※性描写はありませんが、大人向けです
※未来if 謎軸
「……ゴムがない」
蘭世が気まずそうに空箱を振る。私はきょとんと目を丸くして、脱力していた裸を起き上げた。それからぱちりと視線が重なった彼のあまりの絶望感に、思わずぷっと吹き出してしまいそうになる。
私は時々、蘭世のしっぽが見えることがある。さっきまで私の上にまたがっていた蘭世のしっぽはぶんぶんと大きく左右に振れていたけれど、今はだらんと力無く垂れ下がっている。興奮して赤らんだ顔もみるみるうちに青ざめて、そうしてしょんぼりと項垂れている姿はまるで単純明快な子犬のようだった。
「口でしてあげよっか」
だから私は、ついつい甘やかしたくなる。誘惑的な提案に蘭世のしっぽはぴくりと僅かに反応したけれど、しかしまたすぐに萎えてしまった。
「嫌だ、嫌だ。一緒にイきたい」
「ふふ。なにそれ」
「名前の感じてる顔を見ながら、したい」
蘭世はそう言って、どうしようもない子どもみたいに私の胸にぐりぐりと顔を押し付けてくる。「変態」とからかってみても、「名前にそう言われるのなら、本望だ」と躱されてしまって、まるで効果がない。
「じゃあ、買いに行く?」
「……いいのか?」
「だって、じゃあ、どうするの?」
「……買いに行く」
現実的な提案に、蘭世は一瞬決まりが悪そうな顔を見せて、それからしぶしぶ立ち上がった。
「その、すまん。今度から気をつける」
「ううん。私の方こそ、気に掛けてなくてごめんね」
「いい、いい。名前がこの引き出しを開ける必要はない」
蘭世は恥ずかしそうに引き出しを閉めると、ベッドの下に散らばった下着を手渡して私のおでこにキスをした。
「好きだ、名前」
「…うん」
「好きで、好きで、堪らん」
「…もう、わかったってば」
蘭世の愛情表現は、いつだって直球ストレートだ。私はいつも恥ずかしくて適当にあしらってしまうけれど、実は私の方が、彼のことが好きなのだ。彼が抱く思いよりも、もっとずっと大きな気持ちを抱えている。そんな自負がある。
「コンビニ?」
「いや、いつものやつがいいから…」
「ドラッグストア?」
「だな」
「じゃあ早く行こう。閉まっちゃうよ」
「急げ、急げ。大至急」
蘭世のしっぽが左右に大きく揺れている。わかりやすくて、愛おしいと思う。真っ直ぐに人を愛する彼の姿勢が好きだ。それに、蘭世がコンドームを着けようとしなかったことなど、今までに一度だってない。そういう誠実さもまた、彼の魅力のひとつだよなあと思う。
「デート、デート。夜更かしデート」
浮かれた蘭世が私の手をとって、うきうきと瞳を輝かせている。
あれやこれやと語ってしまったけれど、結局つまるところ、男の人をかわいいと思ってしまったら、もう負けなのだ。これは女の宿命。圧倒的不利な運命。悔しいけれど、私は黒名蘭世を、それはそれはもう心の底から愛しているのだった。
◇
コンドームを用意し忘れるなどという、最高潮に盛り上がったムードを台無しにする失態にもヘソを曲げず、一緒に買いに行ってくれる彼女の優しさを、尊いと言わずに何と言おう。
「近道しよっか」
新しい悪戯を思いついた子どものような顔で
笑う名前に「冒険、冒険」と賛成して、俺たちは夜の公園の門をくぐった。
俺は時々、名前のしっぽが見えることがある。ベッドの上で誘惑するようにくねくねと動いていたはずのしっぽは今、ふりふりと好奇心に揺れている。大人びていた表情も今ではすっかり無邪気な少女のようで、まるで猫のような気まぐれに、俺は何度も惹かれてしまう。
「ちょっと冷えるね」
季節は移ろいで、心地よい涼風が名前の髪をさらっていく。のぼせるような熱はすっかり冷めてしまったというのに、しかし嗅ぎ慣れたはずのシャンプーの香りにじんわりと胸が熱くなるから、ああ、俺は心底名前に惚れているのだと思い知らされる。風が吹き抜けるたびにはっきりと浮き彫りになる感情こそ、まさしく本物なのだろう。
