※大人軸
※モブ男視点



 彼女の名前を知ることができたのは、僕が区立図書館の司書だったからに他ならない。勇気を出して声をかけたわけでもなければ、もちろん彼女の方からそうしてきたわけでもない。つまるところ僕はただの意気地なしで、これはただの、悲しい恋の物語だ。


ヤマトナデシコ盗作事件


「貸し出しで、お願いします」

 彼女と初めて目が合った時、思わず僕は息を呑んだ。くっきりとした胡桃色の瞳。透明感のある清楚な顔立ち。流れ落ちたしなやかな髪を耳にかける仕草ひとつとっても、気品溢れて美しかった。
 一目惚れだった。止まった僕の手を見て、彼女は「あの」と不思議そうに首を傾げた。

「す、すみません」

 慌てて眼鏡を押し上げて、積まれた本のバーコードを読み取っていく。動揺を悟られないよう、確認のために一冊ずつパラパラと目を通す。と、本の隙間からはらりと何かが落ちた。僕がそれを拾うと、「あ、すみません……!」と今度は彼女が顔を赤らめた。

「それ、私のです」

 ──ヤマトナデシコだ。
 桃色の撫子を押し花にして、ラミネート加工された栞が、僕の手から彼女の手に渡る。指の先まで、綺麗だった。

「ありがとうございます」

 ヤマトナデシコが目の前にいる。彼女が微笑んだ時、僕はそんなふうに思っていた。
 これまで数えきれないほど読んできた物語の中に、幾度となく登場してきた“大和撫子のような女性”。文字だけで作られた空想上の女性が今、目の前にいるのだ、と。

「これ、カードです」

 差し出された図書館利用カードには、彼女の名前が書いてある。“苗字 名前”。その響きを噛み締める。存在している。ヤマトナデシコは存在していて、僕という人生の物語の中に、とうとう現れてしまったのだ。





 名前さんは決まって週に一度、図書館に訪れる。本を返却し、また二、三冊借りていく。だから僕は返却日が近づくとそわそわするようになった。
 別に何を話すわけでもない。僕は業務をこなすだけで、名前さんをひと目見るだけでよかった。名前さんが借りる本のタイトルを知ることが密かな幸せだった。それなのに。

 僕が欲深くなってしまったのは、ある男のせいだった。

 ある日、二階の閉架書庫を掃除していると、窓の外に名前さんが見えた。
 図書館の隣には体育館があって、併設されたグラウンドを囲むように桜の木が咲いていた。名前さんは本を抱えて、グラウンドに沿って脇道を歩いていた。
 あれはうちに返却する本だ。僕が気づいて、いそいそとカウンターに戻ろうとしたその時、ひゅうっと強い風が吹き抜けた。桜の花びらがひとひら書庫に入り込んで、慌てて窓を閉める。もう一度名前さんを確認すると、彼女の手元からはらりと何かが落ちた。
 ──栞だ。撫子の押し花の、あの栞だ。そうしているうちにまた強い風が吹いて、栞が遠くへ飛ばされる。僕は名前さんが「あっ」と慌てて追いかけるのを、どうすることもできずに見守っていた。
 その時、ふと、階段に座っている男が目についた。その男は体育館の鉄の扉の前で、気怠そうに背中を丸めてゲームをしていた。
 たまにバレーボールの練習か何かで使っていることは僕も知っていたので、その関係者だと思うのだけれど、どうにも格好がそれらしくない。だぼっとしたパジャマのようなパーカーに、長い髪はしばらく放置されているのか、脱色した毛先がキラキラと傷んでいた。
 妙な胸騒ぎがした。止まない春の風。もうすぐ満開になる桜が、僕に何かを訴えるように、その身をざわざわと揺らして囁いてくる。
 やがて、栞は男の足元へ舞い落ちた。まるで彼女を導くかのように。気がついた男が顔をあげる。息を切らした名前さんが男を見つめる。流れ落ちたしなやかな髪を耳にかける。男が栞を拾って、それから──。
 僕はその場を立ち去った。二人が出会ってしまったその瞬間を、とても見ていられなかった。


「返却で、お願いします」
 
 名前さんが本を差し出す。受け取った僕の脳裏には、先ほどのドラマティックな光景が蘇っていた。ひどい焦燥感に駆られていた。そして勢いに任せて、僕は口を開いた。

「──いいですよね、“レインツリーの街”」
「え?」

 名前さんはぽかんとしていた。しかし僕がもじもじと本のタイトルをなぞると、「あぁ…!」と声を弾ませた。

「ええ、よかったです。わたし、泣きながら読みました」
「先日借りてらした“朝のピクニック”も、僕の好きな本のひとつです」
「わたしも好きでした。読後感が爽やかで」
「でしたら同じ奥田先生の、“ネバーランド”なんかもおすすめです」
「わあ、さすが司書さん。お詳しいんですね」

 尊敬の眼差しを向けられて、僕は得意になった。夢を見ているようだった。名前さんと会話をしている!
 その出来事は自信に繋がった。そうだ。あんな男、名前さんには相応しくない。僕は引きこもりみたいな男の姿を思い出して、ほくそ笑んだ。
 きっと奴はこんな知識は持ち得ない。バレーボールだろうがゲームだろうが、なんだっていい。彼女は読書が好きなのだ。そしてそれは僕も同じで、僕はこうして彼女を喜ばせることができる。なんだ、こっちの方がよっぽどドラマティックじゃないか。



 僕は名前さんに栞を贈ろうと考えていた。あの撫子の栞はすっかり角が折れ曲がって、だいぶ使い込んでいるように見えた。
 彼女が大切に使っていた栞に倣って、撫子の花を買った。そうして分厚い本でこっそり押し花にしようとした、その時──なんとあの男が図書館にやってきた。僕はギョッとして、しかしなんとか平静を装った。

