彼が『E』なら、わたしは『I』だ。
 93問の性格診断をするまでもない。

 彼が陽だまりの中心にいるとしたら、わたしは校庭の隅にある校舎の隅のうす暗い教室の隅に溜まったほこりの塵。

 森羅万象、この世の全ては二極のエネルギーバランスによって保たれている。
 わたしとあなたは即ち『陰』と『陽』。これは古代からの決まりごとで、謂わば宇宙の摂理なのである。


革命のスープ


 おもしろい仕事があると元上司の部長から連絡があったのは、わたしが出版社を辞めて一年が経った頃のことだった。

『Nさんとこの雑誌で企画してる連載なんだけど、人手が足りないんだって。ほら、来年オリンピックの年だから』
「はあ」

 挨拶もそこそこに切り出された本題に耳を傾けながら、わたしはマグカップにひっかけたドリップパックにお湯を注いでいた。
 そういえばNさんとは名刺交換した覚えがある。スマートフォンを持ち替えて、引き出しの中を探してみる。

『校閲の経験者かつ仕事が速くて真面目な子を探してるっていうから、ぜひ苗字さんを紹介したいと思ってるんだけど、どうかな?』
「そんな……いえ、でも、ありがたいです」

 退職するまでの数年間、校閲部にて粛々と仕事を進めていたわたしは部長の目によく映ったらしく、フリーランスに転身した今でも時々こうして電話をくれるのだった。
 目当ての名刺を見つける。
 新卒で入社してまもなく、部長の友人である他社のNさんとほとんどロールプレイのような名刺交換をさせてもらった黒歴史が蘇り、頭を抱えたくなる。うららかな春の日に「暖房つけようか?」なんて笑われて、つまりわたしはガチガチに震えていたに違いなかった。

『そういえば苗字さんって音駒高校出身だったよね?』

 部長の突拍子もない質問に戸惑いつつ「ええ、そうですけど……」と相槌をうつ。

『じゃあ男子バレー部が全国大会に出場した年だ』

 ふと、時が止まる。

「……あ、そう、かもしれません」

 大丈夫。言葉に詰まったのはほんの一瞬。この動揺が見抜かれることはない。
 わたしはキッチンに戻ってもう一度ドリップパックにお湯を注いだ。

『やっぱり! それでここからがおもしろい話なんだけど──』

 どぽどぽと音を立てて、ほろ苦い香りが泡立っていく。

『その企画ってバレーボール協会に取材協力してもらって作る記事なんだけど、関係部署の特命主任が音駒出身で、まさかと思ってNさんに確認してびっくりしたよ。世代もドンピシャで。じゃあ窓口もその子にお願いしちゃおっか〜なんて笑ってたんだけど、確か黒尾くんっていったかな? まさか同級生だったりしないよね? あれ、おーい。もしもし? 聞こえてる?』

 抽出された珈琲は、すでにマグカップから溢れていた。





 あれこれ思い浮かんだ言い訳は、仕事を断る理由としてはあまりに稚拙なものだった。
 とんとん拍子に話が進み、気づけば顔合わせをすることになっていて、わたしは久しぶりにオフィスカジュアルに身を包んでいた。

「……あの、もう皆さんお揃いですか?」
「いえ、N様が少し遅れていらっしゃるとのことです」
「そ、そうですか……」

 ランウェイを歩くような受付嬢の脚さばきに気圧されて、わたしは萎縮していた。
 彼に、なんて挨拶したらいいのだろう。久しぶり? そもそも覚えられていなかったら赤っ恥だ。初めまして? それではあまりに白々しい。

「こちらです」

 コンコンコン、とドアをノックする音で意識の泡がぱちんと弾ける。
 受付嬢がなんの躊躇いもなく応接室のドアを開けるので、きっとこの人には心の準備なんて必要ないんだわと恨めしくなった。

「おっ、マジで苗字さんだ」

 入室すると、きれいな折り目のついたスーツに身を包んだ男が立ち上がった。──黒尾くんだ。
 ただでさえ大人びていた彼の佇まいはさらに洗練されて、全く変わらないように見えた黒髪もきちんと固めているらしく、ほのかに漂う整髪料の香りが爽やかにわたしの鼻をくすぐった。
 清潔感と誠実さを兼ね備えて、年齢を重ねるうちに色気まで手に入れたこの男に勧められてしまったら、わたしはうっかり変な壺でも買ってしまうだろうなと思った。

