※エセ関西弁
「侑」
授業中、シャーペンで背中をつつかれる。ちょうど黒板が消されそうになって、必死に書き写している最中だったので、侑は「あん?」と適当に耳を傾けてやった。
「あんな、うちな……」後ろの席の苗字名前はもったいぶるように口を開く。どうせまたしょうもないことやろ。侑の意識はほとんどノートに集中していた。
「ミラノに帰ることになってん」
ぴた、と手が止まる。ミラノに帰ることになってん。侑は頭のなかでくりかえした。静かな、でもはっきりとした声。ミラノ。厳かな
名前はじっと息をひそめて、侑の言葉を待っている。
侑は最初、名前のことを頭のおかしな女だと思っていた。
稲荷崎高校の入学式に、名前はカラータイツを履いてきた。鮮やかなビビッドカラーに生徒はざわめき、目を白黒させた教師は彼女の腕を引っ張ったが、カラータイツはたちまち大流行した。同級生のみならず、他校の生徒にまで影響が及ぶほどだった。
髪型は日替わり定食。ポニーテール、ツインテール、どうなってんねんそれと侑がギョッとするような編み込みヘア。手先の器用な彼女に女子達は「名前ちゃんうちにもやってー」とよく甘えていたし、体育祭の朝なんかは行列ができていた。
クラスTシャツはもちろん名前のデザインで、ド派手なメガホンやネームボードも全て彼女を筆頭に製作されていた。ぽろぽろと教室の床に散らばるスパンコール。生き生きとした瞳。
つまり、ちょっと奇抜なほどに、名前はファッションを愛していた。聞けば、彼女の父はミラノに腰を据えるデザイナーで、母はモデル業を生業にしていたというので、そんな二人の娘が「将来はパパみたいなデザイナーになんねん」という夢を抱くのは当然のことだった。
毎日ファッション誌を読み耽る名前の姿に「ようやるわ」と呆れながら、実は侑は感心していた。抜きん出た美的センスと確かな情熱。頑固なまでの高い志はどこか自分と通ずるものがあった。きっと名前は夢を叶える。そう確信していた。
「……いつ?」
「夏休み中。九月には新生活や」
侑が動揺したのは、厳密にいえば、名前がミラノに帰ることではなかった。
名前の父はイタリア人で、名前は幼少期をミラノで過ごしたから、「帰る」という言い方も正しかったし、遅かれ早かれ彼女が旅立つことはわかっていた。
けれど、でも、高校は一緒に卒業するものだとばかり──。
「……ほーん」
結局、侑はそれしか言えなかった。名前が「うん」とつぶやくと、そこで会話が途切れた。
だいたいなんでそんな話、授業中にすんねん。と思うとようやく腹が立ってきたが、それは都合よく怒りのやり場を見つけただけに過ぎなかった。
いつの間にか教室が騒がしくなっている。どうやら授業が終わったらしい。結局、侑はほとんどノートをとることができなかった。
「いやや、泣かんといて!」
突然、いつもの調子で名前が肩をど突いてきた。
「なっ、泣いてへんわ!」
侑が勢いよく振り返ると、名前はけらけらと笑って、包み紙から取り出したガムを噛んでいた。そして「餞別や」とあべこべなことを言って、侑の手のひらに包み紙を乗せた。
「って、ただのゴミやないかい!」
「あははっ」
すたこらさっさと逃げる背中に、「なんやねん……」とぶつぶつ文句を言いながらなんとなく包み紙を広げてみると、まるっこい字で『アホ』と書いてあった。
「あのクソ女!」
センチメンタルもどこかへ吹っ飛んでしまった。
名前と侑は稲荷崎高校で出会って、一年から同じクラスで過ごしてきた。
お調子者の二人がいる教室はいつも賑やかで、二人がいがみ合う光景はもはや名物といっても過言ではない。侑がおちょくると名前が噛みついて、名前がおちょくると侑が吠えた。
「仲良しだね」と言われると「どこがやねん!」と決まって口を揃えるが、周りからするとやはり夫婦の痴話喧嘩にしか見えないのだった。
「ったく……」
侑は『アホ』と書かれたゴミをぐちゃぐちゃに丸めて、後ろの席に目をやった。
誰もいない。もうすぐこの景色が当たり前になる。それは侑にとって、にわかに信じられないことだった。
◇
「そうなんや、寂しくなるなぁ」
「名前ちゃんおらんとつまらんもん」
休み時間の教室。名前はクラスの女子に囲まれていた。
