※ネームレス
「いらっしゃいませー」
思ったよりも冷たい声だったので、凪誠士郎は気づかれないようにちらりと店員の顔を盗み見た。商品のバーコードを読み取る手の甲や、ナチュラルメイクがよく似合う素朴なその容姿から察するに、歳も自分とさほど変わらないように見える。
(放課後コンビニでアルバイトなんてめんどくさそうだし、まあそんな態度にもなるよね。お疲れ様。)
そんなことを思いながらつんと伏せられた睫毛をぼんやり見つめていると、不意に視線が重なった。
「おにぎり温めますか?」
「んあ、だいじょーぶです……」
キッパリと無愛想な眼差しに射抜かれて、凪はばつが悪そうに目を逸らした。じろじろと観察していたことを見抜かれているような気がしたのだ。
「413円です」
レジ袋に手際良く詰められていく商品に急かされて、凪はもたもたと財布を開いた。小銭を出している途中、サッと片手でトレーを引かれて10円払い損ねてしまった。あ…と思ったが、面倒だったので何も言わなかった。受け取る予定のなかったおつりを受け取る。彼女の爪の先が手のひらを掠めて、ちくりと痛んだ。
「ありがとうございましたー」
素っ気ない挨拶を背に受けて自動ドアを抜けると、西日がやけに眩しかった。日差しの変化に季節の移ろいを感じながら、買ったばかりのレモンティーを一口。心地よい風が吹き抜けると、同時にどこからか飛んできた羽虫が耳の横を通り抜けていった。過ごしやすい季節の気配がする。しかしおにぎりは温めてもらえばよかった。凪はレジ袋の中を覗いて、少しだけ後悔した。
飛んで火に入る夏の
「キミさぁ…前から思ってたんだけど、ちょっと態度悪くない?」
コンビニのレジに並んでいると、前の客が難癖をつけ始めた。すぐ後ろに並んでゲームをしていた凪は、これはめんどくさいことになったと思わず顔をあげた。
「はあ、申し訳ございません」
「ほらそれだよそれ。もっと心込めて言えないの?」
苛立った客に顔色ひとつ変えず対応しているのは、例の店員だった。火に油を注ぐような態度に、ヒートアップしそうな予感。早く家に帰りたかった凪はうんざりして、もっと愛想良くすればいいのになどと、自分のことを棚に上げてそんなことを思っていた。
「お客様は神様だって、教わらなかった?」
ねちねちと続くクレームに、後ろに続いている列からもため息が漏れたが、しかし止める者はいなかった。凪を含め、誰も面倒事には首を突っ込みたくないのである。
「そうしたら、あなたは疫病神ですか?」
突然、とんでもない台詞が耳に飛び込んできたので、凪はずるっとスマホを落としそうになった。それは間違いなく、彼女の声だった。
「は、はあ…!?」
「お客様は神様だというのなら、あなたの後ろに並んでいるお客様も神様です。他の神様に迷惑になりますので、疫病神はどうぞお帰りください」
しん…と静まり返る店内。何も知らない客が入店すると、軽快な入店音が鳴り響いた。誰かがごくりと唾を飲んだ。
「お次でお待ちのお客様どうぞ」
不意な呼びかけに、凪は反射的に歩き出していた。普通に気まずい。そう思ってそろりと徐にレジに向かった凪だったが、茫然と立ち尽くしていたクレーマーは突然背後から現れた大男に圧倒されて、結果的にそれがトドメとなり逃げるように店から出て行った。
「お待たせしました」
店員は何事もなかったかのように商品のバーコードを読み取り始めた。凪は呆気に取られた。こんな女は今までに見たことがない。女子高生の見た目をしたロボットか何かかと疑うほどだった。気味が悪かった。自分に近い何かを感じた。
それからコンビニに行くたびに、凪は無意識にあの店員を探すようになった。それは興味本位の好奇心で、人間観察のつもりだった。しかしあれからめっきり彼女の姿を見かけない。凪はつまらないなと思いながら今日も愛想の良い店員の笑顔を見下ろしていた。
◇
ある日、なんだか無性にサイダーが飲みたくなった。お風呂上がり、時刻はすでに22時を回ろうとしていた。凪はめんどくさいなと思いながらも、やはりただの水では満足できずに財布を掴んだ。
少し肌寒くなった夜の風を受けながらコンビニへ向かう。すると、あの店員がいたのである。凪は意外な展開に胸を弾ませた。勤務時間が変わったのだろうか、兎にも角にもようやく会えた。凪は店の明かりに目を細めると、吸い込まれるように自動ドアをくぐった。
「いらっしゃいませ」
変わらぬ声に、凪は安堵した。店員はレジ周りを拭き掃除していた手を止め、凪をちらりと一瞥した。その仏頂面が崩れるのはいったいどんな時だろう。どうでもいいことを考えながら店内を歩く。どうやら他に客はいないようで、店員も彼女ひとりだけだった。目当ての炭酸飲料を探す。いくつか種類があって迷ったが、また突然飲みたくなった時のために数本手にとった。
「ぎゃっ!」
その時、突然悲鳴が聞こえた。しかし悲鳴というよりも踏み潰された蛙のような音だったので、凪は一瞬(ん?)と首を傾げて、特に気にせずついでの菓子パンを買い物カゴへ放り込んだ。レジへ向かうとカウンター内で硬直している店員と目が合った。強張らせた顔でこちらとレジを交互に見やっている。
(なんだ…?)