「こ、こんにちは……」

 小学生じゃあるまいし。結局ダサい挨拶しかできなかった。

「いやー懐かしいねぇ……ああ、申し訳ない」

 どうも、こういう者です。そう言って差し出された名刺を頂戴する両手がぶるぶると震えたのは、Nさんと初めて名刺交換したとき以来だった。ああもう、恥ずかしすぎて死にそうだ。けれど──

「よろしくね、苗字さん」

 彼は、わたしのことを覚えていた。





 三年五組の黒尾くんは磁石のような人だった。
 親しみやすい陽気な性格と、バレー部強豪校の主将として組織を牽引するカリスマ性は人を惹きつける力があった。クラスや学年の垣根を越えてみんなが彼を慕っていた。
 黒尾くんが磁石なら、みんなは砂鉄だった。彼の周りにワーッと人が集まる光景は、いつか理科の授業で行った実験を想起させた。磁石を近づけるとまるで意思を持った生き物のように砂鉄が飛びつく、あの実験。
 わたしみたいな人間は白いA4用紙の上にばら撒かれたときから隅にぽつんと取り残されていて、やがて大きな手で払いのけられて床の上に落っこちてしまう。そうして青春の喧騒に揉まれて、教室の隅に溜まったほこりの塵になる。

『──じゃあ苗字、問三やってみろ』

 ハッとして顔を上げると、クラスみんなの視線がわたしに集中していた。ドッと心臓が跳ねる。どうしよう。ぼーっとして何も聞いていなかった。
 いつも席順で当てる先生で、今日は隣の列からスタートするのだとばかり思っていたから油断していた。なにか言わなきゃと思えば思うほどに気道が狭まり、息が苦しくなる。
 わたしは席を立ち、重たい足取りで黒板に向かった。チョークを握る指がぶるぶると震えて、しばらく。

「…………わかりません」

 振り絞った声は枯れていた。
 「なんだ、珍しいな」先生は目を丸くして、「どうした、寒いのか?」と言った。
 それが気遣いなのか揶揄なのか見当もつかなかったのは、みんながくすくすと笑っていたからだった。わたしはかーっと熱くなり、俯いて自分の席に戻った。

「うっわ、じゃあ次は俺ってことか〜!」

 突然、前の席の黒尾くんが頭を掻きむしって絶望した。さっきまでうとうとと船を漕いでいたのをわたしは知っている。

「なんだー黒尾、文句あるのか?」
「いやぁコース変更エグいっスよ先生〜」

 どっと笑いが起こり、たちまち教室の空気が変わった。そうだよね、やっぱり急に順番変わったよね、という発言が許される雰囲気になり、気づいた先生も慌てて「あれ?」と座席表を確認していた。

「やめてくださいよ、ボクたちびっくりしちゃうんで」

 ふいと黒尾くんが振り返り、「ねぇ?」と片眉をあげてわたしに同意を求めた。

 それがどんなにわたしの胸を締めつけたか、黒尾くんにはわからないだろう。





 引き受けた仕事は在宅で問題なく進めることができた。郵送で送られてきた原稿ゲラの誤字脱字や矛盾点に赤ペンを入れて、事実確認や再調査が必要なところはメモをして黒尾くんに戻した。
 急ぎの案件があれば電話でやりとりもした。黒尾くんの社用携帯にわたし個人の連絡先が登録されたときは横着せずに仕事用の携帯を契約しておくべきだったと後悔したけれど、もともと世間話をするような間柄ではないからなんの問題もなかったし、最初の顔合わせ以外に直接会わなければならないような出来事もなかったので、心が乱されることもなかったのだけれど。

 そんな日常が崩れ去ったのは、仕事にも少し慣れてきた頃のことだった。

 ある日、黒尾くんから一通のメールが届いた。
 業務連絡の文末に『Nさんより景気付けに今度みんなで飲もうとお誘いがありました』という追伸があって、『どうする?』と。
 正直気が進まなかったけれど、Nさんのお誘いとあらば参加せざるを得ない。
 つくづく社会というものは内向的な人間には厳しい世界だと痛感する。ほとんど面識のないわたしが参加したところでいったい誰が喜ぶというのだろう。





