※大人軸
「……うそ」
ぽつりとこぼれた言葉が、玄関に落ちる。見慣れない靴があった。ベージュのパンプス。
リビングには研磨と知らない女がいて、くすくすと楽しそうに笑い合っていた。
これはいったい、どういうことなの。
サムシングブルー
最初に違和感を覚えたのは、一輪の薔薇だった。
「えっ、なにこれ?」
「……なんかもらったから、あげる」
くるんとカールしたリボンできれいにラッピングされた赤い薔薇は、古い一軒家の玄関には似つかわしく異質なものに見えた。
ファンからのプレゼントをはじめ、お中元やお歳暮、株主優待など、研磨はなにかと物を贈られる機会が多く、わたしはそのおこぼれに預かることがよくあるのだけれど、この薔薇はそういうものとは違うように思えた。
「もらったって、誰から?」
「…………」
「もしかして研磨が買ってきてくれたの?」
「……そういうんじゃないし」
研磨は言葉少なに自室へ戻ってしまった。薔薇とともにぽつんと置き去りにされたわたしはひとまず浮腫んだ足をヒールから抜き出して、仕事着のままリビングへ向かった。
あまりにもぶっきらぼうに渡してくるものだから、てっきり研磨が買ってきてくれたのだと思ったし、たぶんそれは間違いじゃない。(研磨という生き物は照れくさいときにそういう態度をとる傾向がある)
けれど今日はわたしの誕生日でもなければ記念日でもない。日頃の感謝だといってなんでもない日に突然サプライズをするような男でもない。じゃあ、これはいったいなんの花──?
わたしは適当な一輪挿しに薔薇を挿して、すんと匂いを嗅いだ。いい香り。
研磨とはもう長い付き合いになるけれど、花をもらうのは初めてのことだった。もちろん好きな人から花をもらって嬉しくない女はいないし、わたしも少しときめいたけれど、それでも素直に喜ぶことができなかった。女の勘ってやつかな。
わたしは連日の残業続きで蓄積された疲労感と、急に優しくなった彼氏が急に花をくれたほんの少しの違和感を拭い去るように、もう一度薔薇のなかに鼻を埋めた。
そんな違和感がさらに膨れあがったのは、研磨がスマホを見る頻度が増えたからだった。
「研磨ー? 配信終わった?」
「えっ、あ、うん……」
寝る前にひとこえかけようと扉を開けると、ひどく慌てた研磨が急いでスマホの電源を切った。
「あ……えっと、先に寝るね。おやすみ」
「うん、おやすみ……」
ここ最近、研磨はずっとスマホをいじっている。その慌てっぷりを見るに、スマホでゲームをしているわけではないことはわかっていた。
じゃあ、いったいなにをしてるの?
いま、なにを隠したの──?
そうやってしばらく眠れずに布団をかぶっていると、寝室の扉がこっそりと開かれた。ハッとして息を押し殺す。
「……名前?」
わたしは目を閉じて、じっとしていた。
「寝たの……?」
研磨の影が近づいてくる。祈るような気持ちでやり過ごしていると、ふと、研磨がわたしの手に触れた。寝たふりも演じきれず、わずかに身動ぎしてしまう。
「わっ。なんだ、起きてるんじゃん……」
「……いま寝るとこだったの」
研磨は「ふーん……」と疑いの目を向けてから「じゃあ、おやすみ」と踵を返した。
「まだ寝ないの?」
「うん。もうちょっとしたら寝る」
ぱたん、と扉が閉まる。わたしと研磨を隔てる一枚の壁。その壁の向こうで、研磨はいったいなにをしようとしていたのだろう?
もしもわたしが寝ていたら、誰かに電話でもかけるつもりだったのだろうか──?
暗闇のなか、ふと、わたしの視線は枕元の棚に吸い寄せられた。自然と手が伸びる。女の勘ってやつかな。そして、まさかと思いながらも確認せずにいられないのは、悲しい女の
四角い箱の中を覗く。結婚するまではちゃんと着けようねって約束で、このあいだ開封したばかりだから数え違えることはないはずなのに。
コンドームの数が、あきらかに減っていた。
──怪しい。
そう思ってから展開は早かった。
「名前、あのさ」
「なに?」
「今日も残業……だよね?」
ヒールを履きかけたつま先がぴたりと止まる。
「──うん、最近は毎日そうじゃん」
わたしは咄嗟になんでもないようなふりをして、それからごくりと唾を飲み込み、「……なんで?」と水を向けた。
「いや、別に……なんでもない」
なんでもない? 本当に?
