「明日の試合、勝ったら……キスしていいすか」

 それは、潔くんと付き合って一ヶ月が経った頃のことだった。少し遠回りする帰り道や、校舎が見えなくなってから繋ぐ手の温もりにもようやく慣れてきた頃だったから、そろそろなのかなって心の準備はしていたつもりだった。けれど、まさかこんなふうに宣言されるなんて予想外で、私は勇気を振り絞って言ってくれた潔くんの赤く染まった頬と同じように自分の頬を染めるだけで、すぐに返事をしてあげることができなかった。

「……あのー、苗字さん?」
「え、えっと……」
「……だめ?」
「……だめじゃ、ないです」

 ぎこちなく頷くと、潔くんは照れ隠しに「っしゃ」と意気込んで、それから再び歩き始めた。なんとなく潔くんの顔を見れなくなった私は、彼の後ろを歩きながらふわふわと落ち着かない気持ちで、そのままふわふわと宙に浮いてしまいそうになっていた。



ファースト・キス



 そもそも、キスをするのに許可や条件なんて必要なのだろうか。私は帰宅するなり制服のままベッドに寝転んで、昔読んでいた少女漫画をぱらぱらとめくった。そして、そこに描かれた男女が許可も条件もなく自然と唇を重ねるその瞬間に、同じように目を閉じてみた。潔くんは、私の肩に手を置くのかな。それとも頬を包み込むようにするのかな。──そんなことを想像したら、ぼうっとふやけてしまいそうになって、私なにやってるんだろうって急に我に返って、ぼんっと火が出てしまいそうだった。
 もしも私が「だめ」って言ったら、潔くんはどうしたのだろう? 明日の試合に負けてしまったら、どうするのだろう? 本当は許可も条件もいらないはずなのに、そうしたのはきっと、潔くんが優しいからだ。心の準備ができるように、時間をくれた。決定権をくれた。そして"試合に勝つ"、そんな条件を課すなんて、まるでそうでもしないといけないみたいな、高貴なものに触れるような、そんなふうに扱ってくれる潔くんの誠実さが伝わってくるから、私は恥ずかしいけれども嬉しくて、ちょっぴりもどかしい気持ちになっていた。

 ねぇ潔くん、明日の試合、絶対に勝ってね。







 ──"強豪一難、決勝進出!"

 3分前に更新されたネットニュースの見出し。私はその記事を、バイト先のトイレの個室で何度も読み返していた。

「本当に勝っちゃったんだ……」

 思わず声に出してから、"勝っちゃった"なんて言い方はよくなかったと慌てて口をつぐむ。もちろん一難高校のサッカー部は本当に強いし、そんな中レギュラーでFWを務める潔くんも本当に強いのだけれど、まさか彼だけで2点も取ってしまうなんて。あまりに清々しくて、私はそのまましばらく呆気にとられてしまった。



──"勝った!"

 バイト終わりにスマホを開くと潔くんからメッセージが届いていて、ドキッと心臓が跳ねる。いつも通りの簡潔な内容に、いつも通りのピースサイン。私は内心どぎまぎしながらも平常心を装って、"おめでとう!"といつも通りのスタンプを送った。
 最後まで、昨日の約束に触れることはなかった。それが逆に意識しすぎてしまっているような気がして、なんら変哲もない会話もよそよそしく感じた。
 "おやすみ"。スタンプを送って電源を切る。そこで初めて自分の頬がじんわりと熱を持っていることに気がついた。潔くんは今、どんな表情をしているのだろう。目を閉じて、昨日の後ろ姿を思い出す。潔くんの耳、赤かったな。







「帰ろっか」

 放課後、潔くんはいつも通りに私を誘ってくれた。うん、と頷いた声が少し上擦って、慌てて咳払いなんかをしてみる。帰り道、横目で見る潔くんは爽やかで、私は余計に落ち着いていられない。
 英語の小テストやった? 難しかったね。なんて、どうでもいい会話の合間に何度も目が合って、そのたびにうっかり潔くんの唇に視線が移りそうになるのを必死に誤魔化して、私はちゃんと、いつも通りにできているだろうか。

「潔くん、明日から部活?」
「あ、うん。また遅くなるかも…」
「そっか……」

 大会期間中は、なかなか一緒に帰れない。潔くんは部活をしているし、私はアルバイトをしている。クラスも違うから、こうやってゆっくり話せる時間は貴重だった。だから私達はよく、帰宅途中にある土手に座って二人の時間を延長する。今日もそうして大切な時間を過ごしていた。