 ああ、帰りたい。乾杯して早々に腕時計を確認する。
 周りの方も最初は気を遣って声をかけてくれたけれど、わたしは人見知りな上に会話も下手で、おまけに校閲という地味な仕事の話も広がらず、申し訳ないくらいだった。
 Nさんも自分から誘っておいて結局来ないらしかった。どうやら仕事のトラブルで立て込んでいるようなので責めることはできない。
 お酒も進んで徐々に盛り上がる雰囲気を別世界のように感じながら、わたしはぼんやりと黒尾くんを見つめた。
 彼は遠くの席で上司や後輩に囲まれながら楽しそうに笑っていた。男女問わず引っ張りダコ状態で、相変わらずの人気者。それほど人望が厚いのだろう。
 社会で活躍するためには部活で培った勇気と責任感は立派な武器になる。それは彼の名刺に並べられた肩書きが証明していたし、こうして目の当たりにしなくてもわかっていたことだ。
 お酒なんてほとんど飲んだことがないわたしは一杯目のグラスを半分残したまま油っぽい食事にも手をつけず、メニュー表を眺めていた。あ、誤植発見。頭の中で赤ペンを走らせる。

「あれ〜? お姉さん、おかわりいいの?」

 突然、酔っ払った中年の男が話しかけてきた。すでに席はぐちゃぐちゃに入り乱れて、誰が誰だかさっぱりわからなかった。

「はい、あの、普段からあまりお酒を飲まないので」
「真面目だねぇ〜〜まだ若いのにもったいない! 休みの日はなにしてんの?」
「えっと、次の仕事のスケジュールを組んだり、参考資料を探しに図書館に行ったり……」
「休みの日だよ休みの日! 友達と飲みに行ったり彼氏とデートしたりとかさぁ〜」
「すみません、仕事しかしてこなかったもので……」
「ええ〜〜!? そんなんじゃ人生つまんないでしょ! 真面目すぎるとモテないよ〜?」

 ほら飲んで飲んで! と、勝手に焼酎を注いでいるそれはお冷グラスなので勘弁してほしかった。

「ちょっと飲ませすぎないでくださいよ〜?」

 突然、後ろから伸びてきた逞しい腕が男から焼酎ボトルを取り上げた。──黒尾くんだ。
 「この子、ボクのお友だちなんで」と言ってお冷グラスも取り上げると、水で薄めて飲み干してしまった。

「おぉ〜〜黒尾! やっと来たか〜!」
「まあまあ、俺が愛情込めて作るんで待っててくださいヨ」

 黒尾くんは間を割るように入ってきて、テキパキと焼酎の水割りを作り始めた。どうやらわたしを助けてくれたらしい。
 男が仕事の愚痴を饒舌に語り始めたところで、わたしはそっと席を立った。


 お手洗いに向かう足元がおぼつかないので、どうやらわたしも少し酔っているようだった。とはいえ気分が盛り上がるわけでもなく、そろそろ頃合いを見て帰ろうと思っていた。
 ハンカチで手を拭って、ふと鏡を見る。一度も染めたことのない髪を伸ばして、最低限の化粧を施した地味な女と目が合った。

『真面目すぎるとモテないよ〜?』

 酔っ払った男の言葉が蘇る。生まれてこの方、真面目すぎて困ったことも、モテなくて困ったこともない。けれど……
 さっき黒尾くんを囲んでいた女性たち。サラダを取り分ける指先の華やかなネイルや、笑うたびにふわふわと揺れる柔らかな髪は、いじらしくて目にしみるようだった。
 なんとなくリップクリームを塗ってみる。色付きでほんのりと唇が染まった。わたしはいったい、なにをしているんだろう。
 
「おっ、フリーライターの苗字さん? だ!」

 お手洗いを出たところで声をかけてきたのは、乾杯のとき隣に座っていた男だった。最初と印象が違って随分と馴れ馴れしいけれど、どうやらかなり酔っているらしい。
 わたしは「ライターではないです」ときっぱり否定して、さっさと通り過ぎようとした。

「ねね、二次会行きます?」
「いえ、わたしはこれで……」
「もし良かったら家まで送りましょうか?」
「え?」
「いや、苗字さんみたいなクソ真面目な子って珍しいから興味あって、それでちょっと聞きたいんですけど、まさか処女だったり──」

「お、いたいた。苗字さーん、なんか電話鳴ってますケド」

 振り向くと、宴会の席からひょっこり顔を出した黒尾くんがわたしのスマホを持って手を振っていた。うっかり机の上に置いてきてしまったらしい。慌てて駆け寄ると、去り際に男の舌打ちが飛んできた。