問い詰めたい気持ちをぐっとこらえる。
「……そっか、じゃあ行ってきます」
仕事に向かう途中、わたしはほとんど放心状態で電車に揺られていた。
研磨のことは小さい頃からよく知っている。いわゆる幼馴染というやつで、わたしはひとつ年下の研磨を弟のようにかわいがっていた。
高校生になると身長も抜かされてすっかり男の子らしくなってしまった研磨のことをようやく異性として意識するようになったけれど、研磨は小さい頃からずっとわたしのことが好きだったって言ってたっけ。
ふと、スマホでブラウザを立ち上げる。検索バーに入力する『彼氏 浮気 怪しい』の文字を何度も打ち間違えてしまうのは、もはや電車の揺れだけでは説明できない。動揺している。だってまさか、研磨がそんなこと、するはずがない。
震える指先をすべらせると、『彼氏が浮気をしているかも?』『急に優しくなる』『急にプレゼントをくれる』『スマホを頻繁にチェックしている』『スマホの画面を隠す』『こちらの予定を確認してくる』『コンドームが減っている』……。
──ああ、もう! わたしは頭を抱えた。
結局仕事もほとんど手につかず、午後から休みをもらうことにした。積み上がった書類の山はこの際見なかったことにして、とにかく白黒はっきりさせなければならなかった。
電車に飛び乗って、二人の家に帰る。帰れば研磨はゲームをしている。パソコンの前に座っている。「おかえり」ってわたしを迎えてくれる。けれど、きっとそうだと思い描いていた光景はことごとく崩れ去り、わたしは目の前の現実に打ちのめされることになった。
「……うそ」
ぽつりとこぼれた言葉が、玄関に落ちる。そこには見慣れない靴があった。ベージュのパンプス。わたしのじゃない。これはいったい、どういうことなの。
ドッと汗が吹き出して、心拍数が跳ね上がる。身体はずっしりと鉛のように重く、異常な息苦しさに襲われた。それは、違和感が確信へと変わった瞬間だった。
怒りと悲しみでどうにかなってしまいそうだったけれど、それでも立ち向かわなければならない。わたしは浮気現場をみすみす見逃してやるような思慮深い女じゃないのだ。
涙を必死に堪えて、廊下を突き進む。くすくすと楽しそうに笑う声がする方へ。真っ直ぐリビングに向かい、扉を開ける。
研磨と知らない女がいた。こたつをはさんで向かい合って座っている。研磨はわたしの姿を捉えると、すぐに目を見開いてぴしゃりと固まった。
女が後ろ姿だったのは良かった。顔なんか見たくもない。ふわふわに巻かれた栗色の長い髪に燃えるような怒りを覚えながら、しかしその矛先を間違えてはいなかった。
「──研磨ァッ!! この最低バカ男!!!」
持っていたかばんをぶん投げる。研磨の顔面にクリーンヒット。「ぶっ!」と倒れる研磨の声と、「きゃ!」と悲鳴をあげる女の声。
「呑気に茶ァなんかしばきやがって!! すけこまし!! もう勝手にしろ!!」
どすんどすんと足音を立ててかばんを拾うと、わたしは研磨に向かって合鍵を投げつけた。
「えっ、名前、ちょっ──!?」
慌てて引き止める研磨の制止も振り切って、家を飛び出し、一目散に走り出す。走っているうちに涙があふれてくる。ひとつ、またひとつ。研磨との思い出がこぼれ落ちていく。
ゲーム以外まるで興味がなく、めんどくさいどっちでもいいと投げやりになる彼に代わって、わたしは昔からいろんなことを決めてあげた。毎日の献立から、明日着る服やスーツ、シャンプーや柔軟剤、進学先や進路まで多岐にわたって。お裁縫セットをドラゴン柄にしてしまったのは今でも申し訳ないと思っているけれど、ゲーム配信だって最初はわたしが勝手に動画をアップしたのが始まりだった。
思い返すと、二人の関係を幼馴染から恋人に切り替える決断をしたのもわたしだった。
『おれはずっと前から好きだったし、それはこれから先も変わらないから、付き合うかどうかは名前が決めて』って、研磨は言った。
研磨には女の子の友だちがいなかったから、彼女にする選択肢がわたししかいなかったのかもしれない。
けれど今はどうだ。高校時代から今に至るまで、研磨は天性の才能でめざましい活躍をみせ、地位も名誉も獲得した。それに比べてわたしはしがない会社員で、最近では生活リズムも合わないし、すれ違いの毎日だ。
今、研磨にはたくさんのファンがいる。かわいらしい女の子たちが研磨のことをかっこいいと言っていたりもする。選択肢が増えた今、わたしは研磨の彼女としてふさわしいといえるのだろうか?