「蘭世、どうしたの? ぼーっとして」
「ああいや、悪い悪い。見惚れてた」
「……からかってるの?」
さっきまで一糸纏わぬ姿で乱れていた彼女がつんと澄まし顔で隣を歩いていることに、俺はどうしようもないもどかしさを覚えていた。ついつい触れたくなる男の衝動を抑えなくては。外でスキンシップをはかろうとすると、「もう!」ともれなく照れ隠しの猫パンチが飛んでくることを俺は知っている。それはそれで、かわいらしいのだが。
「けっこういろんな種類があるんだね」
閉店間際のドラッグストアで、名前はまるでサッカーのスパイクを一緒に買いに行った時のような目で陳列棚を眺めていた。興味があるようでないような、どこか別の世界を覗いているような、そんな眼差し。だから俺はまたドキドキして、いつも自分が見ている世界を彼女と共有したくなってしまう。
「名前はどれがいい?」
「え、全然わかんないよ……あ、これはいつも蘭世が使ってるやつ?」
「ああ。正解、正解」
「これが一番人気なの?」
「まあ、割とそうかもしれん」
「へぇー……」
なんともいえない顔をしている名前を横目に、見慣れたパッケージを手に取る。はやる気持ちを抑えて「帰ろう」と声をかけようとすると、もじもじと何か言いたげな指先が目に入った。
「どうした?」
「あ、あの……友達から聞いたことがあって」
「ん?」
「……その、あったかくなるやつ……とかがあるって」
一瞬の沈黙。半分理解しかけたところでようやく「え」と声が漏れる。それからすぐに、俺の背後でチュドーン!と火山が噴火した──というのは比喩で、つまりそれほどの衝撃を受けた。
「買おう、買おう…!」
「え、でも…」
名前の気が変わらないうちに、それらしい箱を追加で手に取る。顔を真っ赤にして小さくなっている彼女を今すぐに掻き抱きたくなる衝動を抑えてレジに向かうと、「あ」と思い出したかのように袖を引かれた。
「ねぇ、ちょっとお腹空かない?」
悪い顔をしてニヤリと笑った名前が、カップラーメンの山を差す。俺は彼女の切り替えの早さと思いがけない提案に一瞬面食らって、それから確かにと納得した。
「ノッた、ノッた」
「そうこなくっちゃ!」
夜のドラッグストアはなんでも揃いすぎている。ピンとしっぽを立てて隣の棚に消えていった名前を見送ると、俺は買い物カゴを取ってひとまずその中にコンドームを放り込んだ。
◇
「らんぜ……」
ソファの上でむにゃむにゃと微睡む彼女に気づくと、蘭世は肩をすくめてつけっぱなしのテレビを切った。テーブルの上にはカップラーメンのスープと、一口ずつ余ったビールと、期間限定につられて買ったお菓子が食べ残されている。続きが気になるからとこのドラマを見始めたのは確か名前の方だった気がするのだが。蘭世はやれやれと息をついて、ベッドから毛布を引っ張り出した。
「好き……」
真夜中の静寂に、ぽつりとこぼれた小さな告白。毛布をかけようとした手が一瞬止まり、それから優しく包み込んだ。
結局使われることのなかったコンドームは冷たい床の上に放置されたビニール袋の中に入っている。別に、忘れていたわけじゃない。だらだらと飲んだアルコールに流されてしまったわけでもない。ただ、こんな日も悪くないと思ったのだ。
蘭世はごろんと適当に横になると、いつもと同じ天井を見上げてうとうとと微睡みながら、しかしそれでも確信していた。
──俺の方が好きだよ。
名前とずっと生きていたい。そう思った時から用意していたエンゲージリングが、あの引き出しの奥にひっそりと眠っていて、来月の記念日を待っている。
蘭世はすうすうと聞こえる穏やかな寝息に自分の呼吸を重ねて、それから彼女の喜ぶ顔を想像しながらゆっくりと目を閉じた。
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