「あ、ありがとう──」

 と、受け取って画面を確認するとただのロック画面が表示されていた。あれ? 瞬いて顔を上げる。

「ごめん、嘘」

 嘘? 黒尾くんはやれやれと苦笑して、「あいつ酔っ払うとすぐ女の子にちょっかい出すんだよね」と男の背中を見送りながら、「送り狼には気をつけて」と警告してくれた。

「苗字さんはもう帰るの?」
「うん……」
「そっか……あーごめん、楽しくなかったよな?」
「ううん、そんなことないけど……」
「もしまた次があったら今度は俺の隣に座ってね」

 懐かしい話とか仕事の話も聞きたいし。黒尾くんはそう言って「じゃあおやすみ」と騒がしい宴の中に戻っていった。

 外に出ると雨が降っていた。傘なんて持ってなかったけれど、しとしとと雨に打たれて歩くのも案外心地よかった。
 しずかな雨音が、耳に残った喧騒を掻き消していく。グラスをぶつける音、誰かの咀嚼音、笑い声、コウエツ? へーすごい。大変そうですね。休みの日はなにしてるんですか? そんなんじゃ人生つまんないよ! 真面目すぎるとモテないよ? 飲ませすぎないでくださいよ、お友だちなんで。 家まで送りましょうか? クソ真面目な子って珍しいから、まさか処女だったりするの? 苗字さーん、なんか電話鳴ってますケド。

 ──ピロン、とスマホが鳴った。
 わたしはいつの間にかずぶ濡れで歩いていた。
 暗闇のなか光る画面には黒尾くんの名前が表示されていて、『言い忘れてたけど』というメッセージが届いていた。
 髪の毛からぽたっと雫が落ちて、画面を濡らす。拭うように通知をタップする。

『俺は苗字さんの真面目なところ、好きだよ』

 黒尾くんは、誰にでも優しい人。





 苗字さんから原稿が戻ってこない。催促するほど締切が近いわけでもないが、いつもきっちり一週間の余裕をもって仕上げてくる人だから少し引っかかるところがあった。
 俺はメッセージを送りかけて思い直し、電話を鳴らした。

『……はい』
「あ、苗字さん? 黒尾ですお疲れさま。進捗どんな感じ? いや全然催促とかじゃないんだけど、」

 ──げほっ、と小さく咳込む音。

『ごめん、少しこだわって見直したい部分があって』
「え、いやちょっと待って……もしかして体調悪い?」
『…………すみません、期日には必ず』
「いやいやいや、そうじゃなくて!」

 ただの風邪。咳だけ長引いちゃって。と言う苗字さんの声はどこか弱々しい。
 しかし彼女は普段からこんなふうだったような気もして、ますます判断が難しい。

「いつから?」
『……二週間くらい前、かな』
 ──飲み会の日じゃねぇか! 俺は頭を掻きむしった。

「あーその、大丈夫? 頼れる人とかいる?」
『…………大丈夫』
 ──本当に!? 俺はハラハラと気を揉んだ。

『じゃあ、仕事中なので……失礼します』

 ぷつんと通話が切れて、暗くなった画面と見つめ合う。 

──黒尾くんは、磁石みたいな人だから。

 高校のとき、目も合わさずにプリントを回してくる彼女に理由を訊けば、そんな答えが返ってきたことがある。
 俺にしてみれば磁石みたいなのは苗字さんの方だ、と思う。
 ほら、磁石の同じ色同士をくっつけようとしても全然くっつかないやつ、昔よく遊ばなかったっけ? 力尽くでも全然ダメで、近づいた分だけ離れていっちゃうの。まるで俺と苗字さんみたいじゃん。高校のとき唯一仲良くなれなかったクラスメイトなんて苗字さんくらいだし。
 でもさ、もし俺と苗字さんが本当に磁石同士なら、それって向きや角度を変えればくっつくってことなんじゃねーの?

