこの大勢の客もそうであろう。
椿姫は悲劇の話だ。貴族の青年が高級娼婦のヴィオレッタに恋をし、2人は結婚をするが彼の留守の間に父親に反対された彼女は別のパトロンを好きになったと嘘を吐き、彼と離別する。
最終的に誤解は解かれ、父親は交際を許すが既に彼女は持病が悪化した。男に自分の肖像を託し、良い人が現れ貴方に恋をしたときにこれを渡して欲しいと頼み、主人公は息を引き取る。
舞台の役者は癖のある言い回しで台詞を歌う。真剣に観れば観るほど私はこれを俯瞰して、心と思考がこのスカラ座から離れていくのを感じていた。
物語の終盤の病に伏すヴィオレッタが父親の手紙を読み始めたところで、私の隣から衣擦れと椅子に体重を預ける音がした。私はハッとして横を見ると、音の主はその座席の予約者であるチョコラータだった。
上演中の今、配慮のない着席にチョコラータのもう一方の隣に座っている客が顔をしかめるの見えたが、彼のパルコ席には似つかわしくない、奇抜な服装を見て苦々しそうに客はチョコラータから目を逸らした。
「セッコからだ。準備ができたってよ。」
「そう。」
舞台では相変わらずジゼラが淡々と手紙を読んでいた。
「オペラは────」
チョコラータが口を開いた。
私はまた彼に顔を向ける。
「オペラは何がいいのかさっぱり分からないな。言い回しや歌い方、台詞も全て不自然だ。」
退屈そうに言うチョコラータの感想には概ね同意出来たので私は無言の肯定を示す。そして私はチョコラータに疑問をぶつけた。
「彼女とはどういった関係なの?別に答えたくなければそれで良いけども。」
私は握っていたチケットとここに来てから貰ったフライヤーに視線を落とす。するとチョコラータが私の方へ体を寄せた。
「私の患者さ。」
「……風邪で貴方のところへかかった訳では無さそうね。」
「ああ……顔から身体から声すら、全てを整形してやったのだ。自殺未遂で虫の息だった女を気まぐれにな。そしたらあの女、数日後に姿をくらましやがった。」
驚いて顔を上げる。チョコラータは薄く唇の端を上げた。
「もう遅いのよ!」
舞台上でヴィオレッタは父親の今さらの許しに憤怒して嘆いた。
今までとは違う声色に、私の意識は再び舞台へと移った。
ジゼラの全ては作り物だというのか……?
だとしたら、それを知ってからのここにいる者は彼女の全てをどう評価するのだろうか。
輝かしい功績も、これまでの素晴らしい舞台後の言葉も偽りだと嘲られるのだろうか。
─────「不思議だわ、新しい力がわいてくるよう」
物語は過不足なく進む。
愛している男に自分の肖像を託し、弱々しくも美しくジゼラはヴィオレッタとして歌い上げる。
「さて、ツケは舞台の上でとってもらおうか。」
幕がゆっくりと降りてくると、他の観客より一拍早くチョコラータが立ち上がった。
「bravo!」
周りの視線がチョコラータに集まる。けれども直ぐに皆の気は舞台に戻された。……ジゼラの叫び声によって。
クワッと見開かれた目、戦慄く唇。あの完成された顔を歪ませて、怒りにも恐怖の叫びにも聞こえる声でなにかを叫んでいた。
─────この男の言う事は信用ならない。
私はひっそりとそんな事を思っていた。
ボスの親衛隊に所属するにあたって彼等には関わりのあった者を殺すようにとボスから指示を受けていた。
その中で彼女は、チョコラータが出したリストの中で最も異色で、殺すに値する関係があるのかずっと疑問だった。
患者だった?
気まぐれ?
どうして姿を眩ました?
ジゼラはさっきまで息絶えた演技をしていたのだ。つまり彼女は声だけでチョコラータだと気がつき、あの異常なまでの反応をみせている。
それがただの患者だけの関係で済んでたまるものか。
殺しの計画は全てチョコラータによるものだ。これに気付いてなおこの男の指示に従うのは癪に障るが、一瞬でも注目を浴びてしまった分早くこの場を立ち去りたいのも正直なところだった。
「スタンドの使用を許可します。」
それは猛獣を街中に離したような、最悪な気分だった。
周りの役者を押しのけ、舞台から捌けようとするジゼラの地面が、柔らかく沈んでゆく。
少なくとも私は、多くの目の肥えた観客を様々な方面で魅了させてきた彼女は本物だと思う。ならば足掻くのを辞めてそれを貫き通すべきなのかもしれない。
逃げるのを選択をするにはもう遅すぎた。
それならば、作られたジゼラを私達に託して、真実と共に心中すべきだ。それが、幸せなのだ。……たぶん。
騒然となる夜のスカラ座。
その中で私はそんな下らない事を俯瞰しながら考えていた。
to be continued....
20181030