名前が夏休み中に日本を発つことはたちまち広まって、日々別れを惜しむ声で溢れている。
たまたま聞こえてきた話によると、どうやらミラノで暮らす父の体調が悪くなり、軽快したものの、日本でおろおろ涙を流す母を見ていられなくて、名前自ら帰国を提案したのだという。母が日本にとどまる理由は名前の卒業だけなので、足枷にはなりたくなかったのだと。
「それに、うちもパパが元気なうちにたくさん学んでおかんと」
「トラムに乗って、路地裏巡って、いろんな生地に触れたいんよ」
名前はちっとも寂しくなさそうで、むしろ希望に満ちていた。
「じゃあ夏休みはいっぱい遊ぼうな」
「思い出づくりや」
「夏祭りまではこっちおるん?」
「うん、おるよ」
「じゃあみんなでお祭り行こうや」
夏祭りまでは日本におるんや。ほーん。クラスの女子らとお祭り行くんや。ほーん。侑はスマホでカレンダーを眺めた。
もちろん、たまたま聞こえてきただけだ。別に聞きたくなかったのに、聞こえてきてしまった。それだけの話。
「なーにしんみりしとんねん」
女子会を終えた名前がにやにやしながら侑の肩を叩く。
「誰がやねん」
「寂しくなるなぁ、侑くん?」
「はぁ〜? そっちやろ」
「なっ、なんでうちが?! そっちやろ!」
「いーや、そっちや!!」
「おっ、始まった」と誰かがつぶやく。
二年二組は今日も騒がしい。
◇
夏休みの部活中、侑が珍しくそわそわしているので、治はすぐにピンときた。
「なんや夏祭りに好きな子でも来るん?」
「は、……はぁ〜〜ッ!?」
好きな子てなんやねん。別に好きとかちゃうし。祭りとか嫌いやねん暑いしだるい。てか今日夏祭りなんや知らんかった。全然知らんかった。
そんな言い分をとりあえず聞いてやった治は、これ以上おもしろがると拗ねて行けなくなる侑の性格を知っているので、「ええなあ、焼きそば食いたい」と仕向けてやった。
「せや、俺が買うてきたろか? ったく、しゃあなしやで」
わざとらしいため息をつきながら、嬉々として自主練を切り上げる片割れの背中を見送った治は、「しゃあないやつやなぁ……」とひとりごちると、何事もなかったかのように練習を再開した。
侑は練習着にスポーツバッグを斜めがけして、いかにも部活終わりですという格好で夏祭りにやってきた。
汗を拭いながら人混みをかきわける。家族連れやカップル、浴衣を着た女子グループも見かけたが、それらしい人物は見当たらない。
いや別に、誰かを探しとるわけやないし。サムにおつかい頼まれただけやし。と言い訳しながら焼きそばをふたつ買った。
紅白の提灯がぼんやりと点灯している。辺りはうす暗くなり始めて、いよいよ人も増えてきた。さすがに厳しいわ──と諦めかけたとき、
「侑?」
振り返ると、しっとりと艶やかな浴衣に身を包む名前と目が合った。髪をまとめあげて、きちんと衣紋を抜いて、日本人らしく着こなしている。
侑が時を止めてしばらく見惚れていると、見つめ合う二人に気づいたクラスメイトの女子達が「きゃあ!」と一瞬騒いで、それから静かにその場を去っていった。
「な、なにしとるん?」
「なにって、別に、焼きそば買うただけやし」
「そうなんや……」
沈黙。
「お前、いつ行くん?」
「……あさって」
「……ふぅん」
沈黙。
侑はなんだか無性にイライラして、浴衣を着ているせいでいつもよりおしとやかな名前に八つ当たりしたい気持ちでいっぱいになった。
名前が「うん」とつぶやく。会話が途切れる。背中をなぞるような声。授業中、彼女が初めて帰国することを打ち明けたときと同じ、背中をなぞるような声。
侑は最初、なんでそんな話授業中にすんねんと思ったが、その理由が今、少しだけわかるような気がした。
名前は表情を固く結んで、自分の足元を見つめたままじっと動かない。わずかに口元が動いているのは、ガムを噛んでいるからだろうか。
「まあ、あれや、つまり……」
侑はもごもごと言葉を詰まらせて、ふいに顔をあげた名前と目が合うと、なるべく勢いをつけて叫ぶのだった。
「風邪引くなよ!!」
突然の大声に名前はぽかんと呆気にとられて、それからぷっと吹き出した。
「なんやねんそれ」
「はなむけの言葉や。ありがたく思え!」
「ずうずうしいやつやなぁ」
名前はひとしきり笑ってから、「元気でな、侑」と言った。侑は目頭にぐっと力を込めて、「おん」と返した。