 大人になった彼女は、相変わらず人と距離を取りたがる。歩み寄ろうとする人間を必要以上に突き放して孤立する。
 孤独が必要な人間もいる。孤独はときに休息になる。けれど、誰かを必要としているときに声をあげられない孤独というものは、ただの地獄だ。
 人は絶対に、一人では生きていけないのだから。

『…………大丈夫』

 消え入りそうな声。指先の震え。すぐに逸らす視線。連絡する隙も与えない完璧な仕事ぶり。しつこい男のあしらい方も知らない危うさ。
 さっき一度だけ聞こえた咳は、マイクが拾わないようにと顔を背けて必死に手で押し殺したものではなかったか。雑音のためではなく、俺に心配をかけないために──。

「ったく、どいつもこいつも……!」

 ちらっと時計を確認する。幸いこのあと何も予定は入ってない。手元の資料さえ仕上げればなんとか……。
 デスクに貼り付けた付箋には、彼女の住所が記されている。もちろんこれは個人情報で、郵送でのやり取り以外に使用するべきではないし、特に私的は厳禁だ。そんなことはわかっている。
 ただ、どうしても放っておけなかった。俺は一人の社会人である前に、ただの世話好きなのだ。余計なお世話? お節介? なんとでも言ってくれ。


 三階建ての賃貸マンションを見上げる。早急に仕事を片付けて、勢いのまま駆けつけてしまった。
 呼び出しボタンを押すと長い沈黙の後にロックが解除されたので、俺はひとまずホッとする。

「お届け物でーす」
「…………」

 軽くふざけた俺をじっと睨みつける苗字さんの顔色は案外すっきりとしていて、どうやら咳だけ長引いたというのは本当らしかった。

「……大丈夫って言ったのに」
「いやーちょっと顔が見たくなってね」
「受け取れませんよ、こんなに……」
「遠慮しなさんな。あなたのために買ってきたんだから」

 食べられそうなものを適当に詰め込んだビニール袋はなかなか受け取ってもらえず、「いりません」「んなこたないでしょうよ」「借りは作らない主義なので」「貸してるつもりないんですけど」と押し付け合っていると、そのうち「あら」と隣人らしきご婦人が現れて、すると苗字さんは一変、俺を部屋の中に引きずり込んだ。曰く、「あの人噂話が大好きなの」ということらしい。

「心配かけたのなら謝ります……ごめん」
「いや、元はと言えば俺が誘ったのがまずかった。ああいう集まりが苦手だってこと知ってたし、無理させるくらいならうまく断ってやればよかった」
「ち、違うよ……あの日わたし雨に打たれて……」

 今度は責任を引っ張り合って、やっぱり俺たちは似た物同士らしい。

「いつもこっちの部屋で仕事してんの?」
「あ、うん……」

 彼女の部屋はほとんど仕事部屋だった。
 壁一面にそびえ立つ本棚には多種多様の辞典や書籍がずらりと並び、机の上にはこれまた分厚い原稿がダブルクリップで束ねられていた。
 デスク周りには各社の路線図や大きなホワイトボードが貼り付けられ、物語の時系列のようなものを何度も何度も修正した跡があった。

「はは、こりゃすげぇ……」

 圧倒された。この空間は真摯に仕事に向き合う彼女の努力や姿勢そのものだ。そしてこの小さな身体には、俺の知らない世界や膨大な知識が詰め込まれているのだろう。
 俺は言葉を失い、同時に高揚感のようなものが込み上げてきた。
 理解わかるからだ。仕事に対する情熱、プライド、追求心……。
 引っ込み思案で多くを語らず、いつも孤独になりたがる苗字さんの内に燃える炎は、きっと青い。一見冷たそうに見えるその青は、赤く轟々と燃え盛る炎よりも熱いことを俺は知っている。音を立てず、静かに揺らめく青い熱。
 ──もっと知りたい。近づきたい。
 俺は興奮を抑えきれず、お見舞いに来たことも忘れて興味津々に部屋を見回した。

「これって初校? 赤ペンびっしり、すげぇ目がチカチカする」
「黒尾くん、あの、提出遅れててごめん……。今、他の案件も抱えて立て込んでて……」
「こっちに書いてあるのってスケジュール? 取引先ごとにこんなに細かく計画立てるんだ」

「ごめん、あの、仕事があるから……もう帰って」

 ──え?
 気づけば外に閉め出されていた。

 俺、近づきすぎた? 磁石、力尽くだった?
 女の子に「帰って」なんて言われたの、初めてなんですケド。





 仕事も体調もようやく一段落した頃、黒尾くんから「免疫力を高めに行きましょう」と食事に誘われた。
 金曜日の夜、連れて来られたのは薬膳火鍋が名物の創作中華料理店で、なるほど理に適った誘い文句だと思った。
 店内は落ち着いた雰囲気で、黒を基調としたシックな空間に、雷紋の装飾を施した木製のペンダントライトがぶら下がっていた。

