わたしが廊下を歩いていると、向こうから黒名くんが歩いてくる。黒名くんもわたしに気がついて、わたしたちは「あ」と声を出さずに一瞬見つめ合って、目を逸らした。
 すれちがう瞬間にもう一度ちらっと黒名くんを見ると、黒名くんもわたしを見ていて、また目が合った。
 どちらからともなく会釈をする。こくり、と軽く頭を下げるだけの、他の人にはわからないくらいの、ささやかな合図。

 わたしと黒名くんのぎこちない関係は、ひと月前の雨宿りから始まった。

 その帰り道、遠くのほうで雷が鳴っていた。ぽつ、と頬に雨がかすめて、ひとり空を見上げると、真っ黒い雲が風にのって、みるみるうちに辺りを覆い尽くし、やがて大粒の雨が降ってきた。
 走っているうちにたちまち前も見えないほどの土砂降りになってしまったので、わたしは諦めて屋根がある場所を探すことにした。
 ちょうど近くにバス停があって、箱を半分切り取ったような待合小屋があった。そこを目指して走っていると、後ろから水たまりを踏んづける足音が近づいてきて、あっという間にわたしを追い抜いていった。
 その人は同じ高校のジャージを着ていて、タオルをかぶっていたから顔はよく見えなかったけれど、男の子で、とても足が速かった。
 彼も待合所へ駆けていって、わたしも後を追うように、ほとんど同じタイミングで屋根の下に逃げ込んだ。
 目が合って、わたしは「あ」と声を出さずに驚いた。
 黒名くんだ。同じ一年生でありながら、すでにサッカー部のレギュラーで、エースの座まで脅かしているという、ちょっとした騒動を巻き起こしている男の子。
 彼のことはもちろん知っていたけれど、わたしは男の子と話すのが得意ではなくて、とくに黒名くんのように感情を表に出さない人は気難しそうで苦手だったから、ベンチが二つだけ横並びになっているこの狭い空間はとても居心地が悪かった。黒名くんも同じように感じているのか、わたしの方をちらりと確認してさりげなく距離をとっていた。トタン屋根に打ちつける雨音が沈黙をかき消していなかったら、わたしはきっとこの場から走り去っていたことだろう。 
 仕方なく、わたしたちはベンチに腰を下ろした。わたしはハンカチで顔を拭って、黒名くんは頭にかけていたタオルを絞っていた。それから、なにやらリュックのなかを探っていたけれど、ふと思いとどまって、結局なにも取り出さずに、固く絞ったタオルで身体を拭き始めた。
 落ち着かないのか、黒名くんがそわそわしているのが横目に映ったけれど、たぶんわたしも、彼の目には同じように映っているのだと思う。

 雷が近づくにつれて、夕立は激しさを増していった。街からはすっかり人の気配が消え、勾配に沿って流れる雨水がちゃぽちゃぽともの悲しい音を立てている。
 わたしと黒名くんは二人きりだった。まるで世界から取り残されてしまったみたい。
 波のようにうねる豪雨をやるせなく見守っていると、一閃、目の眩むような稲妻が雨空に走った。それは一瞬のことで、あっと声をあげる間もなく、空を引き裂くような雷鳴が鼓膜を突き抜け、地響きが心臓を揺さぶった。
 わたしも黒名くんも、無意識に顔を見合わせた。びっくりして目を見開いて、たぶんお互いに「今のすごかったね」とか「どこかに落ちたのかな」とか話したかったのだと思うけれど、とうとう切り出せずに前に向き直ってしまった。わたしたちはぎこちなくて、なんだか逆に不自然だった。
 雷は絶えず鳴り続けていて、どんよりとした雲の隙間にフラッシュのような稲光が瞬いている。
 黒名くんは空を見上げて、わたしも空を見上げた。
 あの電撃をくらったらひとたまりもないんだろうな、と心配性のわたしは想像してしまう。心なしか肌がぴりぴりするような気がして、ひそかに身震いしていると、
 
「……これ、使う?」

 黒名くんの低い声は、騒がしい雨音のなかでも不思議と明瞭に聞こえた。
 振り向くと、黒名くんはタオルを差し出していて、どうやらリュックから取り出したものらしかった。

「え、でも……」

 突然話しかけられたことや、気が引けるような心遣いに戸惑っていると「風邪引く、風邪引く」と二回も念を押されてしまったので、わたしはおずおずとタオルを受け取った。

「ありがとう……」
「ん」

 ハンカチでは間に合っていなかったので、正直ありがたかった。
 濡れた肌にタオルをすべらせると、ふんわりと柔軟剤の香りが広がった。その瞬間、ベンチの端と端という距離が急に近くに感じられて、わたしの心臓は静かに鳴り出した。
 それから黒名くんはスマホでサッカーの動画を見始めて、わたしは大人しく空を見上げていた。そうして気まずい沈黙をやり過ごしているうちに、雨はピークを過ぎて、雨音も落ち着いてきた。