決めるのは研磨だ。わたしじゃない。そして研磨は選んだ。わたし以外の女の子を。ゲームのコマンドを切り替えるみたいに、あっさりと。
「──痛ッ……!」
ようやく駅に着いたと思ったら盛大にすっ転んで膝を擦りむいた。足元を見るとヒールがぽっきり折れていた。わたしの心みたいだった。
こんなふうに終わってしまうんだね。なんてあっけないの。
わたしは情けないことにずびずびと鼻水を垂らしながら泣いていた。なにもかもがどうでもよくなって、なりふり構わず改札をくぐった。そうやってしばらく帰ってなかった自分の家に帰った。帰ってからまた泣いた。誰かに抱きしめてほしいと思ったけれど、思い浮かぶのはたったひとりだけで、どうしようもなくてまた泣けた。
◆
名前と連絡がとれなくなって二週間が経った。せっかちであわてんぼうな彼女に振り回されることには慣れてるけど、泣かせてしまったのは初めてだった。
電話やラインは全部無視されている。家にも行った。会ってもらえないことはわかってたから待ち伏せしたけど、おれが行ったときにはもう誰かの家を転々としているみたいだった。
「誤解だよ」「浮気じゃない」「あの人はそういうんじゃないから」何度訴えても全く取り合ってもらえない。今はただ「説明できるときがきたらちゃんと説明するから」と、まわりくどい言い方しかできないのがもどかしい。
名前の職場にも行った。出退勤や昼時を狙ったけど、名前は周りをがっちり同僚の友人らで固めていた。いくら変装してるとはいえ真正面から話しかければ面倒なことになるだろう。目深帽にサングラスにマスクまでしてるおれがまさか毎日オフィス街をうろつくわけにもいかないし、そもそもきゃぴきゃぴしてる女子の間を割って入ることはできなかった。名前はおれの性格をよく知っている。これは一筋縄ではいかないと思った。
──ああもう。なんでこの世には言葉があるんだろう。言葉がなければ言葉を選ぶ必要もないし、言葉がなければ一緒にいるためにこんなめんどくさいことなんかしなくていいし、言葉がなければ躊躇せず追いかけて抱きしめることができたのに。
まぁでも、そんな焦れったい日々ももう終わり。ようやくこの日がやってきた。最終手段をとることになってしまったのは本当に最悪だけど、致し方ない。
まさかこんなことになるなんてね。名前にはちょっと反省してもらわなくちゃ。おれに勝とうなんて百年早いってこと、教えてあげる。
◆
スマホのアラームで目が覚めた。
カレンダーが『今日は記念日です』とご丁寧に通知をくれたので、わたしは慌ててイベントを削除した。最悪な朝だ。
最悪な気分で電車に乗った。最悪な気分で働いて、最悪な気分で退勤した。そうやってオフィス街を抜け、同僚の女子達と飲食店が立ち並ぶエリアを歩いていたら、前方からスーツ姿のイケてるお兄様方が歩いてきた。
「おや?」すれ違いざまに気安く声をかけられる。わたしはこの低音ボイスを知っている。顔をあげるとそこにはやはりよく知った顔があった。
──鉄朗だ。瞬時にすべてを悟ったわたしはすぐに警戒態勢をとった。
「いや〜奇遇だねぇ名前さん。ということでちょっと一杯どう?」
「鉄朗くんお疲れさま。研磨におつかいでも頼まれた? わたしを連れ出して引き合わせようったって、そうはいかないから」
「あらら、だいぶ拗らせちゃってる」
鉄朗はやれやれと肩をすくめているけれど、今回はただの喧嘩じゃない。絶縁だ。そんなふうに軽々しく扱っていい問題じゃない。わたしはじとっと鉄朗を睨んだ。
「まあまあ落ち着いて。マジでなんにもしないから。ただちょっとこれから俺たちと一緒に飲みに行ってくれるかわいい女の子を探してただけ」
「なに、それ……」
「そしたらホラ、こんなにかわいいお姉さま方がいたから声をかけずにはいられなくて」
鉄朗がわたしの後ろに視線を向けると、同僚たちは「えぇ〜! どうする〜?」と盛り上がり始めた。
「……もう、なんなのよ」
「悪いね。先輩達がどうしても合コンしたいって聞かなくてさ」
鉄朗と話しているあいだに向こうとこちらはすっかりひとつのグループになっていた。
「名前がこんなイケメンと知り合いだったなんて」「まじでありがとう」「感謝しかない」とはしゃぐ同僚のテンションについていけず、わたしはかぶりを振って後ろにさがった。
「悪いけど、わたしはそんな気分じゃないから……」
「わかってるよ。連れ出すようなことはしないって言ったデショ」