「じゃあ、乾杯」
「……乾杯」

 グラスビールを鳴らし、一口。
 主に仕事の話をして、わたしは大学時代に始めた校閲のアルバイトをきっかけに出版社に就職したこと、人間関係が億劫になり独立したことなどをぽつぽつと打ち明けた。

「黒尾くんは、バレー一筋だよね」
「ええ、今はファンを増やすためにがんばってマス。まー俺の人生と言っても過言ではないね」

 夢を語る黒尾くんは、わたしにはとても眩しすぎる。

「毎日たくさんの人と向き合ってるんだよね……すごいな。わたしには絶対真似できないよ」
「苗字さんだって仕事好きでしょ?」
「好きっていうか……もともと読書が好きで、だから漠然と本に関わる仕事がしたいなと思ってなんとなく始めただけで……集中してると落ち着くし、それに完璧主義なところがあって、気になったらとことん調べないと気が済まないっていうか、そしたらいつの間にか何年も経ってて──」

 ハッとして顔をあげる。黒尾くんは優しい表情で頬杖をつきながら、わたしを見つめていた。

「すげぇじゃん。俺には絶対真似できないよ」

 わたしはどんな顔をしたらいいかわからなくなった。
 “すごい”という言葉に皮肉が込められていないことに、戸惑ってしまったのだ。

 メインの薬膳火鍋は中央がS字に仕切られた二色鍋で、真っ赤な酸辣湯とまろやかな白湯スープに漢方生薬とスパイスの香りが立っていた。

「高校んとき、苗字さんともっと話せばよかったわ。迷惑そうにしてたから嫌われてるのかと思ったんだよね」
「そ、そんなことないけど……」

 わたしは視線を落として、ぼんやりと火鍋を見つめた。ふたつに分かれたその形は、まるで陰陽の太極図のようだった。

「黒尾くんは“陽”の人だから……」
「ヨウ?」
「わたしは“陰”で根暗だから、話しても楽しくないよ。黒尾くんみたいに明るくなれないし……」

 黒尾くんが鍋に具材を入れ、野菜が左右に振り分けられていく。絶対に混ざらない赤と白のスープは、まるでわたしと彼のよう。

「なんで俺みたいになる必要があんの?」
 黒尾くんはコトン、と箸を置いた。

「別に変わろうとしなくていいし、変えられないんじゃね? そういう気質って脳の神経伝達物質の量で決まってるって言うし」

 黒尾くんが脳、とか言い出すものだから目を丸くしていると「魚が好きなもんで……」と妙なことを言って照れていた。

「それに楽しいかどうかは俺が決めるよ」
「…………」
「あと、俺も昔は引っ込み思案の人見知りだった」
「えっ」

 パッと顔をあげると黒尾くんはニヤリと笑っていて、「才能のある奴らに囲まれて焦ったり落ち込んだりしたこともある」と苦笑した。
 
「たぶん、誰しも“陽”の部分と“陰”の部分を持ってる。もちろん程度は違えど。さっき苗字さんすげぇ楽しそうに仕事のこと話してたの、気づいてた? 誰かと比べたり、自分や他人を無意味にカテゴライズして決めつけるのは、よろしくないんでない?」

 わたしは押し黙った。

「内向的な奴って驚くほどクリエイティブな一面を持ってる。まさに幼馴染がそのタイプでね。俺は何度もそいつに助けてもらったよ」

 黒尾くんは遠い目をして、青春時代に思いを馳せているように見えた。
 わたしにとって、黒尾くんは完璧な人だった。才能に恵まれて苦もなく生きているように見えた。けれど、黒尾くんだって誰かに助けてもらったことがある。いろんな人と関わってきた彼だからこそ他人に優劣をつけず、全ての人に敬意を持っているのかもしれない。
 わたしはずっと黒尾くんのことが羨ましかった。そして同時に、恨めしかった。
 授業で当てられて答えられなかったとき、黒尾くんは教室にいる全ての人を巻き込んで『ねぇ?』とわたしを庇ってくれた。無意識なのかと疑ってしまうくらいに自然に振りまく器用なその優しさが、わたしには痛かった。
 黒尾くんのように生きられたらどんなにいいだろう。わたしには絶対真似できない。けれど、黒尾くんもわたしの真似はできない。
 黒尾くんはわたしの強みを信じている。わたし自身が否定するわたしに、向き合おうとしてくれる。
 個性というものはどうしようもない。でもだからこそ、個性というものは素晴らしいのかもしれない。