なかなかレジの前に移動しようとしない店員を怪訝に思っていると、「あの」と気まずそうにその唇が開いた。
「カメムシが…」
「カメムシ?」
それきり黙った店員が遠目からじっとレジを見つめているのでなんだと覗き込んでみると、どうやらどこからか飛んできたカメムシがレジのボタンの上にとまってしまっているようだった。なるほど。納得した途端、店員はすがるようにこちらに詰め寄ってきた。
「とって、もらえませんか」
「んえ?」
「わたし、苦手なんです」
腕をさすりながらふるふると首を振る店員を見て、凪はしばらく思案した。陰湿なクレーマーにも動じなかった彼女がこんなちっぽけな虫に目を白黒させていることが意外で少し愉快だった。
「やだ。臭いし」
「えっ…!」
「そっちのレジ使えば?」
「さっき点検したばかりで……もうすぐ店長が来るんですけど、でも……」
断られると思っていなかったのか、彼女はそわそわと目を泳がせた。案外人間らしいところがあるのだなと、凪は呑気に感心していた。
「じゃあ…!」
店員が慌ててカウンター内を漁り出す。傍観していると、割り箸とガムテープを取り出して何やら工作し始めた。
「こ、これで…!」
「えぇー…」
「お願いします!」
「めんどくさいんだけど…」
ついにカウンターから飛び出した店員は頼りない道具を押し付けて凪を盾にしたが、それでもなかなか捕まえてくれない様子にしぶしぶ顔色を伺った。
「もしかして、あなたも苦手なの?」
「うん、やだよ普通に。キモいし」
「えぇ……その見てくれで…?」
「俺一応客なんだけど」
クレーマーと似たり寄ったりなことを言ってしまったが、彼女もなかなか失礼な発言をしているのでお互い様である。
「ああもう…!早くしないと見失っちゃう!」「痛い」
「お願いします、早く!」
「痛い」
やいのやいのと攻防を続けていると、突然カメムシが羽を広げた。「あ」と声を揃えて固まっていると、タイミングよく自動ドアが開いた。カメムシは吸い込まれるようにして外へ飛んでいってしまった。入れ違いで入店してきた客が変な物を見るような目で二人を見ている。
「……」
「……」
「……お待たせしました」
店員は何事もなかったかのようにレジに戻った。それから何事もなかったかのように凪の買い物カゴを受け取ったが、商品のバーコードを読み取る手が震え出し、やがて堪えきれずにふっと吹き出した。
「ごめんなさい」
くすくすと肩を震わせながら笑う彼女を見て、何かがストンと腑に落ちた。そして錯嗅がした。羽虫の羽が燃えて焦げるような匂いだった。これは先刻のカメムシの置き土産なのだろうか。
「珍しいですね、あなたがこういう飲み物買うなんて」
「君も、こんな時間に働いてるんだね」
店員は目尻に浮かんだ涙を拭った。凪はその指先から目が離せなかった。
「わたし、辞めるんですよ。今月いっぱいで」
ほら、例のクレーマーの件で。店員は何がおかしいのか未だにくすくすと笑っている。凪は「あー…」と何もない天井を見上げて憂鬱な気分になっていた。彼女に会えなくなる。ただそれだけのことで、初めて女性に連絡先を聞こうとしている自分がいることに戸惑いを隠しきれない。凪は背後に迫る他の客の気配を感じながら、急かされるようにスマホを取り出した。
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