「頑張ってね、応援してる」
「ありがとう」

 淡い夕焼け空に、飛行機雲が名残惜しく線を引いていく。そのうち沈黙が流れて、お互いになんとなく、そろそろ帰らなきゃいけないことを感じ取っていた。

「……帰る?」
「……うん」

 立ち上がった潔くんを見上げて、私もそれに倣った。ちょっぴり拍子抜けした気持ちを整えるように、スカートについた芝を払う。キス、しないのかな。もしかしたら期待しているのは、私だけなのかな。そんなことを考えていると、突然手を掴まれた。

「──えっと、苗字さん」
「は、はい」
「ごめん……俺、今日ずっと、めちゃめちゃタイミング窺ってたんだけど」
「……うん」
「すっげぇ緊張して、言い出せなくて、ごめん。でも今日しないと、もう一生できない気がするから」

 覚悟を決めたような眼差しと、真っ赤な頬が矛盾して、私の心臓を射抜いた。力が抜けて、立っていられなくて、その場にしゃがみ込む。潔くんも同じようにして視線を合わせてくれた。

「俺、勝ったよ」
「……うん」
「いいってことで、……いいすか?」
「……うん」

 小さく頷くと、ちらっと辺りを見渡してから、潔くんの顔がゆっくりと近づいてくる。あ、本当にしちゃうんだ。ぎゅっと目を閉じて、息を止める。心臓はもう破裂してしまいそうなほどに、ドキドキしていた。

「ちょっと、遠いんだけど……」
「ご、ごめん…っ」

 無意識に引いてしまっていた顎を持ち上げる。困ったように笑う潔くんの息遣いをすぐ近くに感じて、それからたぶんすぐに、唇が重なった。私の体温よりも少しだけひんやりしていてやわらかいものが、一瞬だけ触れて、すぐに離れた。

「……」
「……」

 ゆるりと瞼を開けてみる。ばっちり目が合って、慌てて下を向く。掴まれたままの手が離れると、吹き抜ける風がやけに冷たく感じた。潔くんの手が、熱かったんだと思う。

「……帰ろっか」
「……うん」

 どんな顔をして、どんな話をしたらいいのだろう。私達は二人だけの秘密を共有して、押し黙ったまま帰り道を歩いた。こんな調子で、これから私達はどんなキスを重ねていくのかな。ちらっと横目で潔くんを見てみる。赤くなった顔を覆うように、息を吐きながら、両手を温めている。わかりやすい照れ隠しについつい笑ってしまいそうになって、私の心はほぐれていった。

「……潔くんって、優しいよね」
「へ、なに…?」
「前もって聞いてくれたから。キスしてもいいかって」

 愛しい気持ちが溢れると、潔くん本人に潔くんのいいところを教えてあげたくなる。そんなことをしたらもっと照れてしまうかなと期待したけれど、潔くんは「あー…」と気まずそうに鼻を掻いて、それから視線を逸らした。

「……俺、苗字さんのことずっと好きで」
「うん……?」
「俺から告白したし、一緒に帰るのも俺から誘ったし、手を繋いだのも俺からだったから、なんか俺ばっかり好きなんじゃないかって、思っちゃって」
「そ、そんなことないよ…!」

 思わぬ本音に立ち止まり慌てて首を振ると、潔くんは安心したようにやわらかく笑って、それから真っ直ぐに私の瞳を捕らえた。

「だから、わざと聞いてみた」
「……え?」
「今日までずっと、俺のことで頭がいっぱいになるように」

 一瞬、潔くんの青い瞳に私の全てが映っているような気がした。けれど一度瞬きをしてみれば、そこにはまるでいたずらが成功した子どものように笑う潔くんがいて、私は初めて見る彼の無邪気な表情に見惚れてしまって、潔くんの思惑通りに、あの日からずっと潔くんのことで頭がいっぱいになってしまったこととか、いつも以上に試合の勝敗が気になってしまったこととか、全部が全部どうでもよくなった。

「なんてな、冗談」

 ははっ、と潔くんが笑う。潔くんの前髪がなびいて、ふわっと揺れる。風に運ばれて届く、好きな人の香り。優しい彼の、意地悪なところ。あてられた私はふわふわと落ち着かない気持ちになって、そのままふわふわと宙に浮いてしまいそうになっていた。



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