「さて、そろそろ鍋がいい具合だよ」
「……黒尾くん」
「うん?」
「……あのとき、助けてくれてありがとう」

 黒尾くんはきょとんとして、それから「ああ飲み会のとき? いいってそんなの」とかぶりを振った。
 「それもそうなんだけど、高校のとき……」とわたしが説明すると「そんなことあったっけ?」とやっぱり覚えていないみたいだった。

「本当はずっとお礼を言いたかったの……だから遅くなったけど、ありがとう」

 見つめると、黒尾くんはじわじわと頬を赤らめて「……効くわー」とまた妙なことを言って顔を覆ってしまった。

 薬膳火鍋を食べると、身も心も温まるようだった。アルコールもほどよく回り、ふわふわと浮いてしまいそうになる。

「そういや、この赤と白のスープを混ぜるのがまた絶品なんですよ」
「えっ、そうなの?」

 半信半疑で小皿に取る。飲むと、いろんな旨みが複雑に絡み合い、不思議と絶妙な深みが生まれた。まさに革命の味。

「美味しい……」
「んね。もう陰とか陽とかどうでもよくなるっしょ」

 わたしはもうすっかり緊張もほぐれて、シメのラーメンまでお腹いっぱいに味わった。ぽかぽかと身体が温かい。本当に免疫力が高まった気がする。
 そうして最後にまた少し仕事の話をして、そろそろ帰ろうかという雰囲気に寂しさを覚えていたとき、

「──あれ、黒尾じゃん!」

 突然、店内に入ってきたグループの一人が声をあげた。見ると、同年代の男女数名もこちらを見てあっと声をあげていて、それはどこか見覚えのある顔ぶれだった。

「うおっ! めっちゃ久しぶりー!」

 黒尾くんも嬉々と立ち上がって声をあげた。わたしが気圧されて固まっていると「ほら、四組の! 隣のクラスの奴らだよ」と説明してくれたけれど、もちろんそこにわたしの友人はいないのだった。

「なになに、プチ同窓会的な?」
「そうそう! これから二次会でさ〜」

 黒尾くんはあっという間に囲まれて、わいわいと賑やかだった。
 「苗字さんごめん、ちょっとだけ席外してもいい?」と訊かれたので頷くと、黒尾くんは同級生とともに少し離れた席に移動した。
 隣のクラスの同窓会にも馴染めるなんて、やっぱり黒尾くんはすごい。わたしは気付かれもしなかった。
 何もすることがなくなって、わたしは冷めた鍋に視線を落とした。いつかわたしも、あんなふうに黒尾くんと食事をしてみたい。仕事仲間ではなく友達として。そして叶うのなら、友達ではなく──。
 わたしは伝票を取って、店を出た。


 歩いていると、すぐに黒尾くんから着信が入ったのでびっくりしてしまう。『いまどこ!?』というメッセージを見るに、勝手に帰るべきではなかったようだった。
 戸惑っているうちに『ごめん怒った?』と追って連絡が飛んできて、「あ!」と後ろから声がしたかと思うと、黒尾くんが大慌てで駆けてきた。

「ごめんっ、苗字さん、ホントごめん……!」
「あ、あの、怒ってないです……」
「……え?」
「食事は済んだし、黒尾くんが友人と合流したから邪魔しちゃ悪いと思って……」

 黒尾くんは肩で息をしながら唖然として、「ないないない! なんだよそれ……!」と顔を真っ赤にした。

「俺がいないうちに会計まで済ますって、スマートな男みたいなことしないでくんない!?」
「……ごめん、どういうこと?」
「あああもう!! とにかく俺は今日苗字さんを誘って苗字さんと食事に来たんだから、途中で置いていくなんてありえません!」