「お互い、夢叶えようや」
こつんと拳をぶつけ合う。そして二人は背中を向けて、それぞれの道を歩き出した。
侑はまだほのかに温かい焼きそばをぶら下げて帰り道を歩きながら、よかった、と思った。よかった。最後に話ができて、よかった。顔が見れて、よかった。これでよかったんや──。
「侑ーーーっ!!」
突然、後ろから名前を叫ばれる。振り返ると、さっき別れたばかりの名前が浴衣を乱して、必死に後を追いかけてきた。
侑はびっくりして、ただ目の前の、息を切らして駆けてくる女を見つめた。
「な、なんや、どないしたん?」
「一個、言い忘れたことがあってん……!」
名前は肩を上下させて呼吸を整えると、「これ、餞別や!」とあべこべなことを言って、侑の手のひらに丸めたガムの包み紙を乗せた。
「は、はあっ!? おま、ふざけんな!!」
「うちからのはなむけや! ありがたく思えよ!」
「どこがやねん! ゴミはゴミ箱に捨てろや! おい待てこのクソ女!」
名前は晴れやかな顔を上気させて、大きく手を振って、嵐のように去っていった。
「なんやねん……」
最後の最後までいけ好かんやつ。侑はふんと鼻を鳴らして、押しつけられたゴミをスポーツバッグに突っ込んで歩き出した。
ま、らしいっちゃらしいか。奇想天外な名前との出来事を思い返しながら、侑は心から彼女の健闘を祈るのだった。
◇
「っしゃオラァァ!! も一本!!」
むせ返るような体育館に、侑の怒声が響き渡る。
「なんなんあれ。頭おかしなったん?」
「知らん。もともとやろ。暑苦しい」
タガが外れたような的外れな気合いの入り方に仲間たちは気味悪がっていたが、治には全てわかっていた。
「ちゃう、あれは
キュッと床を踏み切る足に力が入りすぎているのを見て、治はため息をついた。
「ツム、休憩や」
「うっさいボケ! 邪魔すんなや!」
「水分取れ言うとんねん」
「いらん!」
「熱中症なめんなよ」
半ば押さえつけるようにして暴れ馬を座らせると、双子は体育館の隅っこで、黙り込んだままスポーツドリンクを呷った。
先に沈黙を破ったのは治だった。
「……うつつ抜かすなよ」
「はあ? 誰がやねん」
「二兎を追うものは一兎をも得ず言うやんか」
「やかましいわ」
侑は小さな声を精一杯尖らせて立ち上がった。いったいどこから沸いてくるのか、侑にはこの怒りの正体がわからない。治に全て見透かされているのだと思うと、余計に腹が立ってくる。
──今日だけ。今日だけや。
誰にともなく頭のなかで言い訳をして、侑は自分のスポーツバッグを引き寄せた。
今日、名前は日本を発つ。何時とかどこの空港とか、そういう細かいことは知らん。けどとにかく、名前は遠い国へ行ってしまう。
侑はどうしようもない感情を押し殺して、むしゃくしゃしながら手探りでタオルを探した。すると、ぽろっと何かが床に落ちた。
「あん?」
拾ってみると、それは名前が最後に押しつけてきたガムの包み紙だった。バッグに突っ込んだまますっかり忘れていたらしい。
「ったく、あのクソ女……」と悪態をつきながら、なんとなくそれを広げてみる。
『好きや』
──と、書いてあった。
まるっこい字で、へたくそな字で。
「……ツム?」
紙くずを握りしめたまま微動だにしなくなった侑を見て、不思議に思った治がその顔を覗き込む──と、侑は突然、弾かれたように体育館を飛び出していった。
なんやねん。治はなんの脈絡もなく青空の下に駆けていった奇想天外な背中を見送って、首を傾げた。
「俺もやーーーーーっっ!!」
やがて、大きな叫び声が空に跳ね返り体育館にまで響き渡った。仲間たちがびっくりして、なんだなんだと扉の前に集まると、グラウンドの中心で両手を広げて降り注ぐ太陽の光を全身で受け止めている男がいた。
「なんなんあれ。頭おかしなったん?」
「知らん。もともとやろ。暑苦しい」
いぶかしがる仲間たちに、治は言った。
「──たぶん、もう大丈夫や」
やれやれと片割れの姿を見つめる瞳には、宿命的な友愛の色が滲んでいた。
侑は天を仰いで身も世もなく咽び泣いていた。それは見事なまでの男泣きであった。
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