きっかけは、“玲王様”だった。
 なんでも白宝高校のプリンス御影玲王様がサッカーを始めたらしく、その噂は瞬く間に広まり私のところまでやってきた。

「あ、玲王様来たよ!」
「きゃー! めっちゃかっこいい!」

 校舎の窓から身を乗り出しているのは私の友人達で、いつもならこの時間はファミレスで勉強会(という名の女子会)をしているはずが、ここ数日はもっぱら“玲王様”である。

「ほら、名前も早く来なよー」
「うーん…」

 先月から成績が芳しくない私は大人しく自分の席に座ってノートを開いていたのだけれど、「玲王様のユニフォーム姿、めっちゃかっこいいよ!」という誘惑に負けてついに立ち上がった。どちらかといえば勉強会の方がありがたい。ただ、私も人並みにイケメンが好きなのである。

「わー、本当に玲王様だぁ…」
「よく見えるでしょ! 名前のクラス、穴場だわー」

 天は二物も三物も与えるのだなぁと思う。玲王様にボールが渡るたびに、黄色い声援が飛び交っていた。

「ん? あれって……」

 しばらく玲王様に見惚れていると、私はようやくクラスメイトの存在に気がついた。

「あー凪誠士郎? なんか最近すっごく仲良いみたいだよ」
「サッカー上手いんでしょー?」
「えー、意外」

 友人らの会話を耳に挟みながら、クラスメイトの凪くんに目を向ける。ずっと寝てるかゲームをしてるイメージしかなかったから、彼が汗を流している姿は新鮮だった。

「あーあ。玲王様、チョコ受け取ってくれないかなぁー」
「いやいや、相手にされないってー」

 玲王様の話題で持ちきりになっているギャラリーの中、私は一人、凪くんに目を奪われていた。
 玲王様がボールを運び、凪くんがコートを駆け上がる。そして玲王様から凪くんへボールが受け渡されるのと同じように、私の好意的な感情もまた、玲王様から凪くんへ移り変わってしまったのである。

「かっこいい……」
「ほらね、やっぱり見てよかったでしょ?」
「かっこいいかも……凪くん」
「……………マジ?」







 それから毎日彼を目で追うようになって、あれよあれよという間に恋に落ちた。
 今まで話したことがなかったから、とりあえずまずは挨拶からと思って「おはよう」とか「ばいばい」とか、私なりに勇気を振り絞って言ってみたりもしたけれど、凪くんは「誰?」とでも言いたげな表情で「あー…うん」と頷くだけだった。
 もっとなにか、話しかけるきっかけがあれば……。しかし変わり者の彼と会話が続きそうな話題なんてちっとも思い浮かばない。いったいどうやってアプローチすれば良いのやら……。ため息を吐いてぱらぱらと手帳をめくる。そしてふと目に留まった“バレンタインデー”の文字に、私の目はきらりと輝いた。──これだ! うまくいけばイベントに乗じて一気に距離を縮めることができるかもしれない。これは、チャンスだ。
 思い立ったが吉日。私はだらんと席に座ってゲームをしている凪くんの元へ向かった。

「あのー…凪くん」
「んぇ?」
「チョコ、好き?」
「あー……まぁ」
「そっか……! うん、ありがとう!」

 はてなマークを浮かべる凪くんに背を向けて、早々に席に戻る。そして私はスマホでぽちぽちと調べ始めるのだった。“バレンタイン チョコ レシピ” 検索検索……。





 そしてやってきたバレンタインデー。本命の彼に自信を持って渡せるように、何度も練習を重ねて作り直しては指の絆創膏も増えていった。こんなに頑張ったんだ、きっと受け取ってくれるよね……?



---Take1

 昇降口、下駄箱の陰に身を潜めて、私は朝から凪くんを待っていた。ドキドキと高鳴る鼓動を抑えるように小さな紙袋をぎゅっと握りしめていると、ついに彼がやってきた。

「な、ななな凪くんおはよう!」
「……おはようございます?」
「これ…! バレンタインのチョコです…!」

 まるで献上するかのように両手で差し出すと、しばしの沈黙が流れて、それから「あー…」と微妙な反応が返ってきた。

「ごめん、そういうのめんどくさいんだよね」
「えぇ…!?」

 チョコを受け取るのにめんどくさいなんてことがあるか!? 男子なんてみんなチョコが欲しくてそわそわしているものだと思っていたから、まさかの受け取り拒否に私は唖然としてしまった。
 もしや好意そのものがめんどくさいとか…? いや、そんなの信じたくない。そうだ、凪くんはいつも隠密パンをしているから、お腹が空いた時に渡すのがベストなんだ! きっと、そうだ!

