「俺と付き合ってください」

 やばい、やばい。
 教室から聞こえてきた会話にギョッとして、伸ばした手を引っ込める。なんちゅうタイミング。俺はげんなりして、英語のノートを置いてきてしまった数時間前の自分を呪った。
 別にテスト前というわけでもないのだが、万が一、万万が一のことがあっては困るので、持って帰らねばならない。

「えっと……」

 言い淀んでいるのは、聞き覚えのあるクラスメイトの声だった。ドアの窓からそうっと中の様子を窺うと、そこにはやはり苗字名前の姿があった。男の方は知らない。隣のクラスの奴だろうか。

「……ごめんなさい」

 小さな謝罪が聞こえる。名前も知らん男にほんの少し同情しつつ、俺は早く終われとばかりに念を送っていた。

「なんで? 好きな奴でもいんの?」
「え、えっと……うーん……」
「いないなら、いいじゃん」
「いや、でも……」

 見苦しい問答。諦めの悪い奴め。俺はイライラしながら会話を聞いていた。盗み聞きではない。早くノートを回収して帰りたいのだ。

「じゃあ、お友達からってことで」
「え? あぁ、うん……?」
「じゃあ、握手」
「あ、はい……?」

 おいおいおい。俺はハラハラしながら静観していた。苗字は完全に流されている。ちゃっかり握手なんかして、大丈夫かこれ。

「──キャッ……!」

 小さな悲鳴が聞こえて、まさかと思いながら再び窓を覗く。と、男が苗字を抱き寄せていた。嫌な予感がする。

「一回だけ、キスしていい?」
「えっ……!?」
「思い出として、お願い」
「ま、待って……ッ! や、やめ──」

──ガラッ

「あ。すまん、すまん」
 
 勢いよくドアを開け、素知らぬ顔をして自分の席に向かう。慌てて離れた男のギョッとした視線が突き刺さる。が、俺の知ったことではない。
 プリントまみれの机の中を漁る。お目当てのノートが見つかりませんというフリをして、ガサゴソと空気の読めない音を立てる。すると興醒めしたのか、男は何か言いたげに、しかし何も言わずに去っていった。苗字がホッと胸を撫で下ろしたのがわかる。

「ありがとう、黒名くん……」

 まあ、あんなタイミングで入ってきたんだ、俺が会話を聞いていたことはバレているだろう。

「苗字、嫌な時ははっきり断らないとダメだ」
「そ、そうだね……ごめん」

 なんて頼りない返事なんだ。俺はやきもきしていた。もし俺が来なかったらどうなっていたのか、彼女は本当にわかっているのだろうか。
 近づいて、細い腕を掴む。苗字はビクッと身体を強張らせた。

「ほら、ふりほどけないだろ」
「えっ……う、うーん……っ」
「敵わん、敵わん」

 えいっと苗字が力を込めても無問題で、俺はそれを封じ込めることができる。

「男は力尽くで何かやらかすかもしれん。だからその前に、言葉で強く否定しなきゃダメだ」

 防御、防御。そうつけ足すと、苗字はますますしょぼんと項垂れた。彼女のためを思ってのことだが、これでは一方的に説教しているようでばつが悪い。

「じゃあ、俺に抵抗してみろ」
「え?」
「練習、練習」
 もう一度、力を込めて腕を握る。

「苗字、俺と付き合ってくれ」
「えぇっ……!?」
「ほら、どうする。どうする」

 じりじりと圧をかける。苗字はおろおろと視線を彷徨わせるばかりで、拒絶のカケラも感じられない。

「いないんだろ、好きな奴」
「う、うーん……」
「じゃあ、いいだろ」

 押せばいける。そんな空気しか感じられない。さっきの男もそう思ったに違いない。
 掴んだ手に力を込める。その腕があまりにもか弱くて、ますます心配になる。

「……苗字。やめてとか、離してとか、なんか言えないのか」
「…………痛い……です」
「…………」

 ああ、苗字はいつか絶対に襲われる。俺は彼女の身を案じて、そしてわずかに苛立った。
 強引に引き寄せる。俺の腕の中にすっぽりとおさまってしまう。

「こんなに簡単に、抱きつかれてしまうぞ」
「あ、あの……」
「嫌なら嫌だと言わないとダメだ。ほら、反撃。反撃」

 と、苗字の反撃を待ちながら、鼻をくすぐる石けんの香りにくらっとしそうになる。なにをやっているんだ、俺は。

「あ、あの黒名くん……」
「ん?」
「嫌じゃない時は、どうすればいいの……?」
「──えっ」

 え? 頭の中が真っ白になる。
 ──嫌じゃない時? そうか、嫌じゃない時。嫌じゃない時は、どうする。どうすればいい。
 ぐるぐると目が回りそうになる。苗字がじっと俺を見上げて、その答えを待っている。どうする。どうする。全身からドッと汗が吹き出してくる。

「このまま待ってれば、キス……してくれるの?」
「……え、あ、いや…………え?」
「黒名くん」

 いつの間にか、苗字は確かめるような眼差しで、俺を見つめている。なんだ、これ。なにがどうなっている。練習、だよな。

「スペル」
「え、」
「英語のノート。──わたしの名前、スペル間違ってるよ」
「──なッ……!」

 心臓が飛び跳ねる。信じられん。俺は苗字の肩を掴んで、勢いよく引き剥がした。

「黒名くんって、わたしのこと……好きなの?」
「な、なに、なん、なんで」
「わたしも、黒名くんのことが好き」

 してやったり。苗字は今、そんな顔をしている。俺はぶわっと赤面して、わなわなと震えていた。
 いつ見られたんだ。俺が書いた、苗字の名前──英語のノートの落書きを……!
 万が一、万万が一のことが今、起きてしまった。穴があったら入りたい。もとい、もし俺がコバンザメだったら、ジンベイザメの下に隠れたい──。

「まだ練習……する?」

 さっきまでの押しに弱い少女はどこへ行ってしまったのか。反撃されている。予期せぬカタチで、反撃されている。
 ああ、認める。認める。俺は苗字が好きだ。つまらん英語の授業でノートの片隅に彼女の名前を書いてしまうくらいには惚れている。
 だが、こんなふうに伝えるつもりじゃなかった。もっとカッコつけて言いたかった。なぜなら俺は、男だから。

「黒名くん」

 苗字が目を閉じる。俺は苗字の肩を掴んで、だらだらと汗をかいていた。どうする。どうする。迷っていた。なぜなら俺は、男だから。ごくりと喉を鳴らす。それから俺は、俺は、


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