「ふにゃパンダ…」

 ぽつり。小さな唇から零れた言葉は大量のビー玉と一緒に落ちていった。凪誠士郎は背後のジャックポットの派手な演出に一瞬気を取られたが、繋いだ手をぎゅっと握って「なに?」と身を屈めてやった。ビー玉がばらばらと滑り落ちる音で良く聞こえなかったのだ。
 ふにゃパンダ。もう一度言った苗字名前はこちらをちらりとも見ない。なんだと思ってその視線を辿ると、でろーんと溶けているだらしないパンダのぬいぐるみと目が合った。流行りのキャラクターなのだろうか、確かにふにゃパンダと書いてあった。

「なに?あれ欲しいの?」
「うん、かわいい」
「えー…」

 小さな手がするりと抜け出してクレーンゲームに吸い寄せられていく。凪は口をばってんにして、名前の肩に顎を乗せた。
 もとより凪は早く帰りたかった。今日はせっかく部活が休みなのだから。無論この寄り道を提案してきたのは彼女の方であった。いつも通り自分の家に直行するものだと思っていた凪は「えーめんどくさい」「家でゴロゴロしようよ」「天気悪いし」などとぶうたれて机に突っ伏したが、彼女が「じゃあ一人で行く」と珍しく口を尖らせるものだから渋々立ち上がるしかなかったのである。

「ねー絶対取れないよ。大きいし、重そうだし」
「えー…でも欲しいんだもん」
「そんなにかわいい?これ」
「うん。だって、」

 そこまで言って不自然に結ばれた口の端がにまにまと緩んでいる。凪はおもしろくなさそうに名前の顔を覗き込んだ。

「なに?」
「ううん、なんでもない」
「なんでもなくないだろこの口は」

 片手で頬をぶにゅっと掴むと名前は「んむー!やめてお財布落ちちゃう!」と嫌がって身を捩った。そうして顔を赤くしながら百円硬貨を探している。どうやら本気らしい。「確率機って知ってる?」「前にも言ったと思うけど」などと皮肉る凪の静止も虚しく、そのままコインは投入口へ。あ、と思う間も無くたちまち愉快なBGMが流れてくるので、凪は誰にともなく馬鹿にされた気分になった。ふにゃパンダは変わらずじっとこちらを見つめている。

「んーと、この辺かな…」
「もうちょい右じゃない」
「ええと、これでどうかな?」
「うん、でもまぁ確率機だから」
「もー!凪くんうるさい!」

 えいっ!と名前がボタンを押した時、凪は欠伸をしていた。名前の制服の匂いをすんと嗅いで、そのまま目を閉じる。早く帰りたい。名前と家でゴロゴロしたい。うーん、どうやって諦めさせようか。そんなことを考えていると、「あ!あ!うそ、凪くん見て!」と弾んだ声に呼び戻される。「んー」と擦った瞼を開くと、アームが大きなぬいぐるみをもったりと持ち上げていた。

「あ」

──ぽてっ
パンダが落ちた。









 二人が雨に打たれることになったのは、それから僅か数分後のことであった。

 ぽつり。小さな雫が頬を掠めて、同時に気付いた名前が先に「雨だ」と肩を窄めた。だから早く帰ろうと言ったのに。凪がそう口にしなかったのは、名前が申し訳なさそうにぬいぐるみを抱きしめていたからだった。凪は何も言わずに、俯く頭にブレザーをかけてやった。

 家に着く頃にはいよいよ土砂降りになっていた。逃げるようにドアを閉めると、ばらばらと打ちつけるような雨音が遠くから聞こえてくるようで、まるで別世界に閉じ込められたみたいだった。

「うぇーびちょびちょだ、名前大丈夫?」
「うん…あの、凪くん」
「あ、シャワー浴びてね風邪引いちゃう」
「え、あ、ちょっと…!」

 ほい、と適当に部屋着を引っ張り出して強引に浴室へ送り出したのは、半分自分の為でもあった。柔らかい肌に張り付く白いシャツは健全な男子高校生にとっては目の保養──否、目に毒であった。一人になった凪は、ふぅと小さな溜息を漏らした。無意識だった。