「あの、タオルありがとう」

 ほとんど傘もいらない小雨になったところで立ち上がると、黒名くんは「ああ」と思い出したようにイヤホンを取って、わたしを見上げた。

「洗って返すね」
「いや、いい」
「でも……」
「大丈夫、大丈夫」

 余計なことをして迷惑をかけたくなかったので、わたしは申し訳なく思いながらも素直にタオルを返した。

「じゃあ……」

 頭を下げると、黒名くんも小さく頭を下げてくれた。わたしはもう一度お礼を言って、湿ったアスファルトを踏みしめて歩き出した。
 黒名くんって寡黙で無愛想な人だと思っていたけれど、案外優しいんだな。いいことを知ったような気がして、わたしはスキップしながら帰り道を歩いた。
 そうしているうちに、ふと気がついた。
 頭にかけていたびしょ濡れのタオルを絞って、リュックのなかを探っていた手は、あのタオルを探していたんじゃないだろうか。新しいタオルはひとつだけで、横にいるわたしが小さなハンカチで身体を拭いていることに気がついて、思いとどまって手を止めたのだ。それから固く絞ったタオルで自分の身体を拭いて、そわそわしていたのは、わたしに話しかけるタイミングを見計らっていたんじゃないだろうか。初対面で気まずい沈黙のなか、勇気を出して声をかけてくれたのだ。わたしのために。

 わたしは胸がいっぱいになって走り出した。いつの間にか雨は上がっていた。
  



 そんな出来事があって、わたしと黒名くんは曖昧な関係になった。
 気軽に挨拶をするような仲ではないし、かといって無視するわけにもいかず、学校で見かけるたびにお互いなんとなく会釈をしてやり過ごしていた。

 そんなある日の帰り道、わたしは強いデジャヴを感じた。
 遠くのほうで雷が鳴っていた。ぽつ、と頬に雨がかすめて、ひとり空を見上げると、真っ黒い雲が風にのって、みるみるうちに辺りを覆い尽くし、やがて大粒の雨が降ってきた。
 走っているうちにたちまち前も見えないほどの土砂降りになってしまったので、わたしはいつかと同じバス停の待合小屋を目指して走った。
 すると、後ろから水たまりを踏んづける足音が近づいてきて、その人はわたしを追い抜いて、振り返った。まさか、と思ったらやっぱり黒名くんで、黒名くんもびっくりしていた。
 わたしたちは土砂降りのなか、顔を見合わせて、少し笑って、一緒に走った。
 屋根の下で水滴を払っていると、黒名くんがリュックからタオルを出してくれた。
 「今日は持ってるの」と言って、タオルを取り出して見せると、黒名くんは「そうか」と言って、また少し笑ってくれた。
 雷が近づくにつれて、夕立は激しさを増していった。ベンチの端と端に座るわたしと黒名くんは二人きりで、また世界から取り残されてしまった。

「あの、この間は、ありがとう」

 思い切って声をかけたけれど、トタン屋根に打ちつける雨音が騒がしくて、「ん?」と聞き返されてしまった。
 大きな声を出すのは恥ずかしくて、わたしは少し距離を詰めて、今度ははっきりと口を開いた。

「この間は、ありがとう」
「ああ、うん」

 自分が使おうと思っていたタオルを貸してくれたことや、勇気を出して声をかけてくれたことに対してお礼を言いたかったのだけれど、うまく言葉にできなくて、結局それしか言えなかった。
 そして、わたしは前に向き直って、ハッとした。少し詰めてしまった距離を、いったいどうやって元に戻そう。この絶妙な距離感は絶妙に緊張してしまう。けれど、またベンチの端に座り直したら感じが悪いのではないだろうか。
 結局悩んでいるうちにタイミングを逃して、わたしと黒名くんは一人分のスペースを空けたまま並んで座っていた。
 気まずい沈黙のなか、波のようにうねる豪雨を見守っていると、一閃、目の眩むような稲妻が雨空に走った。いつかと同じ、空を引き裂くような雷鳴が鼓膜を突き抜け、地響きが心臓を揺さぶった。
 わたしも黒名くんも、びっくりしてまた顔を見合わせた。

「今のすごかったね……」
「どこかに落ちたな」

 黒名くんがしげしげと空を見上げて、つられてわたしも空を見上げた。
 雷は絶えず鳴り続けていて、どんよりとした雲の隙間にフラッシュのような稲光が瞬いている。
 
「人に落ちることはめったにないぞ」

 突然、黒名くんがそんなことを言った。振り向くと、感情の読めない無表情のなかに、でもどこかおもしろがるような茶目っけを感じた。
 わたしはハッとして、無意識に自分を抱きしめていた腕を下ろした。

「わ、わかってるよ……」
「そうか。悪い、悪い」

 黒名くんはとぼけているけれど、今、わたしは確かにからかわれたのだ。
 同い年の男の子らしい生意気な態度にムッとして、けれど、心を開いてくれたのだと思うと責めきれず、わたしは複雑な気持ちでむくれた。