「で、出直します…!」

 大ダメージを避けるべく都合の良い解釈をした私は、そそくさとその場を立ち去った。



---Take2

 凪くんはいつもお昼前の授業中にこそこそとパンを食べている。きっとそろそろお腹を空かせる頃だろう。私は机の上に突っ伏している凪くんに近づいて、その身体を揺さぶった。(こうでもしないと彼はいつまで経っても起きない)

「あのー、凪くん」
「んー……」
「そろそろお腹空きません…? チョコ、どうですか…?」

 まるで怪しいものを売りつけるかのようにチョコレートをちらつかせてみると、無理矢理起こされた凪くんはとても不機嫌そうにこちらを見上げた。

「もー……だからめんどくさいってば」
「えぇ…!?」

 あんぐりと口を開けて固まっていると、彼は再び夢の世界へ戻っていった。
 凪くんは結局その後の授業中も爆睡していたので、きっとお腹が空いていなかったのだろう。もしかすると食後のデザートとしてなら受け取ってくれるかもしれない。私はまた都合の良い解釈をして、大人しくその時を待つことにした。



---Take3

 しまった。呑気に友達とお昼を食べていたら、いつの間にか凪くんを見失ってしまった。さっきまで自分の席で爆睡していたはずの凪くんが、忽然と姿を消したのだ。私はチョコレートを持って慌てて教室を飛び出した。

「どこに行っちゃったんだろう……」

 きょろきょろと探しながら廊下を歩いていると、他のクラスの前に人だかりができていた。

「きゃー! 玲王様ぁー!」

 黄色い声に、なるほどとすぐに納得した。ここは玲王様のクラスだ。かわいらしい紙袋を持った女子達が我先にとぞろぞろ押し寄せていた。さすが玲王様、レベルが違うな…と感心していると、向こう側にお目当ての人影が見えた。

「凪くん!」

 遠くからでもその肩がギクッと跳ねたのが見えた。私の声は届いているはずなのに、凪くんは「やべ」とでもいうように、すたこらさっさと逃げてしまう。

「あ、待って…!」

 慌てて追いかけようとしたけれど、凪くんは人混みの向こうに消えてしまった。このままだと本当に受け取ってもらえないかもしれない──そんな予感に焦りを覚えて立ち尽くしていると、ふと玲王様の声が耳に入ってきた。

「あーごめん! もう袋いっぱいだから、あとは放課後なー」

 爽やかにお断りしている玲王様の傍らには、チョコレートの山ができていた。──そうか! 私は気がついた。放課後に渡さないと、これは荷物になってしまうんだ! だから凪くんはめんどくさがっていた。きっとそうだ!
 こうして私はまたまた都合の良い解釈をして、最後の可能性に賭けるのだった。



---Take4

 放課後、HRが終わると凪くんはリュックを背負って足早に教室から出て行った。慌てて後を追いかける。もうチャンスはこれきりなのだ。

「──凪くん!」

 リュックを引っ張ると、凪くんは「ぐぇ…」と呻き声をあげた。

「凪くん、どうしても渡したいものがあるの……!」
「もー……しつこいなぁ」
「頑張って作ったからせめて一口だけでも……!」
「えー……」

 凪くんは観念したのかようやくチョコレートに視線を落とした。しばらく見つめて、困り果てたような顔をして、それから突然、私は核心に迫られる。

「あのさ、一応聞くけどこれって本命?」
「えっ……!?」

 あまりにも鋭い質問に、口から心臓が飛び出そうになる。ただチョコを渡したかっただけで告白するつもりなんてなかった私はひどく狼狽えて、「えっと、えっと……!」とまごまごしてしまい、見兼ねた凪くんが口を開いた。

「義理ならうんざりするほど貰ってるから、受け取ってもらえないと思うよ」

 後にも先にも引けず、緊張してぐわんぐわんと揺れる頭の中に、凪くんの言葉が不自然に響いた。──“受け取ってもらえないと思うよ”?──その言い方に少し引っ掛かりつつ、「じゃあ」と背を向けてしまった凪くんを、私はもうなにがなんでも引き止めるしかなかった。だって、これが最後のチャンスだから…!