じゃ、そういうことだから。鉄朗はそう言ってわたしの同僚を引き連れて去っていった。なんて威力。まるで磁石のように離れていった女子達の背中を見送りながら、万有引力なんて単語が思い浮かんだ。
やれやれ、まるで嵐のようだったな。──と、ため息をついてハッとする。
わたしは今、一人だった。
「名前」
喉元にナイフを突きつけられた──ような気がした。背後に忍び寄る静かな威圧感にひやりと汗が滲み、錆びたネジのように振り返る。
「研磨……」
「ひさしぶり。元気だった?」
──やられた……!
間違いない。やっぱり研磨と鉄朗はグルだったのだ。
わたしはこめかみをひくひくさせながら「おかげさまで」と笑みを浮かべた。
それにしても、多くの人が行き交うなかよく騒ぎにならずにここまで来たなと思ったけれど、目深帽にサングラスにマスクまでして対策はバッチリのようだった。
「記念日だから、迎えにきた」
「はあ……? なに言って、」
「ちゃんと話がしたいなと思って」
「……話すことなんか、なにもないよ」
研磨は笑ってるとも怒ってるともとれるような眼差しでじっとわたしを見つめていた。
じりじりと追い詰められるような沈黙が続き、わたしがちらりと横目で駅の方向を確認したところでようやく研磨が口を開いた。
「うん。たぶん逃げるんだろうなって思ってた」
研磨は観念するように、ふっと微笑んでマスクを外した。白い不織布が風になびく。それはまるで白旗のように見えたけれど、ただの降参ではないと直感する。これは、
「け、けんま……?」ゾッとして身構える。わたしに構わず、研磨は次にサングラスを外し、帽子を脱ぎ、ついには束ねていた髪をほどいた。
「なに、してんの……」
目の前には孤爪研磨が立っていた。わたしがよく知っている、ありのままの姿。それは世間からするとありのままのKODZUKENなわけで、つまり世界のコヅケンが、この街のど真ん中に、彗星の如く現れてしまったのだった──。
「ちょ、ちょっと……!」
彼はおかしくなってしまったのだろうか。わたしは咄嗟に肩を掴んで揺さぶったけれど、研磨は吹っ切れたようにハハハと渇いた声で笑うだけだった。
ハッと辺りを見回すと、コヅケンの存在に気づいた人がちらほらと集まり始めていた。中にはスマホを構える人の姿まであって、わたしはもう勘弁してくれと思いながらタクシーをとっ捕まえて、研磨を車内に引きずり込んだ。
「もう、なに考えてんのよ……っ!?」
「名前のこと」
平然とした顔で言いやがる。わたしはぜえぜえと息を切らしながら、とんでもない男と付き合ってしまったと今更ながらに後悔していた。
やむを得ず車を走らせる。もう二度と戻るもんかと心に誓ったはずの、彼の家へ──。
◇
「おかえり、名前」
車内でずっと頭を抱えていたわたしに悪びれもせず、研磨はにっこりと微笑んでお茶を淹れた。こたつの上に置かれたお揃いのマグカップがよりいっそう気まずさを煽ってくる。
「……ねぇ研磨、本当になに考えてるの? 人前であんな……絶対写真も撮られたし、コヅケンが女と一緒にいたって騒がれてマスコミに追いかけ回されたりしたら──」
「うん、そんなことよりさ。ちょっと話したいことがあるんだよね」
──
「このあいだ、うちに女の人が来てたでしょ」
「……はい」
「あれ、“サムシングブルー”の担当さんだから」
「…………はい?」
研磨の口から突然カタコトの横文字が生まれたので、わたしはぽかんとしてしまった。
サムシングブルー、サムシングブルー。頭の中で反芻して、ようやく理解する。
サムシングブルーとはつまり、わたしの憧れのジュエリーブランドのことを意味している。
「担当さん、たぶんおれが株主だからいつもVIPイベントに招待してくれるんだけど、面倒だから全部断ってるんだよね。それで今回指輪を買いたいって相談したら、来店するのは大変だろうからってうちまで来てくれることになってさ。いつもおもてなしできなくて申し訳ないからって気を遣ってくれて、そういうつもりじゃなかったんだけど、ありがたくお言葉に甘えることにしたんだよね」
わたしは研磨がぺらぺらと饒舌になっているのをまるで別世界の出来事のように感じていた。
株、イベント、担当さん、指輪。かろうじて聞き取れた単語を必死に繋ぎ合わせていく。
つまりわたしが激しく嫉妬したあの女性はジュエリーショップの店員さんで、あれは浮気なんかじゃなくてただのショッピングだったってこと……?
