※ネームレス


「よし、みんな席に着いたな。しばらくこの席でいくから、明日から間違えないように」

 席替えという一大イベントを終えた時、私はスクールバッグにぶら下げた小さなマスコットを訳もなくむにむにと揉んでいた──否、気を揉んでいた。
 左側から押し寄せる禍々しい重圧。ごくりと唾を飲み込む音でさえ、決して彼の耳に届いてはならない。そんな緊張感が漂っていた。

 隣の席に座っている彼──糸師凛くんは、良くも悪くも有名人だ。
 容姿端麗、美少年。おまけにサッカーが全国レベルに上手いらしくまさに才色兼備なのだけれど、しかしそれら全てを無下にするかのように、とにかく彼は無愛想で、口も悪けりゃ態度も悪い。"糸師凛には近づくな"。それはこのクラスにおいて既に共通認識となっている。
 けれど私は、"席替え"という抗えないイベントのせいで、元凶の彼と物理的に近づいてしまうことになる。ああ神様。いや、神様なんていないのだ。

「ほら、隣の人と挨拶しとけよー」

 人の気も知らず担任が催促すると、生徒達は各々照れ臭そうに挨拶を交わし始めたが、私たちの間には依然として気まずい沈黙が流れていた。
 ちらりと横目で糸師くんを見る。つんと尖った鼻先が、「凡人のお前らに興味はない」と物語っているようだった。
 仲良くなることは難しいだろう。それでも平穏な学校生活を送るために、間違っても嫌われるようなことがあってはならない。そのためにも、第一印象は重要なのである。
 私はお気に入りのマスコット──ちびかわのぬいぐるみを両手でぎゅっと握りしめた。お願い、ちびかわ。私に力を貸して。

「よ、よろしくね。糸師くん」

 控えめに声をかけると、ちらりと一瞥するターコイズブルー。その凍てつくような眼差しに、精一杯の笑顔がギチギチと音を立てた。

「……ふん」

 思わずちびりそうになり、「ひぇ…」と声が漏れる。なんだってそんな、端から喧嘩腰なのさ。私はぶるぶると震える手で、ちびかわをきゅっと抱きしめた。







 あれから1ヶ月が経った。私と糸師くんは相変わらずで、言わずもがな、会話らしい会話なんてしたことがない。
 ちびかわの消しゴムを糸師くんの足元に落としてしまった時も、糸師くんはチッと舌打ちをして、「早く拾え」と言わんばかりに椅子を引くだけだった。「ご、ごめん…」と膝をつけて消しゴムを拾う私とそれを見下ろす糸師くんは、まるで奴隷と王様のようだった。
 授業中に居眠りしてしまった私を起こすよう教師に言われた時だって、糸師くんはちびかわのブランケットに包まってすやすや眠る私の椅子をその御御足で蹴り上げた。
 英語の授業で行われたロールプレイでは、捲し立てる流暢な英語でカタコトの私を置いてきぼりにした。縮こまる私をフンと鼻で笑って、糸師くんは確かに「タコ」とはっきり言ったのだ。

 こんなことがあるたびに、私は泣きそうになるのをぐっと堪えて、ちびかわをぎゅっと抱きしめていた。
 そして願った。早く席替えが行われますように、と。





「おい」

 だからまさか糸師くんの方から話しかけてくるなんて、予想外だった。
 大人しく自分の席に座っていた私はびっくりして、「はい…?」とビビりながら目の前に立ちはだかる糸師くんを見上げた。

「これ、お前のだろ」

 落ちてた。そう言って糸師くんが差し出したのは、ちびかわのマスコットキーホルダーだった。ち、ちびかわ…! と一瞬目を輝かせて、それからハッと我に返る。
 糸師くんはこれをどこで拾ったのだろう。いや、どちらにせよ──

「これ、私のじゃないよ……?」

 おずおずと首を振ると、糸師くんは「あ?」と青筋を浮かべた。

「え、えっと……ちびかわってほら、今すごく人気だから結構いろんな子がグッズ持ってて……」

 逆撫でしないように慌てて説明すると、糸師くんは押し黙ってその顔に影を落とした。

「あ、あの、でも、私がちびかわ好きなこと知ってて拾ってくれたんだね……ありがとう…?」

 ビクビクしながらそう言いつつ、私は改めて彼の行動に面喰らっていた。
 糸師くん、私がちびかわ好きなこと知ってたんだ…。私のだと思って、わざわざ拾って届けてくれたんだ…。糸師くんって、糸師くんって、本当は、

「や、優しいね…」

 ぴくりと糸師くんの眉が動く。あれ? 私いま、余計なこと言った…!?

「ああああのほら、糸師くんちびかわって知らない…!? 有名なんだよ、"小さくてかわいいやつ"って…!」

 不穏な空気に慌てて話を逸らす。怒らせてしまっただろうか。青ざめながら顔色を伺うと、糸師くんはやがてわなわなと震えてその顔を上げた。

「……お前、人の心が読めるのか?」
「へ…?」
「俺がお前のこと、"小さくてかわいいやつ"って、そう思ってるって、なんで知っていやがる…」

 糸師くんは信じられないといった顔で、悔しそうにカッと頬を赤くさせていた。
 めちゃくちゃなことを言って殺気立つ彼に、私は「え…!?」とひたすら戸惑って、もうちびってしまいそうだった。

「な、なんの話…!?」
「あ?」
「わたし、今、ちびかわの話、してるんだけど…」

 ぶるぶると震えて見上げると、糸師くんはぴしゃりと固まってしまった。お互い動揺して、固まって、しばらく見つめ合う。
 な、なんだ…? 何が起こった…? あれ…? 糸師くんさっき、かわいいって言った…? 私のこと…


「──チッ!」

 やがて大きな舌打ちをして、糸師くんは私にちびかわを投げつけた。「ぎゃっ!」と理不尽に受け取って、荒々しく席に座った糸師くんを呆然と見つめる。
 そして、ぱちくりと瞬きをする。ふてくされてそっぽを向いた糸師くんの耳が真っ赤に染まっている。えっと、これってつまり…。
 そうして考えているうちに、私もみるみる赤くなっていく。押し付けられたちびかわをぎゅっと抱きしめて、恐怖とときめきでドキドキと狂ってしまいそうな心臓をどうにか落ち着かせる。

 ねぇ糸師くん、それってサッカーで例えるとつまり、オウンゴール……ってコト!?

 なんて言ったらいよいよ殴られてしまいそうだし、私はただ、迷子になったちびかわをきゅっと抱きしめていた。


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