 シャワーを浴びた後、二人は互いにドライヤーで髪を乾かし合った。凪の白い髪がふわふわになったところで、名前が張り切って「この子も乾かしてあげなきゃ」とかわいくないぬいぐるみを膝の上に乗せるので、凪は「えー」とスマホを片手にベッドに転がった。ドライヤーの無機質な音が部屋に響く中、我関せずというようにゲームをするのだった。

「ねぇ凪くん」
「なに?」
「…今日、その…ごめんね」
「ほぇ?」
「私が寄り道したいって言ったから…」
「…」

 名前がドライヤーの電源を切ると、入れ替わるように雨音が聞こえてきた。凪はふわふわになったふにゃパンダを撫でる小さな手の頼りなさをぼんやりと見ていた。手元のスマホにはいつの間にかゲームオーバーと表示されていた。「名前」凪は体を起こして、ふにゃパンダを抱きしめて小さくなっている彼女のすぐ隣に座った。

「楽しかった?」
「え?」
「今日、楽しかった?」
「え、う、うん…」
「うん、ならいいよ」
「凪くん…」

 しょんぼり項垂れる頭を撫でてやると、名前は綻ぶように小さく微笑んだ。それがあんまり切ないので、凪は捨てられた子犬を拾ってきたような気分になった。びしょ濡れの子犬。いじけたり、はしゃいだり、落ち込んだり、照れたり、めんどくさい女の子。でもそれがどうしてか、堪らなく愛おしい。そう思うより先に凪の腕は自然と彼女を引き寄せていた。名前はというと狼狽えておろおろしたり、頬を赤らめてぱちぱちと瞬きしたり、とまた表情がころころ変わっている。凪は柄にも無く、ぷっと吹き出しそうになった。

「ねぇこれ邪魔」
「あっ…ふにゃパンダ」
「そんなにかわいい?これ」
「うん。だって、」

 また口の端がにまにましていた。凪はむっとしてふにゃパンダをベッドの上に放った。

「俺に似てるって言いたいんでしょ」
「え?!なんでわかったの?」
「顔に書いてある」

 ぶにゅっと頬を掴む。「んむー!」と悶える情けない唇にキスをする。面食らって固まる彼女をもう一度抱きしめる。ぐりぐりと押し付けるように顔を首筋に埋めると、自分と同じ石鹸の匂いと貸してやった部屋着の匂いと、その中に混ざる微かな名前の匂いを見つけた。ふぅと小さく漏らした自分の息の熱さに驚く。でもあと少し、と腕に力を込める。そうしているうちに、凪はあることに気付く。刹那、弾かれるように名前から距離をとる。それからまるで銃口を向けられている人のように両手を挙げる。凪の突然の降参ポーズはたちまち名前の目を丸くさせた。

「え…?な、なにか…?」
「……名前、下着つけてないの?」
「ええと、うん…?濡れちゃったから…」

 は?どういうつもりなの?
 凪の心の声はそのまま彼の口からするりと滑らかに名前に銃口を突きつけた。なんだか眉間がひやりとする気がして、名前は彼と同じように両手を挙げた。

「え、な、なに?ごめんなさい…?」
「…」

 凪は名前の無防備な姿を視界に入れないように彼女の後ろの壁を見つめていた。いつもの白い壁。あ、あんなところに傷なんてあったんだ。めくれてる。白、白、ひたすら白。不意にさらりと名前の髪が揺れる。あ、怯えてる。揺れる瞳、火照った頬、同じ石鹸の匂い、ぶかぶかの部屋着、の胸元が少し膨らんでいて…。ああ、だめだ。

「いや、どう考えても名前が悪いよね」
「えぇ?!なになに?!どういうこと?!」

 名前はずっと降参のポーズをしている。凪は考えるのをやめた。ゆらりと近付くと彼女の肩がビクッと跳ねたが、逃げる様子はない。震える小さな手を掴む。「凪くんどうしたの、ねぇ凪くん」混乱した名前がクンクンと鳴いているので、その唇を塞ぐようにキスをする。

「ん、ぅ…」

 くぐもった声と吐息の向こうで、窓ガラスに打ちつける雨がばらばらと滑り落ちていった。まるでビー玉みたいだ、と。そう思ったのは何故だろう。

 ふわふわのふにゃパンダが溶けていく二人をじっと見つめている。きっと彼だけがその答えを知っているのだろう。


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