「ま、待って!」
「えー」
「あの、あのね……!」

 ああもう。どうにでもなれ!
 私はギュッと目を閉じて、再びチョコを差し出した。

「本命です…! つまりあの、好きです……!」









 朝から嫌な予感がしていた。バレンタインなんて自分とは縁もゆかりもないイベントだったはずなのに、おそらく我が校で一番縁もゆかりもある人物と繋がってしまったがために、めんどくさいことになる予感がしていたのだ。

「これ…! バレンタインのチョコです…!」

 ほらやっぱり。クラスメイトの苗字さんが朝からチョコを持ってやってきた。俺は今日一日、いったい何回こんなやりとりをすればいいのだろう。そう思いながら断ると、苗字さんは涙目になりながら去っていった。そんなにショックを受けるなら最初から自分で渡せばいいのに。

「あのー、凪くん」
「そろそろお腹空きません…? チョコ、どうですか…?」
「凪くん、待って!」
「頑張って作ったからせめて一口だけでも……!」

 苗字さんはちっとも諦めてくれなかった。そのしつこさをそのまま本人にぶつければいいだけの話なのに、乙女心というやつなのだろうか、俺にはよくわからない。

「義理ならうんざりするほど貰ってるから、受け取ってもらえないと思うよ」

 そう告げたのは踏ん切りをつけてもらうためだったのだが、しかし苗字さんはそれでもなかなか諦めなかった。

「ま、待って……!」
「本命です…! つまりあの、好きです……!」

 しん、と静まり返る廊下。突き刺さる視線。何の関係もない俺が悪者みたいな空気。非常に居心地が悪かった。うん、だからさ。

「本人に直接渡せばいいじゃん」
「え、は……?」
「俺から渡さなくても、きっと受け取ってくれると思うよ、玲王」

 なんで俺、恋する乙女にアドバイスなんかしてんだろ。急にばかばかしくなって「じゃ」とひらひら手を振り背を向けると、その腕をガシッと掴まれた。

「ちょちょちょ、ちょっと待って……!」
「ぐぇっ」
「違う違う! 凪くん、何か勘違いしてる……!」
「んえー……もう、なに?」
「私が好きなのは、凪くんだよ! 凪くんが、好きなの……っ!」

 顔を真っ赤にして訴える苗字さんの瞳はキラキラと涙で潤んでいて、その表情はまさに恋する乙女そのものだった。

「え」

 俺はぴしゃりと固まって、今朝の──いや、なんならもう少し前からの苗字さんとの出来事を走馬灯のように思い出していた。
 おはようと挨拶してくれたこと。チョコは好きかと聞かれたこと。何度も差し出してくれた指先に、いくつも絆創膏が巻かれていたこと。いい加減な対応をする俺に対して、彼女は何度も何度も名前を呼んで、諦めずにチョコレートを渡そうとしてくれていたのだ。

「義理じゃなくて本命で、玲王くんじゃなくて凪くんのことが、好きなの……」

 苗字さんがついにぽろぽろと涙を流してしまう。……すっげぇ最低野郎じゃん、俺。

「うん、わかった。俺勘違いしてた、ごめん。あ、いや……ごめんってそういう意味じゃないんだけど、あー……」

 女の子を泣き止ませる術も知らない俺は、とりあえず震える指先から紙袋を受け取ることしかできなかった。

「……ありがとう、ございます」

 苗字さんは驚いて、ぱっと顔をあげた。目を丸くさせて、それからゆっくりと、花が咲くように綻んでいった。

「よかったぁ……」

 自分で振り回しておいてなんだが、泣いたり笑ったり天真爛漫で一生懸命な苗字さんはとてもかわいらしいと思う。俺は初めて貰った本命のバレンタインチョコレートよりも、今目の前にいる苗字さんの笑顔に、確かにときめいてしまっているのだった。

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