怪獣のように暴れ狂っていた自身の醜態を思い出して、サーッと血の気が引いていく。
「な、なんで言ってくれなかったの……!?」
「言おうとしたよ。電話もしたし会いにも行った。かばんを投げて走って逃げて、聞く耳持たずだったのは名前の方でしょ?」
「うっ……」
正論パンチ。名前は めのまえが まっくらに なった! ──と、気絶しかけたところでふと気づく。
指輪? さっき、指輪を買いたいって言った? 研磨が指輪を? わたしの憧れのブランドで? ああ待って。それってつまり──
「そして出来上がったものがこちらになります」
まるで三分クッキングの完成品のように差し出されたブルーの箱は、やっぱり憧れのサムシングブルー。ぱかっと開けられた箱の中にはきらきらと輝く女の子の憧れが詰まっていた。
「う、う、うそだぁ……」
感情がぐちゃぐちゃに入り乱れて泣きそうになっていると、研磨が「あ、そうそう」と思い出したように別室に消えて、そして戻ってきた彼の両手にはおさまりきれないほどの薔薇の花束が抱えられていた。
「えっ!? ええぇーっ!?」
衝撃的な絵面に思わず吹き出してしまう。
「受け取りに行くのまじで恥ずかしかった」と研磨が心底嫌そうに顔を歪めるものだから、わたしはその場面を想像して笑いながらもぽろぽろと涙を流して泣いてしまった。
受け取ると冗談みたいにずっしりと重くてまた笑えた。たぶん108本の薔薇が束ねられているのだろう。今日がただの記念日じゃないことはもうわかっていた。
「で、でも待って。あの一輪の薔薇はなんだったの?」
「ああ、あれはこの薔薇を予約したときに花屋の店員さんがくれたやつ……よかったら彼女さんにどうぞって」
なんだ、そういうことか。拍子抜けた肩の力が抜けていく。
あのとき研磨はたしかに『なんかもらったからあげる』と言っていた。本当にその言葉通りだったのだ。深読みして不安になっていた自分が恥ずかしい。
「あっ、でもスマホ……! 最近ずっとスマホ見てたよね? 不自然に隠したりして」
「あ、あれはちょっと……調べものっていうか、どういうふうに渡そうかとか、いろいろ調べてただけ……」
「夜にわたしが寝てるか確認してたのは……?」
「あれは…………指輪のサイズ、わからなかったから……」
「測ろうとしてたの!? えっ、いつ測ったの!?」
「もう……うるさい……」
「わたしが残業するかどうか確認してきたのは、」
「だから指輪の担当さんがうちに来るから……鉢合わせたらバレちゃうし」
「じゃあコ、コンドームは? あきらかに減ってたんだけど……」
「え……ああ、そういえばこのあいだクロが来たときに『このあと飲み会だから一応貰っていい?』って頼まれてあげたような……」
「ていうかそんなことまで確認してたの……」と研磨は若干引き気味にわたしを見下ろしたけれど、わたしは次から次へと判明していく衝撃の事実にへなへなと力なくしゃがみ込むばかりで、まぎらわしいことしないでよと反論する気にもなれなかった。
「プロポーズされるなら記念日がいいって言ってたよね?」
「……うん」
「王道ベタなサプライズがいいって言ってたのは?」
「……わたしです」
「108本の薔薇がほしいって言ってたのは?」
「……わたしですね」
「サムシングブルーの石を内側に埋め込んだ婚約指輪がほしいって言ってたのは?」
「……わたしでございます」
「ねぇ、全部名前のためなんだけど?」
わたしは「大変申し訳ございませんでした」と床にひれ伏す勢いで謝りたおした。
「あーあ、ちゃんとカッコつけるつもりだったのに」と落胆と安堵のため息をつく研磨のカッコつけるところを、わたしも心の底から見たかったと思う。
それに、研磨の他にも迷惑をかけてしまった人がいる。家に泊めてくれた友人や鉄朗にはあとでなにか奢るとして、
「どうしよう……せっかくご厚意で足を運んでくれた担当さんにあんな修羅場をお見せしちゃった……」
「うん。おれもすごい謝ったけど、今度店舗に行ったときに改めて一緒に謝ろう」
「今度……?」
「婚約指輪はサプライズで、結婚指輪は一緒に選びたいって言ってなかった?」
研磨が……! いつもこたつでゴロゴロしてばかりで愛情表現なんてめったにしてくれないあの研磨が……! わたしの言ったことを全部覚えていて行動にうつしてくれるなんて!