 黒尾くんが珍しく取り乱しているので、わたしは圧倒されてしまう。

「どうする? 苗字さんさえ良かったら、この後どっか別の場所で飲み直す?」

 次は払わせて、と言われたけれど、わたしはこの後があるなんて思ってもみなかったから「帰ろうと思ってた」と言ってしまった。

「そっか。じゃあ送らせて」

 二人並んで帰り道を歩く。黒尾くんは、どうしてわたしを送ってくれるのだろう。
 電車に揺られる彼の横顔を盗み見ても、当然答えは書いてない。“送り狼には気をつけて”と、彼は教えてくれたけれど……。
 夏の日暮れはゆるやかに、辺りはようやく夜に包まれていくけれど、金曜日の夜はまだまだ終わらない。
 黒尾くんの腕時計が動かなくなればいい。



「戸締りはしっかりしなさいよ」

 家の前で黒尾くんがお母さんみたいなことを言うので、わたしはぽかんとしてしまった。
 「あら」と声がして振り向くと、噂好きの隣人がマンションから出てきたところだった。ゴミを捨てに来たらしい。
 黒尾くんはハッとして、すぐに体のいい笑顔で「こんばんは〜」と挨拶すると、「じゃあまた」とわたしから離れていった。

「……黒尾くんは、どうしてわたしのことを誘ってくれたの?」

 ぽつり、と呟いてみる。
 黒尾くんはギョッとして、遠ざかる隣人とわたしを交互に見て狼狽えていたけれど、わたしの目にはもう黒尾くんしか見えていなかった。

「いやあの、仕事仲間だし、これからもよろしくっていうか、病み上がりだし、免疫高めないと心配っていうか…………」

 黒尾くんはだらだらと汗をかいて、しどろもどろになっていた。
 
「いや、ダセェな……ごめん。正直に言うと、苗字さんのこと気になってて、デートのつもり……だったんですケド」

 わたしの心はじんわりと温かくなって、覚悟を決めた指先がわずかに震えた。

「……わたし今日、本当は、もうちょっと一緒にいたくて……だからもう少し、一緒にいたい、です」

 浮かれたわたしは重複表現にも気づかない。
 黒尾くんの表情はわからないけれど、息を呑む音だけが、俯いたわたしの耳にはっきりと届いた。

「いや、今日は…………また今度、誘います」

 諭すような声色に、わたしはかーっと熱くなった。
 黒尾くんはきっと、いろんな女性とデートしているに違いない。だからそもそも間に合っているのだ。門前払いなのだ、わたしなんて。

「わ、わたしなんてどうせ『I』で砂鉄で教室の隅のほこりの塵で『陰』で処女でそれは古代から決められた宇宙の摂理で……!」
「──ちょいちょいちょい!! なに言ってんの!?」

 わたしはめそめそ泣き出して、本音を彼にぶちまけた。
 黒尾くんは人気者でモテるから、わたしのことなんて好きにならない。けれど黒尾くんは優しくて、教室で恥をかいたわたしを庇ってくれるし、お冷グラスに注がれた焼酎を飲んでくれるし、酔った男に絡まれたところを助けてくれるし、真面目なところ好きだよとメールをくれるし、風邪気味のときに駆けつけてくれるし、二人きりの食事に誘ってくれるし、わたしのダメなところを叱ってくれるし、向き合ってくれるから、全然諦められなかった。
 だから、黒尾くんが狼に化けてもいいと思った。叶わないのならせめて一度だけでも……と淡い気持ちで勇気を振り絞ったのに空回りしてしまった。と。
 黒尾くんは驚いてしばらくぽかんとしていたけれど、すぐにわたしの手を取って、やれやれと深くため息をついた。

「そうやってすぐ自分を蔑まないの」
「ごめん……癖なの」
「俺、こう見えて結構一途だから」

 黒尾くんの両手が、わたしの両手を包み込む。

「気になる子がいたら積極的にデートに誘うし、他の女の子と出かけたりもしない。もちろん狼にも化けない」
「……うん」
「一度だけなんて悲しいこと言わないでさ、また俺とゆっくりデートしてくれませんか」

 大切にしたいから、苗字さんのこと。

 黒尾くんはそう言ってわたしの頭を撫でると「あ、戸締りしっかりね」とまたお母さんみたいなことを言って帰ってしまった。

 わたしは帰宅してきちんと鍵をしめると、デスクの上に置いてある原稿を退けて白いA4用紙を広げた。
 丸い円を描いて、真ん中をS字で仕切って色を塗った。『革命スープのレシピ』と文字を添えて。
 そしてキッチンの奥からありったけの調味料を引っ張り出して、コトコトと鍋を煮出した。
 金曜日の夜は、まだまだ終わらない。



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