「でもね黒名くん。絶対に大丈夫とは言い切れないよ。実際にそういう事故が世界中で起きてるんだから」
「まあ、そうだな」
「もしも今、わたしか黒名くんに雷が落ちたら大変なことになるよ」
「そうだな」
「最悪死んじゃうし、きっとものすごく痛いよ……」

 わたしはぶるっと身震いした。
 
「電紋」
「え?」
「電紋っていう、火傷の跡が残るらしいぞ」

 黒名くんはケロッとした顔で、スマホで調べた痛ましい画像をわたしに見せつけた。
 わたしが「ひいっ」と青ざめると、黒名くんは「ちょっとカッコいいだろ」なんて不謹慎なことを言う。どうして男の子ってこういうのが好きなんだろう。うんざりした気持ちでいると、その時ちょうど、ゴゴゴ、と唸るような雷鳴が聴こえた。心なしか肌がぴりぴりするような気がして、わたしはいよいよ恐くなった。

「大丈夫、大丈夫」

 ふと、黒名くんが手を差し出してくる。なんの脈絡もないその手を、わたしはぽかんと見つめ返した。

「雷が直撃しても無傷だったカップルは、手を繋いでいたらしい」

 いったいなんの話だと思ったけれど、とにかく手を繋ごうと言われていることはわかった。
 わたしがびっくりして「えっ」と顔を赤らめると、飄々としていた黒名くんもようやく動揺して、ばつが悪そうに眉をひそめた。

「……変な意味はない」
「あ、う、うん」

 そして、小さな子どもの手を握る母親のように、階段でエスコートする紳士のように、黒名くんはわたしの手をとった。
 黒名くんの手は思ったよりも大きくて、力強い厚みがあった。男の子の手だ、と思うとじわじわ滲むように頬が熱くなってくる。
 変な意味はない。わたしたちはカップルではないし、健全な握手の形だ。これは、安全のためなんだよね? ちらっと横目で確認すると、黒名くんの耳もほんのり赤く染まっていて、なんだか見てはいけないものを見てしまったような気持ちになった。
 雨に濡れた互いの手のひらがしっとりと吸いついている。少し遠くなった雷鳴に耳を澄ませて、どこか寂しいと感じてしまうなんて、わたしはなんて勝手なのだろう。
 



「アイス買おう」

 黒名くんはそう言って、コンビニに立ち寄った。
 雷雲が去って、ぎこちない手を離したあと、わたしたちはなんとなく一緒に帰っていた。雨上がりはじめじめと蒸し暑かったので、わたしも賛成してソーダ味のアイスを買った。
 雨に濡れた服も髪も湿っぽくて鬱陶しかったけれど、わたしと黒名くんはお揃いのアイスをひと口齧って、そのキンとした冷たさに感動して顔を見合わせた。

「おいしい〜」
「生き返る、生き返る」
「なんだか散々な一日だったね」

 帰り道を歩きながら、ガリガリと氷菓を噛み砕く。口の中で溶けて、すっきりとした甘さが広がっていく。
 夏が終わる、と思った。黒名くんと初めて雨宿りをしたときから月日は流れ、やがてわたしたちを引き合わせる夕立もなくなってしまうだろう。

「──そうでもない」
「え?」
「ちょっと特別な日が、かなり特別な日になった」

 黒名くんは意味ありげに微笑んで、けれどわたしはぽかんとしていた。
 
「おーい黒名ァ、なにしてんのー?」

 遠くのほうで誰かが黒名くんを呼んでいる。振り向くと、同じ高校の制服を着た男子生徒が数名、自転車を押したりサッカーボールを抱えたりしながら手を振っていた。サッカー部の人達だろうか。

「先輩ん家で昨日の試合観ようぜー、プレミアリーグ!」

 黒名くんはアイスの棒をくわえたままグッと親指を立てた。そしてわたしに向き直ると、「じゃあ」と手を振って仲間の元へ駆けて行くのだった。

「なんだよ彼女かー?」
「ちがう、ちがう」
「やるなぁ〜」
「ケーキ買ってこーぜ」

 左右から仲間にど突かれながら歩く黒名くんの姿はなんだか微笑ましい。その背中が特別きらきらと輝いて見えるのは、フラッシュのような雷の残像が未だ目に焼きついているからだろうか。
 いや、もしかしたら、わたしはすでに感電しているのかもしれない。目に見えない静かな電流がぴりぴりと胸を焦がして、身体がふわふわ浮いてしまいそうなのは静電気のせいで、だからわたしの心臓にはきっと、電紋が刻まれているに違いない。
 そんなことを考えながら空を見上げると、すっかり晴れた青空に、うっすらと虹が架かっていた。

 ──そういえば、

『ちょっと特別な日が、かなり特別な日になった』

 あれはいったいどういう意味だったんだろう? わたしはアイスの棒をくわえたまま、はて、とひとり首を傾げた。
 けれど、そう遠くない未来にその答えを知るような気がする。そんな予感が、あの虹の向こうから微かに聴こえてくる。


2024.09.06
Happy Birthday!


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