「カード、作りたいんだけど……」
「あ、ああ……はい」

 まさか、彼女に近づくつもりだろうか。疑念を抱きながら説明を終えると、男はカードに名前を書くや否や、館内に一瞥もくれず帰っていった。
 “孤爪研磨”。たぶん、僕は忘れないだろう。ちらりと見えた特徴的な名前も、喉に魚の骨がささったような、この不愉快な感覚も。
 名前さんは、僕のヤマトナデシコだ。僕の物語を、お前に奪われてたまるか。



 孤爪研磨と名前さんが偶然同じ日に図書館に訪れたのは、翌週のことだった。
 名前さんはいつもの場所に座って本を読んでいて、後からやってきた孤爪研磨は奥まった場所に座ってゲームをしているようだった。
 男の席からは館内を広く見渡すことができて、名前さんの姿はもちろんのこと、受付カウンターまでよく見える。
 彼女のことを目で追ってしまう癖がある僕は、油断しないように気をつけていたけれど、ついに名前さんに視線を向けてしまった。すると、その先で男と目が合った。ひゅっと息が詰まりそうになる。すぐに逸らされたものの、なんだか監視されているような気分だった。これでは完成した栞を渡すタイミングもなさそうだ。
 しかし、まるで責めるような目で僕を見るけれど、お前だって同類だろう。今までカードすら持っていなかった男が、名前さんをひと目見るためだけに、のこのこ図書館にやってきたのだから。


「貸し出しで、お願いします」

 しばらくすると名前さんが受付にやってきた。差し出された本を見て、僕は再びギョッとしてしまう。
 “ネバーランド”と、“ゲーミングPC入門”──!? 見間違いかと思ったが、そんなことはないらしい。名前さんは至って普通で、それどころか、「ネバーランド、楽しみです」とにこにこしていて、僕はいよいよもう一冊の本について突っ込むことができなかった。
 孤爪研磨は変わらず奥の席でゲームをしている。なんだろう、この胸のざわめきは。



 それから数日後、僕が本棚の整理をしていると、孤爪研磨がやってきた。僕は気づかれないように小さく鼻を鳴らした。健気な彼に教えてやりたくなったのだ。「彼女なら、今日は来ませんよ」と。
 しかし、男はどんどん僕に近づいてきた。まるで僕に用があるかのように。

「ゲーム関連の本って、置いてないんだね」
「え?」

 孤爪研磨はぐるりと辺りを見渡しながら、そう言った。僕に話しかけていることは確かだ。

「動画のネタになると思ったんだけど、“乱入モンスターの討伐”」
「……はい?」
「イビルジョーが、俺の邪魔してくるんだよね」

 よくわからない言葉を並べて薄ら笑みを浮かべる男はあまりに猟奇的で、僕はごくりと唾を呑んだ。「──もし、」男は続ける。

「俺がハンマーで行くなら、パーティーは剣で来てほしい。バレーボールだって、セッターだけじゃ成り立たない」
「……さっきから、なんの話ですか」
「似た者同士がいいのか否か、って話」

 意味不明な言葉に、意味深な眼差し。僕は目を逸らせなかった。





「返却で、お願いします」

 一週間ぶりに名前さんがやってきた時、僕はいつ栞を渡すべきか悩んでいた。どうやって渡すのが自然だろう。やっぱり受付に来たタイミングで、さりげなく渡すのがいいだろうか。それなら、まさに今がその時じゃないか──。
 傍らに積まれた本の山。その下に隠してある栞にばかり意識が集中して、僕はその時、彼女の変化にちっとも気づけていなかった。

「あと、変更の手続きをお願いしたいんですけど……」

 恥ずかしそうに声を顰めた名前さんが、カードと申請書を差し出して、流れ落ちたしなやかな髪を耳にかける。その左手に煌めく違和感に気づくよりも先に、彼女が口を開いた。

「姓が変わりまして、変更をお願いします」

「──え?」 僕は書類に目を落とした。
 “孤爪 名前”──?

 両手から本が滑り落ちる。大きな音が静かな館内に響き渡った。心臓が冷たく震えて、抵抗して激しく脈を打つ。「い、いつから……」混乱した僕の口からこぼれた問いに、名前さんは頬を赤らめた。

「すみません、驚かせてしまって……学生時代から付き合ってた彼と、先週結婚したんです」





 それから僕は体調が悪くなって、受付業務を代わってもらった。
 二階の閉架書庫に立ち寄って、ふと窓の外を見ると、桜の木が満開に咲いていて、あの二人が並んで歩いていた。
 あの日、栞を拾った彼らの物語の続きを見届ける勇気があったなら、こんな惨めな思いをせずに済んだのに。
 風が吹くと、桜の花びらがざわざわとその身を揺らして僕に囁いてくる。警告だった。これは、二人を祝福する春の音だったのだ。
 僕はその音に耳を傾けながら、孤爪研磨の言葉を思い出していた。

『似た者同士がいいのか否か、って話』

 きっと、奴は見抜いていたのだろう。僕が名前さんに惹かれていたことも、僕の方がふさわしいと奴を見下していたことも。
 奴が図書館のカードを作ったのは、“孤爪”という名字を見せつけて、全て種明かしをする今日この日のためだったのだ。
 僕は負けたくなかった。僕の人生という物語の中に現れたヤマトナデシコを、盗られたくなかった。けれども、奴じゃなかった。ヤマトナデシコを盗もうとしていたのは、むしろ──。

 僕は足元に落ちた栞に気づかないふりをして、閉架書庫をあとにした。


back