「け、けんまぁ……」目をうるうるさせて縋りつくと、「すけこまし最低バカ男は撤回してくれる?」とにっこり微笑まれてしまったのでそれはそれはもう首がもげるくらい全力で頷いておいた。
「あとひとつ、夜景の見えるレストランで食事……なんだけど」
「え?」
「とびっきりの店予約してあるんだけど、今から行くでしょ?」
「……えぇっ!?」
「美容室も予約してあるし、髪とかメイクはそこで直してもらえばいいよね。ドレスは買っておいたから」
「け、研磨がスパダリすぎる……!」
「すぱだりってなに」
研磨の口からまたカタコトな横文字が生まれたので、わたしはおかしくて笑ってしまった。
それから用意してもらったドレスに着替えて「たのしみ!」と浮かれていると、研磨はやれやれと呆れたようにわたしを見つめた。
「そういう行動力のあるところ嫌いじゃないけど……もう今回みたいに浮気だって勝手に決めつけて離れていくのはやめて。心臓に悪いし」
「う……ごめんなさい」
わたしはこの二週間、自分勝手に傷ついて無駄にぼろぼろになっていたけれど、研磨はそのあいだいったいどんな気持ちで過ごしていたのだろう。わたしを喜ばせたい一心であれこれ準備を進めていた矢先、濡れ衣を着せられ突然連絡を断たれて……。想像するだけで胸が苦しくて、申し訳なくてたまらなくなる。
反省してしょぼんと俯いていると、研磨がわたしの両手にそっと触れた。
「名前はいつもせっかちであわてんぼうで、昔からおれのことはなんでも決めたがってたよね。もちろんそれに助けられたこともあるけどさ──」
研磨の双眸が、ついとこちらを向く。
「一緒にいる女の子くらい、自分で決めるよ」
強く決心した瞳がわたしをとらえる。やさしく包み込んでくれる大きな手。わたしが引っ張っていたはずの小さな手は、いつのまにかこうしてわたしを引き留めてくれる。
けれど、そっか。こうやって手を取りあって、支えあって、わたしたちは生きていくんだね。
「じゃあ改めて言うけど、」
照れくさそうな咳払いをひとつ。そして研磨が口を開く──
「おれと結婚してください」
ちゃんと敬語でプロポーズしてねって言ったことも覚えてくれてたんだ。信じられない。夢みたい。研磨ってわたしのこと本当に大好きなんだね。
しあわせで、うれしくて、だけどちょっぴり恥ずかしくて。わたしはえへへと笑いながら、あふれる涙を何度もぬぐった。
それから顔を覆ってしあわせを噛みしめていると、「……ねぇ、返事は?」と研磨が珍しくせっかちであわてんぼうになっていて、耳のふちが真っ赤に染まっているのがまたたまらなく愛おしかった。
「はい、よろこんで!」
わたしはしっかり頷いたけれど、にやにやしてるのが気に食わなかったのかおでこを小突かれてしまった。
左手の薬指にそっと指輪が通される。そのとき、内側に隠された宝石がきらりと輝いた。とってもきれい。小さいころから夢にみてた、憧れのサムシングブルー。
でもね、本当はきっとこんなおまじないなんかなくたって、わたしは研磨がいればそれだけでしあわせなんだよ。なんて、絶対に言えない。
サムシングブルー。
それはベールに包まれた、
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